曲率は帳簿の付け方であって、物理の中身ではない ── 平坦な舞台の上で、どこまで行けるか
「空間が曲がる」というのは、相対論でいちばん有名で、いちばん飲み込みにくい主張です。ゴム膜に重りを置いた絵を見せられて、なんとなく納得したことにして先へ進む ── そういう人は多いはずです。
ここで、素直な疑問を最後まで押してみます。本当に曲がっている必要があるのか。 舞台は平坦なまま、その上で何かが起きている、では駄目なのか。
結論を先に言うと ── 駄目ではありません。厳密に成立します。 ただしそこに至るには、素朴なやり方がどこで詰むのかを正確に診断し、足りなかったものを一つだけ補う必要があります。そして補った先で、もっと強い立場が待っています。
「重力とは、平坦時空の上で光速が場所ごとに変わることだ」── まず、この描像から始めます(この読み替えを最後まで追ったものが番外編②です)。屈折率 \(n(x)\approx1-2\Phi/c^2\) を置くやり方です。光の曲がりも重力赤方偏移もシャピロ遅延も、これで正しく出ます。
この描像を式で書くと、こういう計量を仮定していることになります。
$$ds^2=\Omega^2(x)\,\eta_{\mu\nu}dx^\mu dx^\nu$$平坦な計量に、場所ごとのスカラー倍がかかっただけ。これを共形平坦といいます。そして厳密な判定条件があります。
計量が共形平坦 \(\iff\) ワイルテンソルがゼロ
これで境界線が引けます。そして結果は、きれいに分かれます。
| 時空 | ワイルテンソル | スカラーだけで書けるか |
|---|---|---|
| FRW(膨張宇宙) | \(=0\) | 書ける。しかも厳密に |
| シュワルツシルト(星) | \(\ne0\) | 原理的に書けない |
膨張宇宙は本当に共形平坦です。共形時間に座標を移すと、光は厳密に 45° の直線を走ります。偶然ではありません ── 膨張宇宙は文字どおり「平坦時空 × スケール因子」であって、この意味で曲がっていない。あなたの直観は、宇宙論に関しては定理として正しい。
ところがシュワルツシルトは違います。真空解なので \(R_{\mu\nu}=0\)、つまり曲率が全部ワイル曲率です。
これは潮汐力そのもの
リッチがゼロなのに曲率不変量がゼロでない ── 残っているのは全部ワイル。だから共形平坦にできない。スカラー \(\Omega(x)\) をどう選んでも、星ひとつ書けません。
ここが面白いところです。屈折率描像が「静的弱場の光」にしか使えない理由に、機構的な説明がつきます。
ヌル測地線は共形不変です。 光の経路は \(\Omega^2\) を掛けても変わらない。だから計量の共形類さえ合っていれば、光の曲がりは構造的に必ず再現できてしまう。
つまり屈折率描像は、光については当たるようにできている。でも共形因子で潰れない部分 ── ワイル曲率、時計の進み方、物質の軌道 ── には、スカラー1個では触れられない。
では何が足りないのか。具体例で見ると一瞬で分かります。
フレームドラッグを考えてください。回転する天体のまわりを、光が右回りに一周する時間と、左回りに一周する時間が違います(実測されています)。
スカラー \(c(x)\) には、これが書けません。その点での値が1つしかないので、向きによって違う答えを返せない。
書くには \(c(x,\hat n)\) ── 方向に依存する光速が要ります。重力波も同じです。TT 偏極は一方向を伸ばし、直交方向を縮める。スカラーには異方的な伸縮が書けない。
各点で 方向ごとに 速さを与えるもの。
それを数学ではテンソル場と呼び、物理では 計量 \(g_{\mu\nu}\) と呼びます。
ここで「なんだ、結局計量か。曲率に戻っただけじゃないか」と思うかもしれません。それが違うんです。 ここからが本題です。
一般相対論は、平坦なミンコフスキー時空の上に住む、自己相互作用する質量ゼロのスピン2場 \(h_{\mu\nu}\) の理論として構成できます。Gupta (1954)、Feynman、Deser (1970)。
Deser の議論が一番きれいです。
手順1. 平坦時空 \(\eta_{\mu\nu}\) の上に、質量ゼロのスピン2場 \(h_{\mu\nu}\) を書く(自由場)。
手順2. この場は物質のエネルギー運動量に結合する。ところが場そのものもエネルギーを持つ。だから自分自身にも結合しなければならない。
手順3. 補正項を足す。するとその補正項もエネルギーを持つので、また足す。反復する。
結果
級数が閉じて、アインシュタイン方程式そのものになります。そして
$$g_{\mu\nu}=\eta_{\mu\nu}+h_{\mu\nu}$$が「実効的な計量」として結果的に現れる。最初から仮定したのではなく、出てきた。
Weinberg はさらに強いことを示しました。ローレンツ不変な質量ゼロのスピン2粒子が保存源に結合する理論は、低エネルギーで必ず一般相対論になる。つまり ──
等価原理は、仮定ではなく結論です。
「重力質量=慣性質量」を手で置く必要はない。平坦時空上のスピン2場という設定から、導出されます。
ですから「空間は歪んでいない。平坦な舞台の上で、場がそう振る舞っているだけ」は、詩的な言い換えではなく厳密な定式化です。曲率は舞台の性質ではなく、舞台の上に乗った場になります。
赤い軌跡は、左右で1ピクセルも違いません。同じ配列を二度描いています。違うのは背景の描き方だけ ── 左は格子を歪ませ、右は格子を正方形のまま置いて場を影で示した。
観測されるのは赤い線だけです。 背景の格子は、どちらもあなたが紙の上に引いた線であって、自然の中にはありません。
正直な線を引きます。この定式化には、奇妙な代償があります。
何も \(\eta_{\mu\nu}\) だけには結合しません。物差しも時計も光も、すべて \(g=\eta+h\) で測る。ですから「本当は平坦だ」と言うことはできるけれど、その平坦さを検出する実験は原理的に存在しません。
微妙な立場です。優先系のようでいて、完全に見えない優先系。
もう一つ、こちらは実質的な限界です。
平坦背景まわりの展開は、地平面の内側、自明でないトポロジー、閉じた宇宙をうまく覆えません。摂動級数が届く範囲が限られる。
「局所的には完全に正しく、大域的には不十分」という形です。ブラックホールの内部を \(\eta+h\) で書こうとすると、\(h\) が小さいという前提が崩れる。
ここまでは「そう記帳してもよい」という話でした。でもこの立場には、実用上の見返りがあります。しかもそれは思考実験ではなく、いま現実に動いているものです。
格子が歪まないなら、空間に正方形のセルを並べて、微分を差分で置き換えられます。プログラムを書く人にとって、これは決定的に嬉しい。
$$\frac{\partial f}{\partial x}\;\longrightarrow\;\frac{f_{i+1}-f_{i-1}}{2\Delta x}$$そして ── 数値相対論は、まさにこれをやっています。
平坦な直交格子をメモリ上に並べる。その各点に \(g_{\mu\nu}\)(実際には BSSN や Z4c と呼ばれる変数)を場の値として置く。有限差分で時間発展させる。
格子は絶対に歪みません。 曲率は格子ではなく、格子点に載っている数値の中にあります。
LIGO がブラックホール合体を検出したとき、観測データと突き合わせた波形テンプレートは、この方法で作られました。曲がった時空を、歪まない格子の上で計算している。
そして構造的に、これは 03 節の Deser の定式化そのものです。舞台は平坦、曲率は舞台の上の場 \(h_{\mu\nu}\)。定式化と実装が、同じ形をしている。
正直に、何が難しいかを並べます。どれも「格子が歪まないこと」が原因ではないのが要点です。
| 難所 | 中身 |
|---|---|
| ① 葉層化(ゲージ) | 差分をするには時空を「空間 × 時間」に切る必要がある。どう切るかは自由だが、切り方を間違えると格子点がブラックホールに落ちて計算が破綻する。1+log slicing、gamma-driver shift、moving puncture といった手法が要る。 |
| ② 拘束条件の破れ | アインシュタイン方程式は「発展方程式」と「拘束条件」に分かれる。差分は必ず拘束をわずかに破り、その誤差が指数的に増大する。BSSN・Z4c・一般調和形式といった拘束減衰つきの定式化でようやく解決した。 |
| ③ 特異点 | ブラックホールの中心は数値が発散する。切り取る(excision)か、座標を工夫して回避する(puncture)。 |
ここで第2回の表を思い出してください。格子には (a) 計算道具 と (b) 時空の基本構造 という別々の役割がありました。
数値相対論の格子は、完全に (a) です。格子間隔 \(\Delta x\) は人工的で、細かくして収束を確かめる。「時空が格子でできている」とは一言も主張していない。
だから第2回の18桁のファインチューニング問題は、まったく発生しません。優先系を物理として導入していないからです。
「空間が歪まない」から差分で解ける ── これは正しく、しかも実際にそうしている。
歪んでいないのは計算格子であって、時空が離散だと主張しているわけではない。だから安全。
ここまでは「曲率を場として書き直す」話でした。平坦背景は残っていて、ただ見えないだけ。
もっと徹底した立場があります。曲率も、曲がった時空も、そもそも基本的な要素として存在しないという立場です。
AdS/CFT において、境界の理論には重力がありません。曲率もありません。 普通の場の理論が、固定された平坦な背景の上に乗っているだけです。そして ──
バルクの曲がった時空は、境界のエンタングルメント構造から創発する。
曲率は基本的な存在ではなく、平坦な場の理論の記述の一形態である。
「空間の歪みは必要ない」の、いちばん強い版がこれです。第03節では舞台が平坦なまま残っていましたが、ここでは曲がった舞台という概念そのものが、基本の記述から消えます。
そして揃うものが多い。
| 欲しかったもの | 境界理論では |
|---|---|
| 空間の歪みが無い | ○ 平坦な固定背景 |
| 空間の刻みが無い(第2回) | ○ 連続的な場の理論 |
| 厳密なローレンツ不変性 | ○ 共形不変ですらある |
| 有限の情報量 | ○ ホログラフィック境界 |
| 計算可能 | ○ 普通の場の理論 |
第2回の \(6\times10^{-20}\) にも、18桁のファインチューニングにも、この立場はまったく触れません。優先系を作らず、刻みも入れないからです。
最後に、この立場が支払っているものを並べます。
制御できている実例は AdS だけです。 \(\Lambda<0\)。ところが我々の宇宙は \(\Lambda>0\)。de Sitter におけるホログラフィーは未解決で、そこがこの路線の最大の弱点です。
「境界が平坦」も、ある意味で選択です。 境界理論が乗る背景は固定されていますが、それを「平坦」と呼べるのは共形不変性のおかげで、実際には共形類が決まっているだけ。ここも帳簿の話に戻ります。
そして \(1/4\) やページ曲線の導出は、特殊な設定でのものです。 3次元重力、JT 重力、超対称・極限ブラックホール。一般のシュワルツシルト・ブラックホールで同じことができているわけではありません。壁を一箇所だけ抜いた段階です。
スカラーでは詰む。判定条件はワイルテンソル。 膨張宇宙はワイル \(=0\) なので「平坦時空 × スケール因子」で厳密に書けるが、星はワイル \(\ne0\) なので原理的に書けない。光だけが合ってしまうのは、ヌル測地線が共形不変だから。
足りなかったのは「方向依存」の一語だけだった。 各点で方向ごとに速さを与えるもの ── それがテンソル場。フレームドラッグも重力波も、これで書ける。
平坦な舞台の上に、テンソル場を置けば一般相対論が建つ。 質量ゼロのスピン2場の自己相互作用を反復すると、級数が閉じてアインシュタイン方程式になる(Gupta–Feynman–Deser)。\(g=\eta+h\) は仮定ではなく結果。そして等価原理が結論として出てくる(Weinberg)。
代償は2つ。 平坦背景は原理的に観測できない(=だからこそ第2回の18桁問題も起こさない)。そして大域構造 ── 地平面やトポロジー ── には届かない。
そして極限がホログラフィー。 境界理論には重力も曲率も無く、曲がった時空はエンタングルメントから創発する。歪みも刻みも優先系も無しに、有限の情報量と計算可能性が手に入る。ただし制御できている実例は \(\Lambda<0\) だけで、我々の宇宙は \(\Lambda>0\) です。
この文書は「つくる格子」シリーズ第3回、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。姉妹編「わかる」が既知の物理を解説するのに対し、本シリーズは作業そのものを見せます。
確立した内容:共形平坦性とワイルテンソル消失の同値性、FRW の共形平坦性、シュワルツシルトのクレッチマン不変量、ヌル測地線の共形不変性、平坦時空上のスピン2場からの一般相対論の再構成(Gupta 1954、Deser 1970)、質量ゼロスピン2粒子から等価原理が従うこと(Weinberg)。いっぽう「曲率は創発的である」というホログラフィーの読みは、研究中の立場であって確立した結論ではありません。制御された双対性の実例は漸近的 AdS に限られ、\(\Lambda>0\) の場合は未解決です。図は模式で、背景格子の歪ませ方は定量的な計量の描画ではなく、光の軌跡のみが弱場の屈折率 \(n=1+2\mu/r\) による数値積分です。
本編:第1回|第2回|番外編:①物理は、もっと簡単に書けないのか/②「ct = 一定」は、どこまで通用するか | 姉妹編:わかる相対論 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を。
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