すり抜けるものを、いちばん大きくする ── 宇宙そのものが、まだ落ちきっていないかもしれない
本編最終回です。第1回で「壁は虚時間では谷になる」と書きました。その一行を、いちばん大きなものに当てます ── 真空。真空とは「場が谷の底にいる状態」ですが、谷が2つあったらどうでしょう。いま私たちがいる谷が、いちばん深い谷とは限りません。だとすれば、真空はより深い谷へすり抜けます。1977年、コールマンがこの確率を計算しました ── \(\Gamma/V=Ae^{-S_E/\hbar}\)、これまでとまったく同じ形です。そして驚くべきことに、これは机上の空論ではありません。2012年に測られたヒッグス粒子の質量と、トップクォークの質量を入れると、標準模型の真空は「安定」でも「不安定」でもなく 準安定 ── 崩壊はするが、宇宙年齢よりはるかに長い時間がかかる、という微妙な位置に落ちます。私たちは、指数の肩の上に住んでいます。
「真空」とは何もない空間のことではなく、場がエネルギーの谷の底で静止している状態のことです(姉妹編「わかる場」)。ヒッグス場もそうで、いまその値は 246 GeV のところで落ち着いています。
問題は、谷が1つとは限らないことです。もっと遠く、もっと深いところにもう一つ谷があったら ── 私たちの谷は偽の真空(false vacuum)ということになります。
古典的には落ちられません。間に丘があるからです。しかし第1回のとおり、量子力学ならすり抜けられます。
ただし場の理論では、すり抜け方が独特です。空間全体がいっせいに移るのではなく、どこか一点に、真の真空の「泡」が生まれる。泡には2つの収支があります ── 中身が得するエネルギー(体積に比例)と、泡の壁を作る損(表面積に比例)。
小さい泡は表面が勝って潰れ、大きい泡は体積が勝って光速近くで膨張します。分かれ目は \(R_c=3\sigma/\varepsilon\)。
「臨界半径の泡が生まれる確率」がすり抜け確率で、コールマンのバウンス解を使うと
またしても \(e^{-S_E/\hbar}\) です。第1回の粒子、第2回の陽子、第4回の位相、そして今度は宇宙そのもの。同じ式が、まったく違うスケールで効いています。
ここからが本題です。標準模型では、ヒッグス場の「谷の形」はエネルギースケールとともに変わります(姉妹編「わかる繰り込み」の走る結合定数)。谷の急さを決める結合 \(\lambda\) が、高エネルギーへ行くにつれてどう変わるかを計算できます。
1ループの流れの主役は、この2項です:
$$16\pi^2\frac{d\lambda}{d\ln\mu}=\underbrace{24\lambda^2}_{\text{自分自身:押し上げ}}\underbrace{-\,6y_t^4}_{\textbf{トップクォーク:押し下げ}}+\cdots$$トップクォークが、真空の安定性を脅かしています。 トップは最も重いフェルミオン(湯川結合 \(y_t\approx0.94\))で、しかも 4 乗で効く。だから高エネルギーへ行くと \(\lambda\) がぐんぐん下がり、どこかでゼロを切ります。\(\lambda<0\) は「谷が下向きに開いている」=そこにもっと低い真空がある、という意味です。
下の図は、標準模型のヒッグス自己結合 \(\lambda\) を 1 ループで実際に走らせたものです。横軸はエネルギースケール(GeV、対数、\(10^2\) から プランクスケール \(10^{19}\) まで)。
トップクォークの質量スライダーを動かしてみてください。 わずか 1 GeV 変えるだけで、\(\lambda\) がゼロを切る場所が桁で動きます。そして実測値(\(m_t\approx172.5\) GeV、\(m_H\approx125.25\) GeV)を入れると ── ちょうど「準安定」と「安定」の境目のすぐ内側に落ちます。この偶然じみた位置取りはnear-criticality(臨界すれすれ)と呼ばれ、標準模型最大の謎のひとつです。
| 分類 | 意味 | 私たちは? |
|---|---|---|
| 安定 | \(\lambda\) がプランクスケールまで正のまま。より低い真空は存在しない | ぎりぎり違う |
| 準安定 | より低い真空はあるが、そこへ落ちるのに宇宙年齢よりはるかに長い時間がかかる | ここ |
| 不安定 | 宇宙年齢のうちに崩壊してしまう。私たちが存在できない | 明確に違う |
寿命の見積もりは計算によって幅がありますが、おおむね \(10^{100}\) 年をはるかに超え、しばしば \(10^{300}\) 年以上とされます。宇宙年齢が \(1.4\times10^{10}\) 年ですから、比べる意味がないほど長い。
もう一つ、大きなものを。2000年、パリクとウィルチェックがホーキング輻射をトンネル効果として導出しました。
ブラックホールのすぐ内側にいる粒子にとって、地平面は「越えられない壁」です。ところが第1回の要領で作用を計算すると、抜け出す確率が
$$\Gamma\propto e^{-2\,\mathrm{Im}S}=e^{-8\pi GME/\hbar c^3}=e^{-E/k_BT_{\rm H}}$$── ちょうど温度 \(T_{\rm H}=\hbar c^3/8\pi GMk_B\) のボルツマン因子になります。姉妹編「わかる温度」最終回のホーキング温度が、すり抜けの言葉で出てきました。
しかもこの導出には続きがあります。粒子が出ていくとブラックホールは軽くなるので、エネルギー保存を厳密に入れると指数が \(e^{-8\pi GE(M-E/2)/\hbar c^3}\) に修正される。するとスペクトルは厳密な熱的分布からずれ、放射どうしに相関が生まれます ── 情報が出てくる余地があるかもしれない、という議論につながります(姉妹編「わかるブラックホール」の情報パラドックス)。
| 回 | すり抜けたもの | 肩に乗っていたもの |
|---|---|---|
| 第1回 | 粒子(壁) | \(2S_E/\hbar\) |
| 第2回 | 陽子(クーロン障壁) | \(\sqrt{E_G/E}\) |
| 第3回 | 熱かすり抜けかの分かれ目 | \(2\pi E_b/\hbar\omega_b\) |
| 第4回 | 位相差(巨視的な1変数) | \(\Delta U/k_BT\) と \(2S_E/\hbar\) |
| 第5回 | (すり抜けではない) | \(1/N(0)V\) |
| 第6回 | 摂動論の外側そのもの | \(S/g\) |
| 第7回 | 真空 | \(S_E/\hbar\) |
世界の「大きさ」は、たいてい指数の肩の上に書いてあります。
太陽の寿命も、超伝導の転移温度も、陽子の質量も、真空の寿命も ── どれも \(e^{-(\text{何か})}\) の形で決まっていて、肩の上が数十変わると答えは数十桁変わる。だからこそ、桁の違う現象が同じ宇宙に同居できます。もし全部が線形なら、太陽は一瞬で燃え尽き、真空は最初に崩壊し、私たちは存在しません。
そして肩の上に乗る量には、共通の出自がありました ── 虚時間の中の古典運動。壁は虚時間では谷になり(第1回)、熱は虚時間の円になり(第3回)、真空崩壊は虚時間の泡になる(この回)。実時間で「不可能」に見えるものは、たいてい虚時間では「ふつう」です。
全集の見取り図でいえば、この シリーズは\(\hbar\) 軸の非摂動側を歩いたことになります ── そして最後に \(G\)(真空崩壊・ホーキング)と \(k_B\)(第3回の \(T_0\))にも触れました。物理の立方体の、対角線に近いあたりです。
確立していること:偽真空崩壊の理論(Coleman 1977、Callan–Coleman 1977)と \(\Gamma/V=Ae^{-S_E/\hbar}\)、薄壁極限の \(S_E=27\pi^2\sigma^4/2\varepsilon^3\)、臨界半径 \(R_c=3\sigma/\varepsilon\);標準模型でヒッグス自己結合 \(\lambda\) が高エネルギーで負に転じうること、その主因がトップクォーク湯川結合の \(-6y_t^4\) 項であること;実測値のもとで標準模型の真空が準安定と評価され、寿命が宇宙年齢を桁違いに上回ること(Degrassi ら 2012、Buttazzo ら 2013 ほか);宇宙線による安全性の議論(Hut–Rees 1983);ホーキング輻射のトンネル描像(Parikh–Wilczek 2000)とそれがホーキング温度を再現すること。いずれも標準的な結果です。
仮定・注意:① 準安定という結論は「プランクスケールまで標準模型がそのまま成り立つ」という強い仮定に依ります。新粒子が一つでもあれば走りが変わり、結論は変わりえます。② 結果は \(m_t\) に極端に敏感で、トップ質量の「どの定義か」(極質量か MS-bar か、モンテカルロ質量との関係)に系統誤差があることが最大の不確かさです。図でスライダーを動かせば、その敏感さ自体は体感できます。③ 図は1ループの走りで、簡略化されています。実際の解析は2〜3ループで行われ、λ がゼロを切るスケールは \(10^{10\text{–}11}\) GeV 程度とされます。図の値は桁の目安として読んでください。④ 準安定/不安定の境界線も近似式です。⑤ 曲がった時空(膨張宇宙、ブラックホール近傍)での泡の生成は、平坦時空の計算そのままではなく、いまも議論があります。⑥ Parikh–Wilczek はホーキング輻射のひとつの導出であり、情報が本当に取り出せるかは解決していません。⑦ 真空崩壊は人為的に引き起こせるものではありません(宇宙線の議論)。
すり抜けるものを、いちばん大きくしました ── 真空。谷が2つあれば、いま私たちがいる谷は偽の真空かもしれず、そこから真の真空へ泡が生まれてすり抜けます。確率は \(\Gamma/V=Ae^{-S_E/\hbar}\)(コールマン 1977)── 第1回とまったく同じ形です。
そしてこれは机上の話ではありません。ヒッグス自己結合 \(\lambda\) はトップクォークの \(-6y_t^4\) に押されて高エネルギーで負に転じ、実測値を入れると標準模型の真空は 準安定 ── 崩壊はするが、\(10^{300}\) 年級の時間がかかる、という位置に来ます。しかも「安定」との境目のすぐ内側という、不気味なほど微妙な場所(near-criticality)。ただし \(m_t\) にきわめて敏感で、プランクスケールまで新物理がないという仮定にも依ります。
ホーキング輻射さえ「地平面をすり抜ける」と読め、\(e^{-E/k_BT_{\rm H}}\) が出てきます。結論 ── 世界の「大きさ」は、たいてい指数の肩の上に書いてある。太陽の寿命も、陽子の質量も、真空の寿命も。そして肩に乗る量の出自は共通で、虚時間の中の古典運動でした。実時間で「不可能」に見えるものは、たいてい虚時間では「ふつう」です。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではトップクォーク質量を 1 GeV 動かすだけで、λ がゼロを切る場所が桁で移動します。実測値のあたりが「安定」と「準安定」の境目のすぐ内側にあることを確かめてください。「答えを見る」で解答が開きます。