このシリーズで c はどこに出たか、数え直してみる ── 出た場所には、必ず地平面があった
本編を書き終えてから、読者にこう聞かれました ── 「温度にもすり抜けにも光速 c が出てくる。なら \(c\cdot t=\)一定 の座標系で見ると、説明が楽になったりしないのか」。いい問いなので、まず数え直しました。すると意外なことがわかります ── このシリーズで c が本当に効いているのは、第7回だけ。第1〜6回には c が一度も出てきません。あの虚時間の周期 \(\beta\hbar\) にすら c は入らないのです。では \(c\cdot t\) の見方は無駄なのか ── そんなことはありません。効く場所が一箇所だけあって、そこでは劇的に効きます。地平面があるところです。そして地平面とは、そもそも光円錐で定義されたもの、つまり \(c\cdot t\) そのものでした。三つの温度が一行になります。
| 回 | 主役の式 | c は? |
|---|---|---|
| 第1回 \(k_B\) は換算係数 | \(E/k_BT\) | なし |
| 第2回 エネルギーの配り方 | \(\beta=d\ln\Omega/dE\) | なし |
| 第3回 熱=追跡をやめた運動 | \(\hbar\omega/k_BT\) | なし |
| 第4回 ゆらぎの定理 | \(\sigma/k_B\) | なし |
| 第5回 負の温度 | \(\Delta E/k_BT\) | なし |
| 第6回 虚時間の周期 | \(\beta\hbar=\hbar/k_BT\) | なし |
| 第7回 ウンルー | \(T=\hbar a/2\pi ck_B\) | あり |
第6回に c がないのが効いています。虚時間の周期 \(\beta\hbar\) は「時間」です。「長さ」ではありません。だから c を掛けて長さに直しても、ふつうは何も増えない ── 単位を変えただけです。
すり抜けシリーズでも同じでした。ガモフ因子も BCS ギャップも分かれ目の温度 \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) も、全部 c なし。非相対論の話だから当然です。
「c が出てくるから \(c\cdot t\) で見よう」は、そのままでは通りません。c が出てくる場所が、両シリーズ合わせて数えるほどしかないからです。
問うべきなのは ── 出てきた数箇所には、何か共通の事情があるのか。あります。
c が本質的に入っている場所を並べると、全部同じ特徴を持っています。
ウンルー効果にはリンドラー地平面があり、ホーキング輻射には事象の地平面があり、膨張宇宙には宇宙の地平面があります。
そして地平面とは何かというと ── 「そこから先の光はもう届かない」という境目。定義そのものが光円錐、つまり \(c\cdot t\) です。
だから地平面があるときにかぎり、「距離」と「時間」が同じ一つの量になります。c を掛けるのが単位変換ではなくなる、唯一の場所です。
そこで、地平面までの光の飛行時間を \(t_{\rm hor}=L_{\rm hor}/c\) と書くことにします。すると:
右の形が、第6回とのつながりを見せてくれます ── 「虚時間の周期は、地平面までの光の飛行時間の \(2\pi\) 倍」。
第6回で「温度とは虚時間の円の周の逆数」と書きました。この番外編はその続きです ── その円の周の長さを決めているのが、地平面までの光の飛行時間だった。
| 系 | 地平面までの距離 \(L_{\rm hor}\) | \(t_{\rm hor}\) | 出てくる温度 |
|---|---|---|---|
| 加速する観測者 | \(c^2/a\) | \(c/a\) | \(T=\dfrac{\hbar a}{2\pi ck_B}\) ✓ |
| ブラックホール | \(2r_s=4GM/c^2\) | \(4GM/c^3\) | \(T=\dfrac{\hbar c^3}{8\pi GMk_B}\) ✓ |
| 膨張宇宙 (ド・ジッター) | \(c/H\) | \(1/H\) | \(T=\dfrac{\hbar H}{2\pi k_B}\) ✓ |
ブラックホールの行だけ確かめておきます。\(r_s=2GM/c^2\) なので \(t_{\rm hor}=2r_s/c=4GM/c^3\)。入れると
$$k_BT=\frac{\hbar}{2\pi\cdot 4GM/c^3}=\frac{\hbar c^3}{8\pi GM}\quad\Longrightarrow\quad T=\frac{\hbar c^3}{8\pi GMk_B}\ \checkmark$$三つの式を覚える必要がなくなりました。覚えるのは「地平面までの光の飛行時間」の一つだけ。
もっと言えば、三つとも「表面重力 \(\kappa\) を使って \(T=\hbar\kappa/2\pi ck_B\)」と書けて、\(t_{\rm hor}=c/\kappa\) です ── 加速度・表面重力・ハッブル定数は、同じ席に座っている。
下の図は、この式そのものです。横軸が \(t_{\rm hor}\)、縦軸が温度。両対数なので、傾き −1 のまっすぐな一本の線になります。
面白いのは、スライダーを動かすと五つの読みが同時に出ることです ── 同じ \(t_{\rm hor}\) が、「この加速度」「この質量のブラックホール」「このハッブル定数」のどれとしても読める。物理的にまったく違う三つの状況が、一つの数で指定できてしまいます。
この式のいちばん気持ちのいい使い方です。
つまり \(t_{\rm hor}\approx1\) 年。そのまま式に入れると:
$$T=\frac{\hbar}{2\pi k_B\times 1\ \text{年}}\approx 4\times10^{-20}\ \mathrm{K}$$第7回で出した「地球の重力のウンルー温度 \(4\times10^{-20}\) K」と一致します。「1年」という数字から直接出てくる。
いま椅子に座っているあなたの後ろ 1 光年のところに、あなた専用の地平面があります。(正確には、その加速を無限に続けたときの話。詳しくは正直な線で。)
逆向きにも使えます。室温 300 K を感じるには、地平面が何メートル先にあればよいか。
対応する加速度は \(a=c^2/L=7.4\times10^{22}\ \mathrm{m/s^2}\) ── 第7回の表の数字そのものです。
そしてもう一つ ── 第6回で「室温の虚時間の周期は 25 フェムト秒」と書きました。ここで出た \(t_{\rm hor}=4.1\) fs を \(2\pi\) 倍すると 25 fs。同じ一つの数を、別の顔で見ていただけでした。
ここが本題です。なぜ地平面のあるときだけ \(c\cdot t\) が効くのか。
第7回の \(2\pi\) を思い出してください。ユークリッド化した時空が極座標になるから出てきました。でも極座標が作れるためには条件があります。
相対論的な時空でウィック回転すると、計量はこう変わります:
$$-c^2dt^2+dx^2\ \xrightarrow{\ t=-i\tau\ }\ +c^2d\tau^2+dx^2$$右辺はふつうのユークリッド平面です。ただしそう読めるのは、\(c\tau\) と \(x\) が同じ単位で、同じ平面に乗っているから。\(c\cdot t\) を長さとして扱えること自体が、虚時間を「角度」にするための前提条件だったのです。
平面があるから極座標が作れ、角度が定義でき、1周が \(2\pi\) になり、円錐特異点を避ける条件から周期が決まる ── あの導出は、\(c\cdot t\) の上に立っていました。
逆に、非相対論の系ではこれが使えません。ポテンシャル中の粒子にとって、虚時間 \(\tau\) と空間 \(x\) を混ぜる計量はありません。平面がないので、角度も作れない。
姉妹編「わかるすり抜け」第3回で、熱とすり抜けの分かれ目 \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) を出しました。ウンルー温度と字面がそっくりです。あのときは「同じ \(2\pi\)」と書きましたが、\(c\cdot t\) の視点を入れると、もっと正確に言えます。
| ウンルー \(T=\hbar(a/c)/2\pi k_B\) | すり抜け第3回 \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) | |
|---|---|---|
| \(2\pi\) の出どころ | 幾何(角度の1周) | 力学(調和振動の1往復) |
| \(c\cdot t\) が要るか | 要る(平面がないと角度が作れない) | 不要 |
| 地平面はあるか | ある | ない |
| \(2\pi/\omega\) の \(\omega\) は | \(a/c\)(=\(1/t_{\rm hor}\)) | \(\omega_b\)(障壁頂上の振動数) |
| 判定 | 第2段 ── 同じ枠組み(虚時間方向の周期が \(2\pi/\omega\))の別実装。第3段(一方から他方が導ける)ではない | |
確立していること:ウンルー温度 \(T=\hbar a/2\pi ck_B\)、ホーキング温度 \(T=\hbar c^3/8\pi GMk_B\)、ギボンズ–ホーキング温度 \(T=\hbar H/2\pi k_B\)(1977、ド・ジッター時空の静的パッチ);三つとも表面重力 \(\kappa\) を用いて \(T=\hbar\kappa/2\pi ck_B\) と統一的に書けること;リンドラー地平面が加速する観測者から \(c^2/a\) の距離にあること;シュヴァルツシルト半径 \(r_s=2GM/c^2\);数値(地上の重力で \(4\times10^{-20}\) K、太陽質量で \(6.2\times10^{-8}\) K、月質量で 1.7 K、いまの宇宙で \(2.7\times10^{-30}\) K)。いずれも標準的な結果です。
注意すること:① この番外編は既知の三つの式の書き直しであって、新しい物理ではありません。「表面重力で書く」という統一は教科書的で、それを「光の飛行時間」に読み替えただけです。役に立つのは記憶と直感であって、内容は増えていません。② ド・ジッター地平面の温度(\(2.7\times10^{-30}\) K)は、CMB の温度(2.7 K)とはまったく別物です。桁が 30 違います。前者は地平面が出す熱、後者は膨張で薄まった放射。混ぜないでください。③ 関連して、「\(c\cdot t=\)一定 だから温度が \(1/t\)」と言えるのは地平面温度のほうです。放射優勢期の CMB 温度は \(a(t)\propto t^{1/2}\) なので \(T\propto t^{-1/2}\) であって \(1/t\) ではありません。④ 「地平面までの距離」には流儀があります。リンドラーの \(c^2/a\) は厳密ですが、ブラックホールで \(t_{\rm hor}=2r_s/c\) と置いたのは式の形をそろえるための選び方です(表面重力から一意に決まりますが、「半径」ではなく「直径の光横断時間」になる点に注意)。⑤ ギボンズ–ホーキング温度はド・ジッター時空の静的パッチについての結果で、一般の膨張宇宙の「地平面温度」はもっと微妙です(宇宙が加速膨張していない時期には、そもそも定常的な地平面温度が定義しにくい)。⑥ ウンルー効果もホーキング輻射も直接観測されていません(第7回の正直な線と同じ)。⑦ 「あなたの後ろ 1 光年に地平面がある」は、その加速度で無限の過去から無限の未来まで加速し続けた場合の理想化です。地球に立っているだけでは、その地平面は実際には形成されません。
数え直すと、このシリーズで c が本質的に効いているのは第7回だけでした。第1〜6回にはゼロ ── 虚時間の周期 \(\beta\hbar\) にすら入りません。あれは「時間」であって「長さ」ではないからです。
ところが c が出てくる場所には、必ず地平面があります。地平面とは「そこから先の光は届かない」境目、つまり定義そのものが \(c\cdot t\)。距離と時間が同じ一つの量になる、唯一の場所です。そこで \(t_{\rm hor}=L_{\rm hor}/c\) と置くと ──
\(k_BT=\dfrac{\hbar}{2\pi\,t_{\rm hor}}\) つまり \(\beta\hbar=2\pi\,t_{\rm hor}\)
ウンルー・ホーキング・ド・ジッターの三つがこの一行で全部出ます。第6回の「温度=虚時間の円の周の逆数」の続きで、その円の周を決めていたのが地平面までの光の飛行時間だったということ。地上のあなたの地平面は約1光年先=1年で、そこから \(4\times10^{-20}\) K が直接出ます。
そしてなぜ効くのか ── \(c\cdot t\) を長さとして扱えることが、虚時間を「角度」にするための前提条件だったから。相対論的な計量が \(c\tau\) と \(x\) を同じ平面に乗せてくれるので極座標が作れ、\(2\pi\) が出る。非相対論の系にはその平面がないので、すり抜け第3回の \(2\pi\) は力学から出る別実装=第2段でした。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダー一つで、地平面までの時間・距離・温度・等価な加速度・等価なブラックホール質量・等価なハッブル定数が同時に出ます。ボタンで実例に飛べます。「答えを見る」で解答が開きます。