わかるすり抜け第 7 回(本編最終回) / 真空もすり抜ける

すり抜けるものを、いちばん大きくする ── 宇宙そのものが、まだ落ちきっていないかもしれない

真空もすり抜ける いま私たちがいる真空が、いちばん低い状態とは限りません
もしそうなら、真空はより低い真空へすり抜けます ── 確率はやはり \(e^{-S_E/\hbar}\)。
そしてヒッグスとトップの実測値を入れると、答えはぎりぎり準安定でした。

必要な道具:第1回の \(e^{-2S_E/\hbar}\)、第6回の非摂動、「わかる場」のヒッグス この回の芯:バウンス Γ/V = A e^(−S_E/ℏ)

本編最終回です。第1回で「壁は虚時間では谷になる」と書きました。その一行を、いちばん大きなものに当てます ── 真空。真空とは「場が谷の底にいる状態」ですが、谷が2つあったらどうでしょう。いま私たちがいる谷が、いちばん深い谷とは限りません。だとすれば、真空はより深い谷へすり抜けます。1977年、コールマンがこの確率を計算しました ── \(\Gamma/V=Ae^{-S_E/\hbar}\)、これまでとまったく同じ形です。そして驚くべきことに、これは机上の空論ではありません。2012年に測られたヒッグス粒子の質量と、トップクォークの質量を入れると、標準模型の真空は「安定」でも「不安定」でもなく 準安定 ── 崩壊はするが、宇宙年齢よりはるかに長い時間がかかる、という微妙な位置に落ちます。私たちは、指数の肩の上に住んでいます。

01真空に、谷が2つあったら

「真空」とは何もない空間のことではなく、場がエネルギーの谷の底で静止している状態のことです(姉妹編「わかる場」)。ヒッグス場もそうで、いまその値は 246 GeV のところで落ち着いています。

問題は、谷が1つとは限らないことです。もっと遠く、もっと深いところにもう一つ谷があったら ── 私たちの谷は偽の真空(false vacuum)ということになります。

偽の真空は、どうやって落ちるか

古典的には落ちられません。間に丘があるからです。しかし第1回のとおり、量子力学ならすり抜けられます
ただし場の理論では、すり抜け方が独特です。空間全体がいっせいに移るのではなく、どこか一点に、真の真空の「泡」が生まれる。泡には2つの収支があります ── 中身が得するエネルギー(体積に比例)と、泡の壁を作る損(表面積に比例)。

$$\Delta E(R)=-\frac{4\pi}{3}R^3\varepsilon+4\pi R^2\sigma$$

小さい泡は表面が勝って潰れ、大きい泡は体積が勝って光速近くで膨張します。分かれ目は \(R_c=3\sigma/\varepsilon\)。
「臨界半径の泡が生まれる確率」がすり抜け確率で、コールマンのバウンス解を使うと

$$\frac{\Gamma}{V}=A\,e^{-S_E/\hbar},\qquad S_E=\frac{27\pi^2\sigma^4}{2\varepsilon^3}$$

またしても \(e^{-S_E/\hbar}\) です。第1回の粒子、第2回の陽子、第4回の位相、そして今度は宇宙そのもの。同じ式が、まったく違うスケールで効いています。

02ヒッグスとトップの実測値を入れる

ここからが本題です。標準模型では、ヒッグス場の「谷の形」はエネルギースケールとともに変わります(姉妹編「わかる繰り込み」の走る結合定数)。谷の急さを決める結合 \(\lambda\) が、高エネルギーへ行くにつれてどう変わるかを計算できます。

誰が \(\lambda\) を押し下げるか

1ループの流れの主役は、この2項です:

$$16\pi^2\frac{d\lambda}{d\ln\mu}=\underbrace{24\lambda^2}_{\text{自分自身:押し上げ}}\underbrace{-\,6y_t^4}_{\textbf{トップクォーク:押し下げ}}+\cdots$$

トップクォークが、真空の安定性を脅かしています。 トップは最も重いフェルミオン(湯川結合 \(y_t\approx0.94\))で、しかも 4 乗で効く。だから高エネルギーへ行くと \(\lambda\) がぐんぐん下がり、どこかでゼロを切ります。\(\lambda<0\) は「谷が下向きに開いている」=そこにもっと低い真空がある、という意味です。

03動かしてみる ── 私たちの真空は、どこにいるか

下の図は、標準模型のヒッグス自己結合 \(\lambda\) を 1 ループで実際に走らせたものです。横軸はエネルギースケール(GeV、対数、\(10^2\) から プランクスケール \(10^{19}\) まで)。

トップクォークの質量スライダーを動かしてみてください。 わずか 1 GeV 変えるだけで、\(\lambda\) がゼロを切る場所が桁で動きます。そして実測値(\(m_t\approx172.5\) GeV、\(m_H\approx125.25\) GeV)を入れると ── ちょうど「準安定」と「安定」の境目のすぐ内側に落ちます。この偶然じみた位置取りはnear-criticality(臨界すれすれ)と呼ばれ、標準模型最大の謎のひとつです。

図:ヒッグス自己結合 λ の走り(1ループ、標準模型)。横軸=エネルギースケール(対数)。λ がゼロを切る場所が「不安定スケール」。赤の破線は、そこから下だと宇宙年齢内に崩壊してしまう境界(準安定/不安定の目安)。トップ質量を 1 GeV 変えるだけで、答えが桁で動く
λ(μ) λ = 0 の線 準安定/不安定の境目

04「準安定」とは、どういう意味か

分類意味私たちは?
安定\(\lambda\) がプランクスケールまで正のまま。より低い真空は存在しないぎりぎり違う
準安定より低い真空はあるが、そこへ落ちるのに宇宙年齢よりはるかに長い時間がかかるここ
不安定宇宙年齢のうちに崩壊してしまう。私たちが存在できない明確に違う

寿命の見積もりは計算によって幅がありますが、おおむね \(10^{100}\) 年をはるかに超え、しばしば \(10^{300}\) 年以上とされます。宇宙年齢が \(1.4\times10^{10}\) 年ですから、比べる意味がないほど長い

心配しなくてよい理由 ── 宇宙線がとっくに試している 「加速器で真空崩壊を起こしてしまうのでは」という心配は、1983年にハットとリースがきれいに片付けています。
宇宙線は、人類の加速器よりはるかに高いエネルギーで、138 億年ものあいだ宇宙中で衝突し続けてきました。観測されている最高エネルギーの宇宙線は \(10^{20}\) eV 級 ── LHC の重心系エネルギーの何桁も上です。それでも宇宙は健在です。自然がすでに膨大な回数の実験を済ませていて、何も起きていない ── これが最も強い安全性の議論で、加速器実験のたびに繰り返し確認されています。

05ホーキング輻射も、すり抜けと読める

もう一つ、大きなものを。2000年、パリクとウィルチェックがホーキング輻射をトンネル効果として導出しました

地平面をすり抜ける

ブラックホールのすぐ内側にいる粒子にとって、地平面は「越えられない壁」です。ところが第1回の要領で作用を計算すると、抜け出す確率が

$$\Gamma\propto e^{-2\,\mathrm{Im}S}=e^{-8\pi GME/\hbar c^3}=e^{-E/k_BT_{\rm H}}$$

── ちょうど温度 \(T_{\rm H}=\hbar c^3/8\pi GMk_B\) のボルツマン因子になります。姉妹編「わかる温度」最終回のホーキング温度が、すり抜けの言葉で出てきました。
しかもこの導出には続きがあります。粒子が出ていくとブラックホールは軽くなるので、エネルギー保存を厳密に入れると指数が \(e^{-8\pi GE(M-E/2)/\hbar c^3}\) に修正される。するとスペクトルは厳密な熱的分布からずれ、放射どうしに相関が生まれます ── 情報が出てくる余地があるかもしれない、という議論につながります(姉妹編「わかるブラックホール」の情報パラドックス)。

06シリーズの結論 ── 世界の大きさは、肩の上に書いてある

すり抜けたもの肩に乗っていたもの
第1回粒子(壁)\(2S_E/\hbar\)
第2回陽子(クーロン障壁)\(\sqrt{E_G/E}\)
第3回熱かすり抜けかの分かれ目\(2\pi E_b/\hbar\omega_b\)
第4回位相差(巨視的な1変数)\(\Delta U/k_BT\) と \(2S_E/\hbar\)
第5回(すり抜けではない)\(1/N(0)V\)
第6回摂動論の外側そのもの\(S/g\)
第7回真空\(S_E/\hbar\)
シリーズの結論

世界の「大きさ」は、たいてい指数の肩の上に書いてあります。

太陽の寿命も、超伝導の転移温度も、陽子の質量も、真空の寿命も ── どれも \(e^{-(\text{何か})}\) の形で決まっていて、肩の上が数十変わると答えは数十桁変わる。だからこそ、桁の違う現象が同じ宇宙に同居できます。もし全部が線形なら、太陽は一瞬で燃え尽き、真空は最初に崩壊し、私たちは存在しません。

そして肩の上に乗る量には、共通の出自がありました ── 虚時間の中の古典運動。壁は虚時間では谷になり(第1回)、熱は虚時間の円になり(第3回)、真空崩壊は虚時間の泡になる(この回)。実時間で「不可能」に見えるものは、たいてい虚時間では「ふつう」です。

全集の見取り図でいえば、この シリーズは\(\hbar\) 軸の非摂動側を歩いたことになります ── そして最後に \(G\)(真空崩壊・ホーキング)と \(k_B\)(第3回の \(T_0\))にも触れました。物理の立方体の、対角線に近いあたりです。

◇ ◇ ◇
正直な線 ── どこからが仮定か

確立していること:偽真空崩壊の理論(Coleman 1977、Callan–Coleman 1977)と \(\Gamma/V=Ae^{-S_E/\hbar}\)、薄壁極限の \(S_E=27\pi^2\sigma^4/2\varepsilon^3\)、臨界半径 \(R_c=3\sigma/\varepsilon\);標準模型でヒッグス自己結合 \(\lambda\) が高エネルギーで負に転じうること、その主因がトップクォーク湯川結合の \(-6y_t^4\) 項であること;実測値のもとで標準模型の真空が準安定と評価され、寿命が宇宙年齢を桁違いに上回ること(Degrassi ら 2012、Buttazzo ら 2013 ほか);宇宙線による安全性の議論(Hut–Rees 1983);ホーキング輻射のトンネル描像(Parikh–Wilczek 2000)とそれがホーキング温度を再現すること。いずれも標準的な結果です。

仮定・注意:① 準安定という結論は「プランクスケールまで標準模型がそのまま成り立つ」という強い仮定に依ります。新粒子が一つでもあれば走りが変わり、結論は変わりえます。② 結果は \(m_t\) に極端に敏感で、トップ質量の「どの定義か」(極質量か MS-bar か、モンテカルロ質量との関係)に系統誤差があることが最大の不確かさです。図でスライダーを動かせば、その敏感さ自体は体感できます。③ 図は1ループの走りで、簡略化されています。実際の解析は2〜3ループで行われ、λ がゼロを切るスケールは \(10^{10\text{–}11}\) GeV 程度とされます。図の値は桁の目安として読んでください。④ 準安定/不安定の境界線も近似式です。⑤ 曲がった時空(膨張宇宙、ブラックホール近傍)での泡の生成は、平坦時空の計算そのままではなく、いまも議論があります。⑥ Parikh–Wilczek はホーキング輻射のひとつの導出であり、情報が本当に取り出せるかは解決していません。⑦ 真空崩壊は人為的に引き起こせるものではありません(宇宙線の議論)。

練習問題(この回の考え方で解けます)
  1. 真空崩壊が「泡」として起きるのはなぜか。空間全体がいっせいに移らないのはなぜか。
    答えを見る
    空間全体を一度に動かすには無限のエネルギー(=無限の作用)が要り、\(e^{-S_E/\hbar}\) がゼロになるから。有限の作用で済むのは局所的な泡だけ。泡は体積で得して表面で損するので、臨界半径 \(R_c=3\sigma/\varepsilon\) を超えたものだけが膨張する。
  2. トップクォークが真空の安定性を脅かすのはなぜか。
    答えを見る
    \(\lambda\) の走りに \(-6y_t^4\) という負の項で入るから。トップは最も重いフェルミオンなので \(y_t\approx0.94\) と大きく、しかも 4 乗で効く。だから高エネルギーで \(\lambda\) を押し下げ、どこかでゼロを切らせる。
  3. 加速器で真空崩壊が起きる心配がないと言えるのはなぜか。
    答えを見る
    宇宙線がすでに試しているから(Hut–Rees 1983)。観測される最高エネルギー宇宙線は \(10^{20}\) eV 級で人類の加速器より桁違いに高く、それが 138 億年、宇宙中で衝突し続けてきた。それでも宇宙は健在 ── 自然が済ませた膨大な実験が、最も強い上限を与えている。
  4. このシリーズを通じて、\(e^{-(\text{肩})}\) という形が繰り返し出てきた。それは世界にとってどんな意味を持つか。
    答えを見る
    桁の違う現象が同居できるということ。肩の上が数十変わると答えが数十桁変わるので、太陽は 100 億年もち、超伝導は数 K で起き、真空は \(10^{300}\) 年もつ、という極端に離れた時間スケールが一つの宇宙に共存できる。もし全部が線形なら、こうはならない。

第7回まとめ / わかるすり抜け・本編完結私たちは、指数の肩の上に住んでいる

すり抜けるものを、いちばん大きくしました ── 真空。谷が2つあれば、いま私たちがいる谷は偽の真空かもしれず、そこから真の真空へ泡が生まれてすり抜けます。確率は \(\Gamma/V=Ae^{-S_E/\hbar}\)(コールマン 1977)── 第1回とまったく同じ形です。

そしてこれは机上の話ではありません。ヒッグス自己結合 \(\lambda\) はトップクォークの \(-6y_t^4\) に押されて高エネルギーで負に転じ、実測値を入れると標準模型の真空は 準安定 ── 崩壊はするが、\(10^{300}\) 年級の時間がかかる、という位置に来ます。しかも「安定」との境目のすぐ内側という、不気味なほど微妙な場所(near-criticality)。ただし \(m_t\) にきわめて敏感で、プランクスケールまで新物理がないという仮定にも依ります。

ホーキング輻射さえ「地平面をすり抜ける」と読め、\(e^{-E/k_BT_{\rm H}}\) が出てきます。結論 ── 世界の「大きさ」は、たいてい指数の肩の上に書いてある。太陽の寿命も、陽子の質量も、真空の寿命も。そして肩に乗る量の出自は共通で、虚時間の中の古典運動でした。実時間で「不可能」に見えるものは、たいてい虚時間では「ふつう」です。

この文書は「わかるすり抜け」シリーズ第7回(本編最終回)、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。偽真空崩壊の理論(Coleman 1977、Callan–Coleman 1977)、\(\Gamma/V=Ae^{-S_E/\hbar}\)、薄壁極限の作用と臨界半径、標準模型におけるヒッグス自己結合の走りとトップ湯川結合による不安定化、実測値のもとでの真空の準安定性(Degrassi ら 2012、Buttazzo ら 2013 ほか)、宇宙線による安全性の議論(Hut–Rees 1983)、およびホーキング輻射のトンネル描像(Parikh–Wilczek 2000)は、いずれも標準的な結果です。準安定という結論がプランクスケールまで標準模型が成り立つという仮定に依ること、トップ質量の定義に関わる系統誤差が最大の不確かさであること、図が1ループの簡略化された走りであり実際の解析は2〜3ループで行われること(λ がゼロを切るスケールは \(10^{10\text{–}11}\) GeV 程度)、曲がった時空での泡生成に議論があること、Parikh–Wilczek が複数ある導出のひとつで情報問題は未解決であること、および真空崩壊が人為的に引き起こせるものではないことは、本文「正直な線」に明記しました。図は標準模型の1ループ繰り込み群方程式をブラウザ内で数値積分しています。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前の回:第6回 摂動論に、絶対に見えないもの/番外編へ:常温核融合は起きるのか目次/姉妹編 わかる温度わかるブラックホールわかる場物理の立方体

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではトップクォーク質量を 1 GeV 動かすだけで、λ がゼロを切る場所が桁で移動します。実測値のあたりが「安定」と「準安定」の境目のすぐ内側にあることを確かめてください。「答えを見る」で解答が開きます。