「室温で起きてほしいもの」が2つあって、片方は本当に近づいた ── 番外編①と対を成す回
シリーズの最後です。番外編①では「室温で起きてほしいもの」の片方 ── 常温核融合を判定し、起きているという説得力ある証拠はないという結論になりました。この回はもう片方を見ます。室温超伝導。こちらの歴史はまったく違う形をしています ── 1911年に 4 K で見つかり、1968年には「40 K くらいが限界だろう」という理論的な見積もりがあり、1986年に銅酸化物がそれを破り、2015年に高圧水素化物が 203 K、2019年に 250 K(−23 °C)に届きました。しかも高圧水素化物のほうは第5回で習ったふつうの BCS のままで説明がつきます。理論は間違っていなかった ── ただ、もっと硬い格子が必要だっただけでした。そして 2020 年から 2023 年にかけて、この分野は大きな撤回事件を経験します。二つの「室温で起きてほしいもの」を並べると、科学がどう自己修正するかの標本になります。
第5回の式をもう一度:
$$T_c\approx1.13\,\theta_D\,e^{-1/\lambda}$$\(T_c\) を上げる方法は 2 つしかありません ── \(\theta_D\)(格子の硬さ)を上げるか、\(\lambda\)(結合の強さ)を上げるか。ところがどちらにも壁があるように見えました。
\(\lambda\) を大きくするには格子を柔らかくする必要があり、柔らかくしすぎると結晶が壊れます(格子不安定性)。この綱引きから、マクミランは「在来型超伝導の \(T_c\) はせいぜい 30〜40 K」と見積もりました。
実際、1973年のニオブ–ゲルマニウム(23 K)から 1986年まで、記録は 13 年間ほとんど動きませんでした。限界は本物に見えた。
| 年 | 物質 | T_c | 意味 |
|---|---|---|---|
| 1911 | 水銀(オンネス) | 4.2 K | 発見 |
| 1973 | Nb₃Ge | 23 K | 在来型の記録。13年止まる |
| 1986 | La-Ba-Cu-O(ベドノルツとミュラー) | 30 K | 限界を破る。翌年ノーベル賞(史上最速) |
| 1987 | YBCO | 93 K | 液体窒素(77 K)を超えた ── 実用の敷居 |
| 1993 | Hg-Ba-Ca-Cu-O | 133 K(加圧で138 K) | 常圧の記録として長く維持 |
銅酸化物はフォノン機構ではありません(同位体効果が小さいか異常)。対の対称性が d 波であることは確立していますが、40 年たっても機構は決着していません ── スピン揺らぎ説などが有力ですが、合意には至っていない。物性物理最大の未解決問題のひとつです。
ここが面白い転回です。銅酸化物は BCS の外に行きましたが、もう一方の道が残っていました ── \(\theta_D\) を思い切り上げる。
格子の振動数は \(\omega_D\propto1/\sqrt{M}\)。だからいちばん軽い原子=水素を使えば、\(\theta_D\) は桁で上がります。
アシュクロフトは 1968年に金属水素は高温超伝導体になるはずと予言し、2004年には「水素だけを圧縮するのは大変だが、他の元素と化合させれば化学的に予圧縮できる」(=水素化物を使え)と提案しました。指数の肩の上に何が乗っているかを読んで、そこを狙いにいったわけです。
| 年 | 物質 | T_c | 圧力 |
|---|---|---|---|
| 2015 | H₃S(ドロズドフ、エレメツら) | 203 K | 155 GPa |
| 2019 | LaH₁₀ | 約 250 K(−23 °C) | 約 170 GPa |
決定的だったのは、H₃S で同位体効果が確認されたことです ── 水素を重水素に替えると \(T_c\) が下がった。第5回で見たとおり、これはフォノン機構の証拠。つまり ──
高圧水素化物の超伝導は、第5回で習ったふつうの BCS(正確にはその強結合版であるエリアシュベルグ理論)でそのまま説明できます。新しい機構は要りません。
マクミランの限界が破れたのは理論が間違っていたからではなく、「格子を硬くしたまま結合を強くする」方法が見つかっていなかっただけ。水素は軽いので \(\omega\) が高く、しかも水素化物では電子との結合も強い ── 両方を同時に上げられる。
言い換えると:指数の肩の上を読み、肩の上に乗る量を作りにいって、成功した。このシリーズの締めくくりとして、これ以上の例はありません。
下の図の上段は \(T_c\) の歴史です。液体窒素(77 K)と室温(293 K)の線を入れてあります。撤回された主張も、区別して表示できます(ボタンで切替)。
下段は逆算です。第5回の式の強結合版(アレン–ダインズ)で、\(T_c\) を 250 K にするには何が必要かを出します。アルミニウムから LaH₁₀ までプリセットで飛べます ── 必要なのは \(\omega_{\log}\) を 1000 K 級にすること、つまり水素だとわかります。
| 年 | できごと | 結末 |
|---|---|---|
| 2020 | 炭素混合硫化水素(CSH)で 288 K(267 GPa)── ついに室温、と Nature に掲載 | 磁化率データの背景処理に疑義。2022年9月、著者の異議を押し切って撤回 |
| 2023年3月 | 窒素ドープ水素化ルテチウムで 294 K、しかもわずか 1 GPa と報告。大きな注目を集める | 複数グループが追試に失敗。2023年11月、撤回。その後、所属大学の調査で研究不正が認定された |
| 2023年7月 | 韓国のグループが「LK-99」で常圧・常温の超伝導を主張。SNS で世界的な騒ぎに | 約3週間で決着。世界中の追試により、抵抗の落ち込みは不純物の硫化銅(Cu₂S)の構造転移、浮上は反磁性であってマイスナー効果ではない、と判明 |
| 常温核融合(番外①) | 室温超伝導(この回) | |
|---|---|---|
| 理論的な障害 | ある。ガモフ因子で 50 桁、さらに分岐比が決定的 | ない。BCS/エリアシュベルグで説明可能 |
| 30年の進展 | ほぼなし | 4 K → 250 K(高圧下) |
| 独立な追試 | 確立していない | H₃S も LaH₁₀ も複数グループが確認 |
| 撤回事件 | E-Cat の訴訟 | CSH・LuNH の撤回、LK-99 |
| 現状 | 証拠なし | 実在する。ただし超高圧が必要 |
決定的な違いは1行目です。室温超伝導には、それを禁じる理論的な理由がありません。だから探す価値がある。常温核融合には分岐比という壁があり、それは障壁をどう工夫しても越えられません。
「まだ見つかっていない」と「理論が禁じている」は、まったく別のことです。撤回事件があったからといって、前者が後者になるわけではありません。
いま必要なのは 170 GPa ── 170 万気圧です。ダイヤモンドアンビルセルの中でしか作れず、試料は数マイクロメートル。送電線にはできません。
だから現在の目標は「もっと高い \(T_c\)」ではなく、「同じ \(T_c\) を、もっと低い圧力で」です。手がかりは化学的予圧縮 ── 三元系の水素化物を、第一原理計算で片っ端から探索する、という材料設計の総力戦になっています。
常圧・室温の超伝導体が存在するかどうかは、誰にもわかりません。禁じる定理はありませんが、あるという保証もない。それが「まだ探す価値がある」ということの正確な意味です。
確立していること:\(T_c\) の歴史(水銀 4.2 K 1911、Nb₃Ge 23 K 1973、La-Ba-Cu-O 30 K 1986、YBCO 93 K 1987、Hg 系 133 K 1993);マクミランによる在来型 \(T_c\) の見積もり(1968);銅酸化物が d 波であり機構が未解決であること;アシュクロフトの金属水素・水素化物の提案(1968、2004);H₃S の 203 K(155 GPa、2015)と同位体効果によるフォノン機構の確認;LaH₁₀ の約 250 K(約 170 GPa、2019)と複数グループによる確認;CSH 論文の 2022年撤回と窒素ドープ水素化ルテチウム論文の 2023年撤回、およびその後の研究不正認定;LK-99 の主張が追試により不純物由来と判明したこと。いずれも公表された事実です。
注意すること:① 図の \(T_c\) はアレン–ダインズの式(\(\mu^*=0.1\) 固定)による近似計算で、実際の第一原理計算とは差が出ます。物質のプリセット値も文献による幅があります。② 高圧下の \(T_c\) 測定は、抵抗ゼロだけでなくマイスナー効果の確認が難しく、測定そのものに議論がある場合があります(LaH₁₀ については複数グループの確認がありますが、高圧実験一般に系統誤差の議論は続いています)。③ 銅酸化物の機構は未解決であり、本文の「フォノンではない」以上のことは断定していません。④ 撤回の経緯について本文は公表された事実のみを記述しており、個人の動機についての判断は含みません。⑤ 「常圧・室温の超伝導体が可能かどうかは不明」は文字どおりの意味です ── 禁止する定理も、存在を保証する議論も、現時点ではありません。⑥ 番外編①との比較表は、証拠の状況と理論的障害の有無を並べたものであり、研究者の誠実さの比較ではありません。
\(T_c\approx1.13\theta_De^{-1/\lambda}\) を上げる道は 2 つ ── 格子を硬くするか、結合を強くするか。両立できないと思われ、マクミランは 40 K を限界と見積もりました。1986年に銅酸化物がこれを破りますが、その機構は 40 年たっても未解決です。
一方、まったく別の道が残っていました ── アシュクロフトの提案どおり、いちばん軽い原子である水素を使う。2015年に H₃S が 203 K、2019年に LaH₁₀ が約 250 K。しかも同位体効果が確認され、ふつうの BCS(強結合版)で説明がつきました。理論は間違っていなかった ── 指数の肩の上に何が乗っているかを読み、そこを狙いにいったら、届いた。
そして 2020〜2023年の撤回の連鎖。CSH と LuNH は撤回され、LK-99 は 3 週間で不純物由来と判明しました。自己修正の速さを決めたのは、正しさではなく追試のしやすさでした。番外編①と並べると、決定的な違いは 1 行目にあります ── 室温超伝導には、それを禁じる理論的理由がない。常温核融合には分岐比という壁がある。「まだ見つかっていない」と「理論が禁じている」は、まったく別のことです。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では ω_log と λ を動かして、250 K に届くのに何が必要かを確かめてください。プリセットで Al から LaH₁₀ まで飛べます。ボタンで撤回された主張の表示を切り替えられます。「答えを見る」で解答が開きます。