等速で飛べば真空、加速すれば同じ真空が熱浴に見える ── 温度は、観測者の運動状態にも依る
本編最終回です。第1回で「温度は物質の性質ではない」と書きました。その主張を、最後まで押し切ります ── 温度は、観測者の運動状態にも依る。同じ空っぽの空間を、等速で飛ぶ観測者は「真空」と呼び、加速している観測者は「温度 \(T\) の熱浴」として感じます(ウンルー効果、1976)。温度計を持って加速すれば、目盛りが上がる。しかもその温度は \(T=\hbar a/2\pi ck_B\) という、\(\hbar\)・\(c\)・\(k_B\) が全部そろった式で書けます ── 全集でいえば、量子(ℏ)と相対論(c)と熱(k_B)が一点で交わる場所です。そして \(2\pi\) の出所が美しい。第6回で見た「虚時間の円」が、加速する観測者にとっては文字どおり角度になり、角度は 1 周が \(2\pi\) だから── それだけです。同じ論法をブラックホールに当てると、ホーキング温度が落ちてきます。
真空とは「粒子が 1 個もない状態」です。ところが量子場の理論では、「粒子が何個あるか」の数え方が、観測者によって変わります。等速で飛ぶ観測者にとって粒子ゼロの状態が、加速する観測者にとってはゼロではない ── これがウンルー効果の中身です。
ここで大事なのは、加速する観測者に見えるのがただの雑音ではなく、きちんとした熱分布だという点です。粒子のエネルギー分布を測ると、第2回のボルツマン因子 \(e^{-E/k_BT}\) にぴったり従う。温度が、ちゃんと定義できる。
\(a\) は観測者の(固有)加速度。\(\hbar\)(量子)・\(c\)(相対論)・\(k_B\)(熱)が全部そろっているのが目印です ── これは三つの分野が交わるところにしかない式。
| 加速度 | a [m/s²] | ウンルー温度 |
|---|---|---|
| 地球の重力 | 9.8 | 4×10⁻²⁰ K |
| 戦闘機の 9G | 88 | 3.6×10⁻¹⁹ K |
| 宇宙背景放射 2.7 K に並ぶには | 6.7×10²⁰ | 2.7 K |
| 室温 300 K に並ぶには | 7.4×10²² | 300 K |
地球の重力で \(10^{-20}\) K。現在の最低到達温度(\(10^{-10}\) K 台)の、さらに 10 桁下です。だから日常では絶対に気づけない。
逆に言えば、この \(4\times10^{-21}\) という数字の小ささが、\(\hbar\)(小さい)と \(1/c\)(小さい)と \(1/k_B\)(大きい)の積み重ねになっていて ── ウンルー効果が見えないことこそが、量子と相対論と熱がふだん交わらない理由そのものです。
この \(2\pi\) は円周率としてなんとなく出てきたのではありません。本当に円の \(2\pi\) です。
一定の加速度 \(a\) で飛ぶ観測者の座標(リンドラー座標)で時空を書き、第6回のように時間を虚軸に回すと、時空の計量が 平面の極座標 の形になります ── 動径が空間方向、そして角度が虚時間方向。
ここで決定的なのは、角度は 1 周すると必ず元に戻るということ。1 周= \(2\pi\) です。そうでないと原点に円錐特異点(先の尖った不連続)ができてしまう。時空がなめらかであるためには、虚時間方向の周期が
第6回の結論「虚時間の周期 \(=\hbar/k_BT\)」と等号でつなぐと ── \(\hbar/k_BT=2\pi c/a\)、すなわち \(T=\hbar a/2\pi ck_B\)。
温度が、時空がなめらかであるという要求から出てきました。これがこの回のいちばん美しいところです。
ブラックホールの地平面のすぐ外で静止していようとすると、落ちないために加速し続ける必要があります。等価原理(姉妹編「わかる相対論」第6回)により、加速と重力は区別できない ── ならば、そこにもウンルー温度があるはずです。
実際、遠くから見た温度に直すと:
形はウンルーと同じ \(T=\hbar\kappa/2\pi ck_B\) で、加速度の役を表面重力 \(\kappa\) が務めます。導出も同じ ── ユークリッド化した時空に円錐特異点ができない条件から、虚時間の周期が決まり、温度が決まる。
そして \(1/M\) に比例するので、軽いブラックホールほど熱い。太陽質量なら \(6\times10^{-8}\) K(宇宙背景放射より 8 桁冷たい)、月質量なら 1.7 K、さらに軽ければどんどん熱くなって最後は爆発的に蒸発します。
下の図は、宇宙の温度を対数目盛りで一本に並べたものです。上のスライダーで加速度を、下のスライダーでブラックホールの質量を動かすと、それぞれのカーソルが動きます。
面白いのは、二つのカーソルが同じ軸の上を動くことです ── 加速度とブラックホールの質量という、まったく別のものが、同じ温度目盛りの上で比べられる。そして両方とも、身のまわりの温度(室温、CMB)からは何桁も離れたところにいる。
7 回かけて、温度は三度その顔を変えました。
| 回 | 温度とは | 効く比 |
|---|---|---|
| 第1回 | エネルギーの別の呼び名。\(k_B\) は換算係数 | \(E/k_BT\) |
| 第2回 | 場合の数の対数の傾き \(\beta=d\ln\Omega/dE\) | \(E/k_BT\) |
| 第3回 | どの自由度を起こせるかの目安 | \(\hbar\omega/k_BT\) |
| 第4回 | 第二法則が破れる確率を決めるもの | \(\sigma/k_B\) |
| 第5回 | 逆数 \(1/T\) こそが本体。上限があれば負にもなる | \(\Delta E/k_BT\) |
| 第6回 | 虚時間方向の周期の逆数 | \(E\beta\hbar/\hbar\) |
| 第7回 | 観測者の運動状態にも依る、幾何の量 | \(\hbar a/ck_BT\) |
温度は、物質の性質ではありません。「熱さ」でもありません。
エネルギーを配るときの傾きであり、虚時間の円の周の逆数であり、そして観測者の運動状態にも依る量です。唯一ずっと変わらなかったのは ── 効くのは \(k_B\) で割った無次元の比だけという一点。\(k_B\) そのものは、第1回で見たとおりただの両替レートで、温度をエネルギーで測れば消えてしまいます。
「単位のある量は舞台装置、効くのは無次元の比」── 全集を貫くこの視点が、温度でもそのまま成り立ちました。物理の立方体(\(c\)・\(\hbar\)・\(G\))に、これで 4 本目の軸 \(k_B\) が入ります。そしてこの回の \(T=\hbar a/2\pi ck_B\) は、その 4 本のうち 3 本が同時に顔を出す、珍しい式でした。
確立していること(理論として):ウンルー効果 \(T=\hbar a/2\pi ck_B\)(Fulling 1973、Davies 1975、Unruh 1976);ホーキング輻射とホーキング温度 \(T=\hbar c^3/8\pi GMk_B\)(1974);リンドラー座標のユークリッド化が極座標となり、円錐特異点を避ける条件から虚時間の周期が \(2\pi c/a\) に決まること;ブラックホールでも同様に表面重力から温度が決まること;\(4.05\times10^{-21}\) K per (m/s²) と \(6.17\times10^{-8}\ \mathrm{K}\times M_\odot/M\) という数値。理論としてはいずれも標準的で、独立な複数の導出があります。
ただし:① ウンルー効果もホーキング輻射も、直接観測されていません。必要な加速度(\(10^{20}\ \mathrm{m/s^2}\) 級)も、天体ブラックホールの温度(\(10^{-8}\) K、CMB より 8 桁冷たい)も、現在の技術の遥か外です。実験室で「類似系」(音響ブラックホール、BEC など)での対応現象は報告されていますが、それは同じ数式に従う別の系であって、本物の時空での検証ではありません。② 「粒子数が観測者に依る」という言明には、粒子の定義(どのモードを正振動数とみなすか)が観測者依存であるという場の理論の事情が入っています。真空そのものが変わるのではなく、真空の読み方が変わるという整理が正確です。③ ウンルー効果は無限に続く一定加速度の理想化で導かれます。有限時間の加速では、熱スペクトルからのずれが出ます。④ 等価原理を使って「重力=加速」と読み替える部分は局所的にのみ成り立ちます(姉妹編「わかる相対論」第6回・第7回の但し書きと同じ)。⑤ 図は温度の桁を並べた模式で、目盛りは対数です。
等速で飛ぶ観測者にとっての真空は、加速する観測者にとって温度 \(T=\hbar a/2\pi ck_B\) の熱浴に見えます(ウンルー効果)。地球の重力なら \(4\times10^{-20}\) K ── 見えないほど小さく、その小ささこそが「量子と相対論と熱がふだん交わらない」ことの数値表現です。
\(2\pi\) の出所は第6回でした。加速する観測者の時空をユークリッド化すると極座標になり、虚時間が角度の役をする。角度は 1 周 \(2\pi\) でなければ円錐特異点ができてしまうので、虚時間の周期が \(2\pi c/a\) に固定され、第6回の「周期=\(\hbar/k_BT\)」と等号でつないで温度が出る。温度が、時空のなめらかさという要求から落ちてきました。 同じ論法をブラックホールに当てると \(T=\hbar c^3/8\pi GMk_B\) ── 軽いほど熱い。
そしてシリーズの結論。温度は物質の性質でも「熱さ」でもなく、エネルギーの配り方の傾きであり、虚時間の円の周の逆数であり、観測者の運動状態にも依る幾何の量でした。7 回を通して変わらなかったのはただ一つ ── 効くのは \(k_B\) で割った無次元の比だけ。\(k_B\) 自身は両替レートで、温度をエネルギーで測れば消えます。物理の立方体に、これで 4 本目の軸が入りました。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では加速度とブラックホール質量の二つのスライダーが、同じ温度目盛りの上のカーソルを動かします。「答えを見る」で解答が開きます。