第1回が「数える対象が要る」と書いた ── その対象の、候補が出ます
第8回で、未解決の一覧を三種類に分けました。技術的なもの、選択の問題、そして本質的なもの。最後の箱に残ったのは2つだけでした ── 「地平面の Carrollian 理論の状態数は \(e^{A/4G}\) を与えるか」と「\(\Lambda>0\) のホログラフィーは何か」。
この回で扱うのは、その2つが別の問題なのかという問いです。結論から言うと、同じ問いに見える理由がはっきりあり、同じだった場合の答えは一文で書けます。
ただし、同じでない可能性も3つあります。そして分野自体が、この点で二派に割れています。
第7回で確立したことを思い出してください。
ヌル超曲面 \(\Longrightarrow\) 計量が退化 \(\Longrightarrow\) Carroll 多様体
この議論はヌル性しか使っていません。そして de Sitter 空間の宇宙論的地平面も、ヌル超曲面です。 静的パッチの果て、観測者が原理的に情報を受け取れなくなる面。
さらに Gibbons–Hawking (1977) が示したとおり、この面は温度とエントロピーを持ちます。
ブラックホールと、まったく同じ式です。
つまり第7回で「宇宙には Carroll 面が2枚ある」と書きましたが ── 3枚でした。
| ヌル面 | 面積 | そこに理論が乗れば |
|---|---|---|
| \(\mathscr{I}\)(光的無限遠) | 無限 | 平坦時空のホログラフィー |
| ブラックホール地平面 | 有限 | ブラックホールのエントロピー |
| de Sitter 地平面 | 有限 | 宇宙全体のホログラフィー |
そして、第8回で残った2つの空白はこの表の下2行です。同じ種類の面についての、同じ種類の問い。
面積 \(A\) のヌル面に乗る Carrollian 理論は、
\(e^{A/4G}\) 個の状態を持つ。
この一文で、三つとも片付きます。しかも整合性が取れている。
| ヌル面 | 面積 | 帰結 |
|---|---|---|
| \(\mathscr{I}\) | 無限 | 無限次元ヒルベルト空間 = 普通の場の理論。矛盾しない |
| ブラックホール地平面 | 有限 | ベッケンシュタイン–ホーキング。既知の答えを再現 |
| de Sitter 地平面 | 有限 | 宇宙全体のヒルベルト空間が有限次元 |
一行目が効いています。平坦時空では \(\mathscr{I}\) の面積が無限なので、状態数も無限 ── これは普通の場の理論と同じで、何もおかしくない。同じ公式が、平坦時空では既知の結論に落ちる。
三行目は、まったく違う主張です。宇宙は有限状態機械であると言っている。
数を入れましょう。de Sitter 地平面の半径は \(r_H=c/H_0\)。
\(r_H=c/H_0=1.367\times10^{26}\,\mathrm{m}\)(14.45 Gly)。面積 \(A=4\pi r_H^2=2.35\times10^{53}\,\mathrm{m^2}\)。
プランク面積 \(\ell_P^2=\hbar G/c^3=2.61\times10^{-70}\,\mathrm{m^2}\) で割ると
$$\frac{S}{k_B}=\frac{A}{4\ell_P^2}=\mathbf{2.25\times10^{122}}$$したがって
$$\dim\mathcal{H}=e^{S/k_B}=10^{\,9.76\times10^{121}}$$比較のために、エントロピーの階梯を見てください。すべて同じ式 \(S=A/4\ell_P^2\) で計算されています。
M87* の超巨大ブラックホール(\(6.5\times10^9\,M_\odot\))でさえ、de Sitter 地平面より 25.7 桁小さい。
ここで第1回に戻ります。ただし、戻る先は総当たりの結果ではありません。あの回が最後に書いた注文です。
第1回の 08 節は、次元解析が \(O(1)\) 係数を出せないという壁の話でした。そこにこう書きました。
ブラックホールのエントロピーで言えば、\(S\propto A\) までは次元で出るのに、\(1/4\) だけが出ない。そこを埋めるには、数える対象そのもの ── 状態、機構、対称性 ── が要る。
この回の 02 節でやったのは、まさにその数える対象を名指しすることでした。
「面積 \(A\) のヌル面に乗る Carrollian 理論の状態」
第1回は「何かを数えなければならない」と書いて止まりました。第9回は「これを数えるのではないか」と候補を出した。まだ数えていませんが、注文に対する返答の形にはなっています。
第1回 08 節が例に使ったのは、宇宙定数と臨界密度の一致でした ── \(\Lambda c^2/(G\rho_c)=17.3\) に対して \(8\pi=25.1\)。あそこで「次元解析では出せない \(O(1)\)」の実例として登場した \(\Lambda\) が、この回では宇宙の状態数そのものを決めています。
そして、宇宙定数問題でよく引かれる数 \(\rho_\Lambda/\rho_{\rm Pl}\sim10^{-122}\) との関係を書いておきます。\(S_{\rm dS}=3\pi/(\Lambda\ell_P^2)\) で、\(\rho_\Lambda/\rho_{\rm Pl}\propto\Lambda\ell_P^2\) なので ──
数値でも \(1/(2.25\times10^{122})=4.4\times10^{-123}\) ── \(3\pi\) の因子の範囲で \(10^{-122}\) と一致します。
宇宙定数がなぜ小さいのかという問いは、宇宙のビット数がなぜ \(10^{122}\) なのかという問いと同じものでした。
第2回で、こう書きました ── 計算可能性に必要なのは有限の情報量であって、空間の刻みではない。
その「有限の情報量」に、いま値がつきました。
宇宙は、状態数 \(e^{2.25\times10^{122}}\) の有限状態機械である。
比喩ではなく、\(\Lambda\) から計算できる数として。
第2回では「格子は要らない」と結論しました。ここでも要りません ── 有限性の出どころは空間の刻みではなく、地平面の面積です。共変に定義されていて、優先系を作らない。
ただし、有限次元であることには厳しい代償もあります。有限次元のヒルベルト空間には、厳密な連続スペクトルの観測量が存在しません。厳密な S 行列も定義できない(散乱の「無限の未来」が地平面で切られるので)。「計算できる」と引き換えに、「厳密に測れる」を失います。
ここから正直な線です。2つの問題が同じだと期待できる理由は 01 節で見ましたが、同じでない可能性が3つあります。
| 非対称性 | ブラックホール | de Sitter |
|---|---|---|
| ① 内と外 | 観測者は地平面の外 | 観測者は地平面の中(静的パッチ) |
| ② 観測者依存性 | 地平面はほぼ一意 | 観測者ごとに別の地平面。「誰の地平面か」問題 |
| ③ 有限性の質 | 全体のヒルベルト空間は無限次元 | 全体が有限次元 ── 質的に別物 |
③ が特に重い。ブラックホールがあっても、漸近平坦時空全体のヒルベルト空間は無限次元のままです。de Sitter では宇宙そのものが有限次元になる。これは「大きさが違う」ではなく「種類が違う」。
もう一つ正直に書いておくべきことがあります。de Sitter ホログラフィーには、統合されていない二つの綱領があります。
| 綱領 | 双対の住処 | 性質 |
|---|---|---|
| dS/CFT (Strominger 2001) | \(\mathscr{I}^+\)(空間的な境界) | ユークリッド的・非ユニタリ・中心電荷が虚数 |
| 静的パッチ/地平面 | 地平面(ヌル面) | 有限次元。観測者に紐づく |
この回の議論が繋がるのは、後者だけです。 前者の \(\mathscr{I}^+\) は空間的な面なので、ヌル面ではなく、したがって Carroll 多様体でもない。第7回で作った道具が効きません。
つまり「二つの空白は一つだった」という見立ては、de Sitter ホログラフィーの二派のうち一方を選んだ上で成り立つ話です。選択が正しいかどうかは、まだ決着していません。
Carroll 面は3枚あった。 第7回で2枚(\(\mathscr{I}\) と地平面)と書きましたが、de Sitter の宇宙論的地平面もヌル超曲面なので Carroll 多様体。しかも Gibbons–Hawking により、ブラックホールと同じ式 \(S=A/4G\) のエントロピーを持つ。
だから第8回の空白2つは、同じ問いに見える。 仮の答えは一文 ── 「面積 \(A\) のヌル面に乗る Carrollian 理論は \(e^{A/4G}\) 個の状態を持つ」。この一文で三つとも片付き、しかも平坦時空では既知の結論(無限次元=普通の場の理論)に落ちる。
我々の宇宙の数。 \(S_{\rm dS}=2.25\times10^{122}\)、\(\dim\mathcal{H}=10^{9.76\times10^{121}}\)。M87* の超巨大ブラックホールでさえ 25.7 桁下。\(S=S_{\rm dS}\) となる質量は観測可能宇宙の質量の 0.61 倍で、整合している。
そして第1回の注文に、返答の形がついた。 第1回 08 節は「\(1/4\) を埋めるには数える対象が要る」と書いて止まりました。02 節の一文は、その対象を名指ししています ── 面積 \(A\) のヌル面に乗る Carrollian 理論の状態。あわせて \(S_{\rm dS}\propto1/(\rho_\Lambda/\rho_{\rm Pl})\) なので、宇宙定数問題の \(10^{-122}\) は de Sitter エントロピーの逆数であり、宇宙定数問題が情報量の問題に言い換わる。
ただし、同じだとは示されていません。 内と外、観測者依存性、有限性の質 ── 三つの非対称性が残る。そして de Sitter ホログラフィー自体が二派に割れていて、この回の議論が繋がるのは地平面側の一派だけ。02 節の一文は候補であって、解ではありません。
この文書は「つくる格子」シリーズ第9回、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。姉妹編「わかる」が既知の物理を解説するのに対し、本シリーズは作業そのものを見せます。
確立した内容:de Sitter 宇宙論的地平面がヌル超曲面であること、Gibbons–Hawking の温度とエントロピー \(S=A/4G\)(1977)、\(S_{\rm dS}=3\pi/(\Lambda\ell_P^2)\) という式変形、本文の数値(\(H_0=2.1927\times10^{-18}\,\mathrm{s^{-1}}\) から計算)、および dS/CFT と静的パッチ・ホログラフィーという二つの綱領が併存していること。
いっぽう 02 節の「面積 \(A\) のヌル面に乗る Carrollian 理論は \(e^{A/4G}\) 個の状態を持つ」は予想であり、示されていません。地平面の Carrollian 理論の状態数がベッケンシュタイン–ホーキング・エントロピーを再現するかは第8回で挙げた未解決問題そのもので、この回はそれを解いていません。また二つの空白が同一の問題であるという見立ては、de Sitter ホログラフィーの二派のうち地平面側を選んだ上で成り立つもので、その選択の正否も決着していません。数値は最新の宇宙論パラメータの選び方で数割動きます。
本編:第1回|第2回|第3回|第4回|第5回|第6回|第7回|第8回 | 番外編:①/②/③ | 姉妹編:わかるブラックホール/宇宙は計算機 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。図で、ブラックホールが de Sitter に届かないことを確かめられます。