時間を虚軸に 90 度回すと、量子力学の時間発展が統計力学の重みに化ける ── 温度は、その円の周の長さだった
ここまで温度を「エネルギーの配り方の傾き」として扱ってきました。この回では、まったく別の顔を見ます ── 温度とは、時間のもう一本の軸(虚時間)が閉じている、その円周の逆数。突飛に聞こえますが、出てくるのは驚くほど単純な見比べです。量子力学の時間発展は \(e^{-iHt/\hbar}\)、統計力学の重みは \(e^{-H/k_BT}\)。形がそっくりです。両者が一致するには \(t=-i\hbar/k_BT\) でなければならない ── 純虚数の時間。しかもこれは形式的な遊びではなく、虚時間方向を一周するとボルツマン因子がかかるという物理的な内容(KMS 条件)を持っていて、第3回の「凍結」の別解釈になり、そして最終回のホーキング温度・ウンルー温度の出所そのものになります。姉妹編「わかる宇宙論」第9回で置いた宿題を、ここで回収します。
量子力学の状態は、時間とともに位相が回ります:\(e^{-iEt/\hbar}\)。振動するだけで、大きさは変わりません。
ここで、時間を虚軸にひねってみます。\(t=-i\tau\)(\(\tau\) は実数)と置くと:
$$e^{-iE t/\hbar}\ \xrightarrow{\ t=-i\tau\ }\ e^{-E\tau/\hbar}$$振動が減衰に化けました。 そして減衰の形 \(e^{-E\tau/\hbar}\) は ── 第2回のボルツマン因子 \(e^{-E/k_BT}\) とそっくりです。
つまり ── 虚時間方向に \(\hbar/k_BT\) だけ進むことが、温度 \(T\) の熱平衡をとることと同じ。この長さを \(\beta\hbar\) と書きます(\(\beta=1/k_BT\) は第2回の主役)。
さらに、量子統計の分配関数 \(Z=\mathrm{Tr}\,e^{-\beta H}\) は「始点と終点が同じ」形をしている(トレース)ので、虚時間方向は端がつながった円になります。温度がある系は、時間の一方向が周期 \(\beta\hbar\) の円になっている。
この言い換えの帰結が、いちばん面白いところです。
エネルギー \(E\) の状態を虚時間方向にぐるっと一周させると、係数 \(e^{-E\beta\hbar/\hbar}=e^{-E/k_BT}\) がかかって戻ってきます。
「熱平衡である」=「虚時間を一周するとボルツマン因子がかかる」── これを厳密に述べたものが KMS 条件(久保–Martin–Schwinger)で、じつは現代的にはこれを温度の定義に採用します。相互作用が複雑でも、粒子数が定義できなくても、「虚時間方向の周期性」だけは書ける ── 温度のいちばん一般的な定義がこれです。
第1回で「室温 \(k_BT\approx25\) meV」と覚えました。じつはこれと 25 fs は同じ一つの事実の裏表です(\(\hbar/25\,\mathrm{meV}=26\) fs)。エネルギーで言えば 25 meV、時間で言えば 25 fs ── 不確定性関係 \(\Delta E\,\Delta t\sim\hbar\) で結ばれた、室温という状態のたったひとつの目盛り。
| 温度 | k_BT | 虚時間の周期 ℏ/k_BT | |
|---|---|---|---|
| 宇宙背景放射 2.7 K | 0.23 meV | 2.8 ps | 円が長い=冷たい |
| 液体窒素 77 K | 6.6 meV | 99 fs | |
| 室温 300 K | 25 meV | 25 fs | 基準 |
| 太陽表面 5800 K | 0.50 eV | 1.3 fs | |
| 太陽中心 1.5×10⁷ K | 1.3 keV | 0.5 as | 円がとても短い=熱い |
| 絶対零度 | 0 | ∞ | 円がほどけてただの直線に戻る |
最後の行が示唆的です ── 絶対零度とは、虚時間の円がほどけて無限に長くなった状態。逆に言えば、温度があるとは、時間の一方向が丸まっているということ。第1回で「温度は物質の性質ではない」と言いましたが、ここまで来るとむしろ時空の性質のように見えてきます。この直感が、最終回で本当になります。
下の図は複素時間平面です。横が実時間(ふつうの時間)、縦が虚時間 \(\tau\)。帯の上下の縁は同じ点で、そこで丸まって円筒になっています ── 帯の高さがそのまま周期 \(\beta\hbar\)。
温度スライダーを動かすと、帯の高さが変わります。冷やすと帯が高く(円が長く)なり、熱すると薄く(円が短く)なる。帯の中の濃淡は \(e^{-E\tau/\hbar}\) の減衰で、右端の数字が一周でかかる因子=ボルツマン因子です。エネルギーを切り替えると、「その状態が熱で励起されるかどうか」が一周の因子として読めます。
① 第3回の「凍結」が、円に入るかどうかの話になる。
虚時間方向が周期 \(\beta\hbar\) の円なら、その円の上に乗れる振動数は飛び飛びになります(弦の定在波と同じ)── \(\omega_n=2\pi n/\beta\hbar\)。これを松原振動数といいます。第 1 番目は \(\hbar\omega_1=2\pi k_BT\)、室温なら 157 meV。これより大きなエネルギー間隔を持つ自由度は、円に収まらない=熱では起こせない ── 第3回の \(\hbar\omega/k_BT\) による凍結を、幾何で言い直したものです。
② 統計力学の計算が、量子力学の計算に化ける。
\(d\) 次元の統計力学の問題が、\(d-1\) 次元の空間+1 次元の(周期的な)虚時間、つまり量子力学の問題として解けます。姉妹編「わかる繰り込み」第4回で 2 次元 Ising を扱いましたが、あれは 1 次元の量子スピン鎖と等価です ── 次元がひとつ移し替えられる。この対応(統計↔量子)は、格子ゲージ理論から物性まで、計算の道具として日常的に使われています。
③ 「温度がある」を、幾何で言える。
これが最終回への橋です。虚時間の周期が温度なら、逆に ── 時空の虚時間方向が、何らかの理由でひとりでに丸まっていたら、そこには温度があるということになります。加速する観測者にとって、そしてブラックホールの外にいる観測者にとって、まさにそれが起きます。
確立していること:ウィック回転 \(t=-i\tau\) により量子力学の時間発展演算子 \(e^{-iHt/\hbar}\) が統計重み \(e^{-\beta H}\) に写ること;量子統計の分配関数 \(Z=\mathrm{Tr}\,e^{-\beta H}\) が周期 \(\beta\hbar\) の虚時間経路積分で書けること;KMS 条件が熱平衡状態の一般的な特徴づけを与えること;松原振動数 \(\omega_n=2\pi n/\beta\hbar\)(ボソンの場合);\(d\) 次元古典統計と \((d-1)+1\) 次元量子系の対応;室温での \(\beta\hbar\approx25\) fs。いずれも確立した物理です。
注意すること:① 虚時間は「実在する第二の時間」ではありません。実時間の理論を解析接続して得られる計算上の構成であり、観測されるのはあくまで実時間の量です。虚時間で計算したあと、実時間に戻す(解析接続する)手続きが要ります ── そしてこの逆向きの解析接続は、数値計算では悪条件で有名な難問です。② フェルミオンでは虚時間方向の境界条件が反周期的になり、松原振動数も半整数になります(本文はボソンの場合)。③ ウィック回転がいつでも許されるわけではありません。時間依存の外場がある系、非平衡系、そして一般の曲がった時空では、ユークリッド化が一意でない・そもそも定義できない場合があります。④ 図の帯の高さは温度に反比例させていますが、表示範囲に収めるため上下を打ち切っています(実際の縮尺そのままではありません)。⑤ 「温度がある=時間が丸まっている」は、平衡状態についての言い換えです。
時間を虚軸に 90 度回すと(ウィック回転 \(t=-i\tau\))、量子力学の位相回転 \(e^{-iEt/\hbar}\) が減衰 \(e^{-E\tau/\hbar}\) に化けます。これを第2回のボルツマン因子 \(e^{-E/k_BT}\) と見比べるだけで \(\tau=\hbar/k_BT=\beta\hbar\)。分配関数がトレースであることから虚時間の端はつながり、周期 \(\beta\hbar\) の円になります。
物理的な内容は「虚時間を一周するとボルツマン因子がかかる」── これを厳密化した KMS 条件は、現代的には温度の定義として使われます。桁で見ると室温の一周は 25 フェムト秒で、第1回の「25 meV」と不確定性関係で結ばれた同じ一つの目盛りです。絶対零度は、円がほどけて直線に戻った状態。
配当は三つ ── ① 第3回の凍結が「松原振動数の円に乗るか」に翻訳される(室温の第 1 松原エネルギーは 157 meV)、② \(d\) 次元の統計が \((d-1)+1\) 次元の量子に化ける、③ そして時空の側で虚時間が丸まっていれば、そこには温度がある ── 最終回への橋です。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では温度スライダーで虚時間の帯の高さ(=周期)が変わり、ボタンでエネルギーを切り替えると一周でかかるボルツマン因子が読めます。「答えを見る」で解答が開きます。