わかるすり抜け番外編 ⑥ / 室温超伝導の30年

「室温で起きてほしいもの」が2つあって、片方は本当に近づいた ── 番外編①と対を成す回

室温超伝導の30年 BCS には上限があるはずでした。銅酸化物がそれを破り、
高圧水素化物が 250 K(−23 °C)に届いた ── しかもふつうの BCS のままで。
そして 2023 年、この分野は大きな撤回を経験します。

必要な道具:第5回の \(T_c\sim\theta_De^{-1/\lambda}\)、第6回の非摂動、番外編① この回の芯:肩の上を読んで、肩の上を作りにいく

シリーズの最後です。番外編①では「室温で起きてほしいもの」の片方 ── 常温核融合を判定し、起きているという説得力ある証拠はないという結論になりました。この回はもう片方を見ます。室温超伝導。こちらの歴史はまったく違う形をしています ── 1911年に 4 K で見つかり、1968年には「40 K くらいが限界だろう」という理論的な見積もりがあり、1986年に銅酸化物がそれを破り、2015年に高圧水素化物が 203 K、2019年に 250 K(−23 °C)に届きました。しかも高圧水素化物のほうは第5回で習ったふつうの BCS のままで説明がつきます。理論は間違っていなかった ── ただ、もっと硬い格子が必要だっただけでした。そして 2020 年から 2023 年にかけて、この分野は大きな撤回事件を経験します。二つの「室温で起きてほしいもの」を並べると、科学がどう自己修正するかの標本になります。

01上限があるはずだった

第5回の式をもう一度:

$$T_c\approx1.13\,\theta_D\,e^{-1/\lambda}$$

\(T_c\) を上げる方法は 2 つしかありません ── \(\theta_D\)(格子の硬さ)を上げるか、\(\lambda\)(結合の強さ)を上げるか。ところがどちらにも壁があるように見えました。

マクミランの限界(1968)

\(\lambda\) を大きくするには格子を柔らかくする必要があり、柔らかくしすぎると結晶が壊れます(格子不安定性)。この綱引きから、マクミランは「在来型超伝導の \(T_c\) はせいぜい 30〜40 K」と見積もりました。
実際、1973年のニオブ–ゲルマニウム(23 K)から 1986年まで、記録は 13 年間ほとんど動きませんでした。限界は本物に見えた。

021986年、銅酸化物が壁を破る

物質T_c意味
1911水銀(オンネス)4.2 K発見
1973Nb₃Ge23 K在来型の記録。13年止まる
1986La-Ba-Cu-O(ベドノルツとミュラー)30 K限界を破る。翌年ノーベル賞(史上最速)
1987YBCO93 K液体窒素(77 K)を超えた ── 実用の敷居
1993Hg-Ba-Ca-Cu-O133 K(加圧で138 K)常圧の記録として長く維持

銅酸化物はフォノン機構ではありません(同位体効果が小さいか異常)。対の対称性が d 波であることは確立していますが、40 年たっても機構は決着していません ── スピン揺らぎ説などが有力ですが、合意には至っていない。物性物理最大の未解決問題のひとつです。

032015年、水素化物 ── BCS は正しかった

ここが面白い転回です。銅酸化物は BCS の外に行きましたが、もう一方の道が残っていました ── \(\theta_D\) を思い切り上げる

アシュクロフトの提案

格子の振動数は \(\omega_D\propto1/\sqrt{M}\)。だからいちばん軽い原子=水素を使えば、\(\theta_D\) は桁で上がります。

アシュクロフトは 1968年に金属水素は高温超伝導体になるはずと予言し、2004年には「水素だけを圧縮するのは大変だが、他の元素と化合させれば化学的に予圧縮できる」(=水素化物を使え)と提案しました。指数の肩の上に何が乗っているかを読んで、そこを狙いにいったわけです。

物質T_c圧力
2015H₃S(ドロズドフ、エレメツら)203 K155 GPa
2019LaH₁₀約 250 K(−23 °C)約 170 GPa

決定的だったのは、H₃S で同位体効果が確認されたことです ── 水素を重水素に替えると \(T_c\) が下がった。第5回で見たとおり、これはフォノン機構の証拠。つまり ──

結論:BCS は間違っていなかった

高圧水素化物の超伝導は、第5回で習ったふつうの BCS(正確にはその強結合版であるエリアシュベルグ理論)でそのまま説明できます。新しい機構は要りません。
マクミランの限界が破れたのは理論が間違っていたからではなく、「格子を硬くしたまま結合を強くする」方法が見つかっていなかっただけ。水素は軽いので \(\omega\) が高く、しかも水素化物では電子との結合も強い ── 両方を同時に上げられる

言い換えると:指数の肩の上を読み、肩の上に乗る量を作りにいって、成功した。このシリーズの締めくくりとして、これ以上の例はありません。

04動かしてみる ── 記録の歴史と、肩の上の要求

下の図の上段は \(T_c\) の歴史です。液体窒素(77 K)と室温(293 K)の線を入れてあります。撤回された主張も、区別して表示できます(ボタンで切替)。

下段は逆算です。第5回の式の強結合版(アレン–ダインズ)で、\(T_c\) を 250 K にするには何が必要かを出します。アルミニウムから LaH₁₀ までプリセットで飛べます ── 必要なのは \(\omega_{\log}\) を 1000 K 級にすること、つまり水素だとわかります。

図:上=超伝導転移温度の歴史(青=在来型、赤=銅酸化物、紫=高圧水素化物、灰=撤回された主張)。下=アレン–ダインズの式による T_c。ω_log と λ を動かすと、250 K に届くのに何が必要かがわかる
在来型(BCS) 銅酸化物 高圧水素化物 撤回

052020〜2023年 ── 撤回の連鎖

できごと結末
2020炭素混合硫化水素(CSH)で 288 K(267 GPa)── ついに室温、と Nature に掲載磁化率データの背景処理に疑義。2022年9月、著者の異議を押し切って撤回
2023年3月窒素ドープ水素化ルテチウムで 294 K、しかもわずか 1 GPa と報告。大きな注目を集める複数グループが追試に失敗。2023年11月、撤回。その後、所属大学の調査で研究不正が認定された
2023年7月韓国のグループが「LK-99」で常圧・常温の超伝導を主張。SNS で世界的な騒ぎに約3週間で決着。世界中の追試により、抵抗の落ち込みは不純物の硫化銅(Cu₂S)の構造転移、浮上は反磁性であってマイスナー効果ではない、と判明
なぜ LK-99 は3週間で、CSH は2年かかったのか この対比は重要です。自己修正の速さを決めるのは、正しさではなく「追試のしやすさ」です。
LK-99 は常圧・安価・合成手順が公開だったので、世界中の研究室が数日で作れました。だから 3 週間で片付いた。
一方 CSH や LuNH は 170 GPa 級のダイヤモンドアンビル・試料は数マイクロメートル・扱える研究室が世界に十数か所。追試に年単位かかり、そのあいだ主張が生き延びました。
「再現の速さは、実験の難しさに反比例する」 ── 番外編①の常温核融合が 30 年決着しないのも、じつは同じ構造です(熱量測定は安価だが、数%の過剰熱を正しく測るのが難しいので、追試が集まっても収束しない)。

06番外編①と並べる

二つの「室温で起きてほしいもの」
常温核融合(番外①)室温超伝導(この回)
理論的な障害ある。ガモフ因子で 50 桁、さらに分岐比が決定的ない。BCS/エリアシュベルグで説明可能
30年の進展ほぼなし4 K → 250 K(高圧下)
独立な追試確立していないH₃S も LaH₁₀ も複数グループが確認
撤回事件E-Cat の訴訟CSH・LuNH の撤回、LK-99
現状証拠なし実在する。ただし超高圧が必要

決定的な違いは1行目です。室温超伝導には、それを禁じる理論的な理由がありません。だから探す価値がある。常温核融合には分岐比という壁があり、それは障壁をどう工夫しても越えられません。
「まだ見つかっていない」と「理論が禁じている」は、まったく別のことです。撤回事件があったからといって、前者が後者になるわけではありません。

07残っている問題は、温度ではなく圧力

いま必要なのは 170 GPa ── 170 万気圧です。ダイヤモンドアンビルセルの中でしか作れず、試料は数マイクロメートル。送電線にはできません。

だから現在の目標は「もっと高い \(T_c\)」ではなく、「同じ \(T_c\) を、もっと低い圧力で」です。手がかりは化学的予圧縮 ── 三元系の水素化物を、第一原理計算で片っ端から探索する、という材料設計の総力戦になっています。

常圧・室温の超伝導体が存在するかどうかは、誰にもわかりません。禁じる定理はありませんが、あるという保証もない。それが「まだ探す価値がある」ということの正確な意味です。

◇ ◇ ◇
正直な線

確立していること:\(T_c\) の歴史(水銀 4.2 K 1911、Nb₃Ge 23 K 1973、La-Ba-Cu-O 30 K 1986、YBCO 93 K 1987、Hg 系 133 K 1993);マクミランによる在来型 \(T_c\) の見積もり(1968);銅酸化物が d 波であり機構が未解決であること;アシュクロフトの金属水素・水素化物の提案(1968、2004);H₃S の 203 K(155 GPa、2015)と同位体効果によるフォノン機構の確認;LaH₁₀ の約 250 K(約 170 GPa、2019)と複数グループによる確認;CSH 論文の 2022年撤回と窒素ドープ水素化ルテチウム論文の 2023年撤回、およびその後の研究不正認定;LK-99 の主張が追試により不純物由来と判明したこと。いずれも公表された事実です。

注意すること:① 図の \(T_c\) はアレン–ダインズの式(\(\mu^*=0.1\) 固定)による近似計算で、実際の第一原理計算とは差が出ます。物質のプリセット値も文献による幅があります。② 高圧下の \(T_c\) 測定は、抵抗ゼロだけでなくマイスナー効果の確認が難しく、測定そのものに議論がある場合があります(LaH₁₀ については複数グループの確認がありますが、高圧実験一般に系統誤差の議論は続いています)。③ 銅酸化物の機構は未解決であり、本文の「フォノンではない」以上のことは断定していません。④ 撤回の経緯について本文は公表された事実のみを記述しており、個人の動機についての判断は含みません。⑤ 「常圧・室温の超伝導体が可能かどうかは不明」は文字どおりの意味です ── 禁止する定理も、存在を保証する議論も、現時点ではありません。⑥ 番外編①との比較表は、証拠の状況と理論的障害の有無を並べたものであり、研究者の誠実さの比較ではありません。

練習問題
  1. マクミランの限界が破れたのは、BCS 理論が間違っていたからか。
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    銅酸化物については BCS の外だが、高圧水素化物については BCS のまま。後者は同位体効果が確認され、エリアシュベルグ理論で説明できる。破れたのは理論ではなく、「格子を硬く保ったまま結合を強くする方法がない」という思い込みのほう。水素はその両方を同時に満たす。
  2. なぜ水素なのか。第5回の式のどこを見ればよいか。
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    \(T_c\approx1.13\theta_De^{-1/\lambda}\) の \(\theta_D\)。\(\omega_D\propto1/\sqrt M\) なので、いちばん軽い水素なら格子振動数が桁で上がる。しかも水素化物では \(\lambda\) も大きい。指数の前と肩の両方を同時に稼げる。
  3. LK-99 が3週間で決着し、CSH が2年かかったのはなぜか。
    答えを見る
    追試のしやすさが桁違いだったから。LK-99 は常圧・安価・手順公開で世界中がすぐ作れた。CSH/LuNH は 170 GPa 級のダイヤモンドアンビルが要り、扱える研究室が世界に十数か所しかない。自己修正の速さを決めるのは、正しさではなく実験の難易度。
  4. 常温核融合と室温超伝導の、最も重要な違いは何か。
    答えを見る
    理論的な障害の有無。常温核融合にはガモフ因子の 50 桁と、さらに決定的な分岐比の壁がある(すり抜けは入口を変えても出口を変えない)。室温超伝導を禁じる理論的理由は存在しない。「まだ見つかっていない」と「理論が禁じている」は別のこと。

番外編⑥まとめ / わかるすり抜け・完結肩の上を読んで、肩の上を作りにいく

\(T_c\approx1.13\theta_De^{-1/\lambda}\) を上げる道は 2 つ ── 格子を硬くするか、結合を強くするか。両立できないと思われ、マクミランは 40 K を限界と見積もりました。1986年に銅酸化物がこれを破りますが、その機構は 40 年たっても未解決です。

一方、まったく別の道が残っていました ── アシュクロフトの提案どおり、いちばん軽い原子である水素を使う。2015年に H₃S が 203 K、2019年に LaH₁₀ が約 250 K。しかも同位体効果が確認され、ふつうの BCS(強結合版)で説明がつきました理論は間違っていなかった ── 指数の肩の上に何が乗っているかを読み、そこを狙いにいったら、届いた。

そして 2020〜2023年の撤回の連鎖。CSH と LuNH は撤回され、LK-99 は 3 週間で不純物由来と判明しました。自己修正の速さを決めたのは、正しさではなく追試のしやすさでした。番外編①と並べると、決定的な違いは 1 行目にあります ── 室温超伝導には、それを禁じる理論的理由がない。常温核融合には分岐比という壁がある。「まだ見つかっていない」と「理論が禁じている」は、まったく別のことです。

この文書は「わかるすり抜け」シリーズ番外編⑥、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。超伝導転移温度の歴史、マクミランによる在来型 \(T_c\) の見積もり(1968)、銅酸化物の発見(Bednorz–Müller 1986、1987年ノーベル賞)と YBCO・Hg 系の記録、銅酸化物が d 波でありその機構が未解決であること、アシュクロフトによる金属水素および水素化物の提案(1968、2004)、H₃S の 203 K(155 GPa、2015)と同位体効果によるフォノン機構の確認、LaH₁₀ の約 250 K(2019)、CSH 論文(2022年撤回)と窒素ドープ水素化ルテチウム論文(2023年撤回、のち研究不正認定)、および LK-99 の主張が追試により不純物由来と判明したことは、いずれも公表された事実です。図の \(T_c\) がアレン–ダインズ式(\(\mu^*=0.1\) 固定)による近似計算であり物質のプリセット値にも文献による幅があること、高圧下の測定に系統誤差の議論が続いていること、銅酸化物の機構が未解決であること、撤回の経緯について公表された事実のみを記述し個人の動機を判断していないこと、常圧・室温の超伝導体の可否が現時点で不明であること、および番外編①との比較が証拠状況と理論的障害の有無の比較であって研究者の誠実さの比較ではないことは、本文「正直な線」に明記しました。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前後:番外編⑤ 生き物は、すり抜けを使っているか番外編⑦ すり抜けるものが、時空に広がるとき目次/姉妹編 わかる温度わかる繰り込みわかるブラックホールわかる質量物理の立方体

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では ω_log と λ を動かして、250 K に届くのに何が必要かを確かめてください。プリセットで Al から LaH₁₀ まで飛べます。ボタンで撤回された主張の表示を切り替えられます。「答えを見る」で解答が開きます。