つくる格子第 5 回 / 境界は、3次元だった

セレスチャル CFT は情報を捨てすぎていた ── 光速ゼロの幾何が、それを取り戻す

境界は、3次元だった 前回の番外編で、平坦時空のホログラフィーが4点関数で壊れるところを見ました。
診断は「相関関数が超関数になる」。ではどう直すのか。
答えは意外な方向にありました ── 境界を2次元だと思ったのが間違いだった。
そして正しい3次元の境界は、光速がゼロの世界という奇妙な幾何を持っています。

必要な道具:第4回、番外編③、群の縮約(本文で作ります) この回の芯:BMS = 3次元の共形 Carroll 群

番外編③で、セレスチャル CFT の4点関数が \(\delta(z-\bar z)\) に台を持つ超関数になることを、実際に計算して確かめました。原因は「2→2 散乱が平面的だから」── 初等的な運動学でした。
そこで私は「壊れ方が分かる壊れ方は扱える」と書きました。この回は、その扱い方です。
そして直し方は、細部の修正ではありませんでした。境界の次元そのものが間違っていた。 正しい境界は3次元で、そこには「光速がゼロの幾何」が乗っている ── ルイス・キャロルの名を冠した、動くことのできない世界です。

01本当の容疑者 ── 余次元が合っていない

まず、番外編③の診断をもう一段深く読み直します。

ホログラフィーの標準形は AdS/CFT です。そこでは \(d+1\) 次元のバルク ↔ \(d\) 次元の境界。境界はバルクの余次元1にある。ところが ──

バルク境界余次元
AdS/CFTAdS\(_{d+1}\)CFT\(_d\)1
セレスチャル4次元 平坦時空2次元 天球 \(S^2\)2

セレスチャルだけ、余次元が2です。 これは異例で、しかも偶然ではありません。メリン変換で何をしたか思い出してください。

$$\tilde{\mathcal{M}}(\Delta,z,\bar z)=\int_0^\infty d\omega\;\omega^{\Delta-1}\,\mathcal{M}(\omega,z,\bar z)$$

エネルギー \(\omega\) を積分して消しています。4次元の情報のうち1次元分を、変換で潰した。だから境界が2次元になった。

診断のやり直し

超関数性は「変な CFT だから」ではない。
入れ物が1次元足りないから、余った情報がデルタ関数として溢れている。

ならば処方箋は明らかです ── \(\omega\) を消さなければいい。

02\(\omega\) を残す ── 境界は 3 次元になる

メリン変換の代わりに、\(\omega\) をそのフーリエ共役である遅延時刻 \(u\) に移します。情報は捨てられません。

すると、演算子が住む場所はこうなります。

$$\mathcal{O}(u,z,\bar z)\qquad\text{──}\qquad \mathscr{I}^+ \cong \mathbb{R}_u\times S^2$$

光的無限遠 \(\mathscr{I}^+\) は、天球 \(S^2\) に \(u\) 方向を掛けた3次元の多様体です。天球はその「輪切り」でしかなかった。

セレスチャルCarrollian
境界天球 \(S^2\)\(\mathscr{I}\) 全体
次元23
余次元2(異例)1(標準)
\(\omega\) を積分して消す\(u\) として残す

これで余次元が 1 に戻りました。あとは「3次元の境界に、どんな理論が乗るのか」です。ここが奇妙で、面白いところです。

◇ ◇ ◇

03\(\mathscr{I}\) の幾何 ── 計量が退化している

\(\mathscr{I}^+\) に計量を入れてみます。ところが困ったことが起きます。

\(u\) 方向はヌルです。光が走る方向なので、長さがゼロ。したがって \(\mathscr{I}\) の上の計量は ──

$$ds^2\Big|_{\mathscr{I}}=\underbrace{0\cdot du^2}_{\text{時間方向の長さがゼロ}}+\;d\Omega^2$$

退化しています。 逆行列が存在しない。普通のリーマン幾何もローレンツ幾何も使えません。

ではこれは何なのか。名前がついています。

Carroll 幾何 ── 光速をゼロにした世界

ポアンカレ群には、2つの極限があります。どちらも群の縮約(Inönü–Wigner 縮約)です。

極限得られる群ブーストの形絶対なのは
\(c\to\infty\)ガリレイ群\(x'=x-vt,\quad t'=t\)時間
\(c\to 0\)Carroll 群\(t'=t-b\!\cdot\!x,\quad x'=x\)空間

きれいに双対です。ガリレイでは時間が絶対で空間が混ざる。Carroll ではその逆 ── 空間が絶対で、時間のほうが混ざる

名付けたのは Lévy-Leblond (1965)。ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』の赤の女王から取っています ── 「同じ場所にとどまるだけで、力いっぱい走り続けなければならない」

なぜその引用なのか。図で見てください。

図:光速を変えると、光円錐がどう変わるか。スライダーを両端まで振ってみてください

\(c\to\infty\) では光円錐が水平に開ききって、同時刻面が絶対になります(ガリレイ)。逆に \(c\to0\) では ──

Carroll の国

光円錐が時間軸に潰れます。到達できる場所が、いま自分がいる点だけになる。
どれだけ時間が経っても、どこにも行けない。

これが赤の女王の意味です。そして物理として重要な帰結が出ます ── Carroll 的な力学は「超局所的(ultra-local)」。信号が伝わらないので、空間の各点が独立に時間発展します。

04そして BMS が、その正体だった

ここで第4回に戻ります。超並進とは何だったか。

$$u\;\longrightarrow\;u-f(\theta,\phi)$$

天球の各方向で、独立に \(u\) をずらす。

読み直してください。これは「空間の各点が独立に時間発展する」そのものです。超局所的な時間並進 ── まさに Carroll 幾何が要求する形。

実際、厳密な同型が成り立ちます(Duval–Gibbons–Horvathy ほか)。

この回の芯
$$\text{BMS}_4\;\cong\;\text{3次元の共形 Carroll 群}$$

第4回で「平坦時空の対称性は無限次元だ」と驚いたもの、その正体は 光速ゼロの共形群でした。無限次元なのは、超局所性のせい ── 各点が独立なので、点の数だけ生成子がある。

そして超関数性の話に戻ります。超局所的な理論では、離れた点の相関にデルタ関数が出るのは病理ではありません。 信号が伝わらないのだから、点どうしが繋がっていないのは当然です。

セレスチャルで「変なもの」に見えたデルタ関数は、Carrollian の言葉では理論の基本的性質になる。同じ数式が、正しい入れ物に置いた途端、異常ではなくなった。

◇ ◇ ◇

05二つの枠組みは、対立していません

ここで誤解を避けておきます。番外編③でやったセレスチャルの計算は、無駄になりません。

「Bridging Carrollian and Celestial Holography」(2022–23) が示したのは、両者が積分変換で結ばれているということです。別の理論ではなく、散乱振幅の基底の取り替え

関係 $$\underbrace{\mathcal{O}(u,z,\bar z)}_{\text{Carrollian}}\;\xrightarrow[\;\;u\to\Delta\;\;]{\text{変換}}\;\underbrace{\mathcal{O}_\Delta(z,\bar z)}_{\text{セレスチャル}}$$

確かめられていること

Carrollian の演算子をセレスチャルの演算子に対応させると、Carrollian の Ward 恒等式が2次元セレスチャル CFT のそれを再現する。さらに Carrollian 側の Ward 恒等式は、BMS のフラックス収支則そのものになる。

つまり ── 片方が正しくて片方が間違い、ではありません。Carrollian のほうが情報を捨てていない、というだけです。セレスチャルは、そこから \(u\) を積分した「射影」。

セレスチャルCarrollian
使いやすさ2次元 CFT の道具が使える3次元、道具は発展途上
余次元21
デルタ関数異常に見える超局所性として自然
対称性の正体\(SL(2,\mathbb{C})\) が見えるBMS がそのまま

06もう一つの朗報 ── \(w_{1+\infty}\)

ここまで「足りない」話が続いたので、強い肯定的証拠を一つ出します。

第4回でソフト定理を扱いましたが、実は先頭項しか話していませんでした。無限の塔があります。

$$\underbrace{q^{-1}}_{\text{超並進}},\quad\underbrace{q^{0}}_{\text{超回転}},\quad\underbrace{q^{1}}_{?},\quad\underbrace{q^{2}}_{?},\quad\cdots$$

Strominger (2021) が示したのは ── 正ヘリシティのソフトグラビトンの塔全体が、\(w_{1+\infty}\) の wedge 部分代数に基づく単一のカイラル2次元 Kac–Moody 対称性に組織化される。しかもソフト光子・グルーオンの塔も、その下で既約に変換します。

なぜこれが重要なのか。\(w_{1+\infty}\) は、この目的のために作られた代数ではありません。

\(w_{1+\infty}\) が既に現れていた場所
2次元面の面積保存微分同相純粋な幾何
自己双対重力の対称性可解な重力のセクター
ツイスター理論Penrose の綱領
2次元可解系可積分性

散乱振幅のソフト極限という、まったく別の入口から、名前と表現論を持った既知の無限次元代数が出てきた。番外編③で「中身が足りない」と書きましたが、これは逆向きの証拠 ── 中身がある徴候です。

正直な線 ── どこまで確立しているか 確立しているのは主にツリーレベル・自己双対セクターです。自己双対重力は可解な特殊セクターであって、完全な重力ではありません。ループへの拡張、非自己双対への拡張は未解決。
「代数が出た」は「理論が構成できた」ではない ── 本シリーズの規律で言えば、これは強い状況証拠であって証明ではありません。

07それでも残っていること

余次元は直りました。デルタ関数の意味も分かりました。強い代数的証拠も出た。では完成なのか。

いいえ。核心の欠落は、そのまま残っています。

まだ無いもの

境界理論の、独立な定義。

AdS/CFT が強いのは、境界側の \(\mathcal{N}=4\) 超対称ヤン=ミルズが重力とは無関係に定義された理論で、両側を別々に計算して照合できるからでした。
Carrollian CFT には、まだその「独立な定義」がありません。作用も、格子も、他の構成法も無い。

探す対象が「変な2次元 CFT」から「3次元 Carrollian CFT」に変わったのは前進です。探し場所が正しくなった。 でも見つかってはいない。

加えて、残っている技術的な穴を並べておきます。

残っているもの状況
質量のある粒子無質量なら綺麗に動くが、質量があると運動量空間の双曲面 \(H^3\) に住むので別扱いが要る。部分的
ループと赤外発散ループ振幅は IR 発散するので、ドレスト状態の処方が要る。活発
中心電荷応力テンソルはあるのに、中心電荷が何なのか(ゼロなのか)が不明
AdS の平坦極限\(\ell\to\infty\) で導出する保守的ルート。極限が特異で、CFT の同定ができていない
de Sitter依然として本丸。\(\Lambda>0\) は未解決
練習問題
  1. セレスチャル CFT の余次元が 2 になってしまう理由を、変換の言葉で述べよ。
    答えを見る
    メリン変換 \(\int_0^\infty d\omega\,\omega^{\Delta-1}\) がエネルギー \(\omega\) を積分して消すから。4次元の情報のうち1次元分が潰れ、残った天球 \(S^2\) は2次元。\(\omega\) をフーリエ共役の \(u\) として残せば \(\mathscr{I}\cong\mathbb{R}_u\times S^2\) の3次元になり、余次元が1に戻る。
  2. ガリレイ群と Carroll 群は、ポアンカレ群のどんな極限か。そして何が「絶対」になるか。
    答えを見る
    どちらも群の縮約。\(c\to\infty\) がガリレイで、ブーストは \(x'=x-vt,\ t'=t\) ── 時間が絶対。\(c\to0\) が Carroll で、\(t'=t-b\cdot x,\ x'=x\) ── 空間が絶対。互いに双対な極限になっている。
  3. Carroll 幾何で「何も動けない」のはなぜか。そしてそれが超並進とどう繋がるか。
    答えを見る
    \(c\to0\) で光円錐が時間軸に潰れ、到達可能な領域が自分のいる点だけになるから。したがって信号が伝わらず、力学は超局所的(空間の各点が独立に時間発展)。
    超並進 \(u\to u-f(\theta,\phi)\) は「天球の各方向で独立に時間をずらす」操作で、これはまさに超局所的な時間並進。だから BMS が共形 Carroll 群になる。
  4. 番外編③で見た \(\delta(z-\bar z)\) は、Carrollian の立場ではなぜ異常でないのか。
    答えを見る
    超局所的な理論では離れた点どうしが力学的に繋がっていないので、相関がデルタ関数に台を持つのは理論の基本的性質。セレスチャルで「変」に見えたのは、入れ物(2次元)が本来の3次元より小さく、超局所性が異常として現れていたため。

この回で分かったこと

診断が間違っていた。 番外編③の超関数性は「変な CFT だから」ではなく、入れ物が1次元足りないからだった。メリン変換がエネルギーを積分して消していたので、余次元が 2 になっていた ── AdS/CFT の 1 に対して異例。

\(\omega\) を \(u\) として残せば、境界は3次元になる。 \(\mathscr{I}\cong\mathbb{R}_u\times S^2\)。余次元が 1 に戻る。天球はその輪切りでしかなかった。

その3次元の境界は、光速ゼロの幾何を持つ。 \(u\) 方向がヌルなので計量が退化し、Carroll 幾何になる。\(c\to0\) では光円錐が潰れ、どこにも行けない(赤の女王)。だから力学は超局所的

そして BMS の正体が分かった。 \(\text{BMS}_4\cong\) 3次元の共形 Carroll 群。超並進が「各方向で独立に時間をずらす」操作なのは、超局所性そのもの。第4回で驚いた無限次元性は、点の数だけ生成子があるということだった。そしてデルタ関数は、異常ではなく基本的性質になった。

強い肯定的証拠も出ている。 ソフト定理の無限の塔が \(w_{1+\infty}\) に組織化される ── 面積保存微分同相・自己双対重力・ツイスターに既に現れていた代数が、まったく別の入口から出てきた。ただしツリーレベル・自己双対セクターに限る。

それでも、核心は空いたまま。 境界理論の独立な定義がない。前進したのは探し場所が正しくなったことで、見つかったわけではありません。

この文書は「つくる格子」シリーズ第5回、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。姉妹編「わかる」が既知の物理を解説するのに対し、本シリーズは作業そのものを見せます。

確立した内容:\(\mathscr{I}\) の計量が退化していること、ガリレイ群と Carroll 群がポアンカレ群の \(c\to\infty\) / \(c\to0\) 縮約であること、Carroll 群の命名(Lévy-Leblond 1965)、BMS 群と3次元共形 Carroll 群の同型、Carrollian と celestial が積分変換で結ばれること(Donnay–Fiorucci–Herfray–Ruzziconi 2022、および Bridging 論文 2022–23)、Carrollian の Ward 恒等式が BMS フラックス収支則を再現すること、ソフトグラビトンの塔が \(w_{1+\infty}\) の wedge 部分代数をなすこと(Strominger 2021)。
Carrollian ホログラフィーは進行中の研究綱領であり、境界理論の独立な構成はまだありません。\(w_{1+\infty}\) の結果は主にツリーレベル・自己双対セクターで確立したもので、完全な重力・ループへの拡張は未解決です。図は光円錐の開き方を示す模式で、縮約の極限は図の両端でのみ厳密に成立します。

本編:第1回第2回第3回第4回 | 番外編:①物理は、もっと簡単に書けないのか②「ct = 一定」は、どこまで通用するか③まだ、CFT ではない ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を。

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。図のスライダーを左端まで振ると、Carroll の国が見られます。