第4回で紹介した2つの発展の、正直な現在地 ── 手を動かすと、何が足りないかが見える
本シリーズの規律の5番目は「反証条件のない予想は載せない」でした。第4回で「セレスチャル・ホログラフィーは未完成」「ソフトヘアには反論がある」と書きましたが、それはラベルを貼っただけです。
この回では、実際に手を動かします。メリン変換を回し、4点関数を作ろうとして、壊れるところまで見る。そして壊れる理由を突き止める。
結論を先に言うと ── 壊れ方が非常にきれいで、しかも物理的な意味がはっきりしています。「まだできていない」ではなく「なぜこの形なのか」が分かる。それは前進です。
セレスチャル・ホログラフィーの出発点を、厳密に一行で確認します。
無質量の運動量を「エネルギー × 天球上の点」に分けます。
$$p^\mu=\omega\,q^\mu(z,\bar z)$$ローレンツ変換は、\(z\) にはメビウス変換として、\(\omega\) にはスケーリングとして作用します。ならば \(\omega\) のスケーリングを対角化すればいい ── それがメリン変換です。
これは厳密(\(\int_0^\infty \omega^{\Delta-1}e^{-a\omega}d\omega=\Gamma(\Delta)/a^\Delta\) そのもの)
右辺は \((q\cdot X)^{-\Delta}\) の形。これは天球上で重み \(\Delta\) の共形プライマリとして変換します。
平面波が、天球上の共形場に化けた。ここまでは完璧です。4次元のローレンツ群 \(SO(3,1)\cong SL(2,\mathbb{C})\) が2次元の共形群として働いているので、これは自動的に起きます。
問題は、1粒子ではなく散乱振幅を変換したときに起きます。
普通の2次元 CFT なら、4点関数は交差比 \(z\) の滑らかな関数です。共形対称性で3点を固定でき、残る自由度が交差比ひとつ。相関関数はその関数として書ける。
セレスチャル CFT でも同じ形になるはず ── そう期待して、実際に 2→2 の無質量散乱を天球座標に落として、交差比を計算してみます。
重心系で 4 つの運動量を組み、方向を天球座標 z_i = tan(θ/2)e^{iφ} に落として 交差比 z = (z12·z34)/(z13·z24) を計算する 散乱角 交差比 z |Im z| -s/t 30° 14.928203 1.7e-15 14.928203 60° 4.000000 3.7e-16 4.000000 90° 2.000000 1.2e-16 2.000000 120° 1.333333 4.1e-17 1.333333 天球上にランダムに 4 点を取ると(=散乱を無視すると) 交差比の実部 |虚部| 0.5861 0.4765 2.0586 2.1025 -0.1783 0.4818
二つのことが同時に分かります。
① 交差比は、機械精度で厳密に実数になる。
② しかもその値は \(-s/t\) に一致する ── マンデルスタム変数の比そのもの。
②は嬉しい発見です。天球という抽象的な場所の交差比が、散乱の一番基本的な量に対応していた。
ですが①が問題です。運動量保存が、交差比を実軸に貼り付けている。 交差比は複素数として2次元分の自由度を持てるはずなのに、実際に到達できるのは1次元だけ。したがって ──
$$\tilde{\mathcal{M}}_4\;\propto\;\delta(z-\bar z)\times(\cdots)$$セレスチャル4点関数は、滑らかな関数ではなく超関数です。 普通の CFT の相関関数とは、種類が違う。
理由を突き止めると、拍子抜けするほど単純でした。
重心系の 2→2 散乱を思い浮かべてください。入射する2つの運動量は正反対を向き、出ていく2つも正反対を向く。4つの運動量は、必ず同一平面に乗ります。
そして原点を通る平面内の方向は、天球上で大円を描きます。さらに ──
天球上の4点が同一円周上 \(\iff\) 交差比が実数
つまり、鎖はこうです。
運動量保存 → 散乱は平面的 → 天球上で大円 → 交差比が実数 → 相関関数が超関数
セレスチャル CFT が「変な CFT」なのは、2→2 散乱が平面的だからでした。 深い病理ではなく、初等的な運動学。
非平面度をゼロに戻すと、4点は必ず1つの円に乗り、虚部がゼロに落ちます。少しでも持ち上げると、円から外れて虚部が立つ ── そしてその配置は運動量保存を満たしません。到達できない。
ここまでで診断が書けます。セレスチャル・ホログラフィーが「まだ CFT ではない」と言われるとき、具体的に何が欠けているのか。
| 普通の CFT | セレスチャル CFT |
|---|---|
| 4点関数は交差比の滑らかな関数 | \(\delta(z-\bar z)\) に台を持つ超関数 |
| 演算子スペクトルは離散(次元が飛び飛び) | \(\Delta\in 1+i\mathbb{R}\) の連続スペクトル |
| 理論が独立に定義されている(作用や格子から) | いまのところ振幅の書き換えにとどまる |
| 状態・演算子対応、OPE、ユニタリ性が揃う | 部分的にしか分かっていない |
三行目が本質です。AdS/CFT が強いのは、境界側の \(\mathcal{N}=4\) 超対称ヤン=ミルズが重力とは独立に定義された理論で、両側を別々に計算して照合できるからでした。
セレスチャル CFT には、まだその「独立な定義」がありません。4次元の振幅を書き換えたものを、2次元の言葉で呼んでいる段階。書き換え自体は正しいし有用ですが、双対性の実例ではない。
第4回で触れたソフトヘアを、きちんと診断します。
主張(Hawking–Perry–Strominger 2016):超並進電荷は無限個ある。ならばブラックホールも無限個の「ソフトな毛」を持つはずで、落ち込んだ情報はそこに記録されているのではないか。無毛定理が言う「毛は3本」は、ハードな毛の話でしかなかった。
魅力的な筋です。実際、ソフトヘアが存在すること自体は概ね認められています。争点はその先です。
超並進電荷は無限遠の漸近データで決まります。ということは、ブラックホールから遠く離れた場所でソフトグラビトンを1個放出するだけで、値を変えられる。
Bousso–Porrati の言い方が的確です ── それは髪の毛ではなく、かつらだ。ブラックホールに付いているのではなく、遠くに置いても同じ効果が出る。中に何が落ちたかを区別できない。
情報パラドックスを解くには、ちょうど \(e^{A/4G}\) 個の状態が要ります。有限で、面積で決まる数。
ところがソフト電荷は「天球上の関数」で labeled される ── 無限個で、しかもすべてエネルギーがゼロ。多すぎるうえに縮退している。「たくさんある」と「正しい数だけある」は別のことです。
現在の見方はこうです。ソフトヘアは実在する。しかし情報パラドックスは解かない。
公平のために書いておくと、情報パラドックスの側では別のところで大きな進展がありました。
島の公式・レプリカワームホール(2019–20)です。重力の経路積分から、ブラックホールの輻射のエンタングルメント・エントロピーのページ曲線が計算されました。上がって、途中で折れて、下がる ── 情報が出てくる振る舞いが、実際に出た。
そしてここが本シリーズ的に重要なのですが、この計算は弦理論を使っていません。半古典重力の経路積分とレプリカ法だけ。主戦場は2次元の JT 重力でした。
この回で見た3つを、本シリーズの規律(反証条件・先行研究・負の結果)で並べます。
| 提案 | 現在地 | 診断 |
|---|---|---|
| セレスチャル ホログラフィー | 進行中 | 書き換えとしては正しく、赤外三角形を CFT の言葉に翻訳できている。欠けているのは境界理論の独立な定義。壊れ方(超関数性)の原因は平面性という初等的な運動学だと特定済み ── 扱える壊れ方。 |
| ソフトヘア | 否定的 | 存在は認められているが、情報パラドックスは解かない。局在していない(かつら)、数が合わない。「魅力的なパズル」の段階から進んでいない。 |
| 島の公式 | 本物の前進 | ページ曲線を実際に導出。弦理論を使っていない。ただし低次元に限られ、符号化の機構は未解決。 |
第1回で「美しさは仮説の入口であって、証拠ではない」と書きました。ソフトヘアは、まさにその例です ── 筋も美しく、構造も実在するのに、要求される仕事をしなかった。
うまくいく部分は、厳密にうまくいく。 平面波のメリン変換は \(\Gamma(\Delta)/(-i\,q\cdot X+\epsilon)^{\Delta}\) ── 一行で共形プライマリになる。\(SO(3,1)\cong SL(2,\mathbb{C})\) があるので自動的。
4点で壊れる。しかも壊れ方がきれい。 交差比を計算すると機械精度で実数になり、値は \(-s/t\)。したがって相関関数は \(\delta(z-\bar z)\) に台を持つ超関数で、普通の CFT とは種類が違う。
原因は、初等的な運動学だった。 運動量保存 → 散乱は平面的 → 天球上で大円 → 交差比が実数。深い病理ではない。原因が分かる壊れ方は、扱える。
足りないのは「境界理論の独立な定義」。 AdS/CFT が強いのは両側を別々に計算できるから。セレスチャル CFT はいまのところ振幅の書き換えで、双対性の実例ではない。
ソフトヘアは、実在するが仕事をしない。 無限遠のデータで決まるのでブラックホールに局在せず(かつら)、無限個のゼロエネルギー状態は \(e^{A/4G}\) という有限の数を再現しない。情報パラドックスで実際に効いたのは、弦理論を使わない島の公式のほうでした。
この文書は「つくる格子」シリーズ番外編③、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。姉妹編「わかる」が既知の物理を解説するのに対し、本シリーズは作業そのものを見せます。
確立した内容:平面波のメリン変換が共形プライマリ波動関数を与えること、\(SO(3,1)\cong SL(2,\mathbb{C})\)、同一円周上の4点と交差比が実数であることの同値性、重心系 2→2 散乱の平面性、交差比 \(=-s/t\)。本文の数値は上記から計算した結果で、\(|{\rm Im}\,z|\) が \(10^{-15}\) 台なのは倍精度の丸め誤差です。セレスチャル・ホログラフィーは進行中の研究綱領であり、境界理論の独立な構成はまだありません。ソフトヘアの評価(存在するが情報パラドックスを解かない)は現時点で広く共有された見方ですが、決着した命題ではなく、近地平面対称性など別の筋の研究が続いています。島の公式についても、ページ曲線の再現は確立していますが情報の符号化機構は未解決で、計算は主に低次元重力に限られます。
本編:第1回|第2回|第3回|第4回 | 番外編:①物理は、もっと簡単に書けないのか/②「ct = 一定」は、どこまで通用するか ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。図で、平面から外れた瞬間に虚部が立つのを確かめられます。