わかるすり抜け番外編 ⑤ / 生き物は、すり抜けを使っているか

実証されたもの、有望な仮説、そして縮小された話 ── 「量子生物学」を三つに仕分ける

生き物は、すり抜けを使っているか 答えはイエス。ただし、話題になったものとは違う場所で。
いちばん確実なのは、あなたがいま呼吸しているその反応です。
検出の道具は第5回の同位体効果 ── 水素を重水素に替えて、桁が変わるか

必要な道具:第3回の \(T_0\)、第5回の同位体効果、アレニウス則 この回の芯:k_H/k_D ≫ 7 なら、すり抜けている

「量子生物学」という言葉には、期待と警戒が半々でついて回ります。2007年に光合成の「量子コヒーレンス」が Nature に載ったときは「植物は量子計算をしている」と報じられ、その後かなり縮小されました。一方で、まったく話題にならないまま完全に確立している量子効果もあります ── あなたが呼吸するたび、電子が 15 Å をすり抜けています。この回では、生き物とすり抜けの関係を三つに仕分けます:①確実に実証されたもの ②有望だがまだ仮説 ③縮小された、あるいは否定されたもの。仕分けの道具は、第5回で BCS のフォノン機構を確定させたのと同じ手口 ── 同位体効果です。

01検出の道具 ── 水素を重水素に替える

すり抜けは質量に猛烈に敏感でした(第1回の練習問題4、第3回の \(T_0\propto1/\sqrt m\))。だから水素を重水素に置き換えて反応速度を比べれば、すり抜けているかどうかがわかります。この比 \(k_H/k_D\) を速度論的同位体効果(KIE)と呼びます。

古典的にありうる上限は、約 7

すり抜けなしでも KIE はゼロではありません。C–H 結合は零点振動を持っていて、重水素にすると振動数が \(1/\sqrt2\) になるぶん零点エネルギーが下がり、切るのに必要なエネルギーが増えるから。

$$\Delta\mathrm{ZPE}=\tfrac12\hbar\omega\left(1-\tfrac{1}{\sqrt2}\right)\approx 0.054\ \mathrm{eV} \quad\Longrightarrow\quad \frac{k_H}{k_D}=e^{\Delta \mathrm{ZPE}/k_BT}\approx \mathbf{7\text{〜}8}\ (298\ \mathrm{K})$$

これが「古典的な上限」です。だから ── 室温で \(k_H/k_D\) が 7 を大きく超えたら、すり抜けている。第5回で同位体効果がフォノン機構の証拠になったのとまったく同じ論法です。

02実際の酵素は、どうか

k_H/k_D(298 K)判定
ふつうの有機反応2〜7古典の範囲内
芳香族アミン脱水素酵素約 55すり抜け
ダイズリポキシゲナーゼ(SLO-1)約 80すり抜け(この分野の代表例)

SLO-1 の 80 という値は、古典的上限の 10 倍以上です。しかも決め手はもう一つあります ── 速度の温度依存性がほとんどない。第3回で見たとおり、温度に依らない=すり抜けのサインでした。

じつは、室温はもう「すり抜け側」

第3回の \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) に、C–H 伸縮振動(約 3000 cm⁻¹ = 0.37 eV)を入れてみます:

$$T_0=\frac{\hbar\omega}{2\pi k_B}\approx \mathbf{690\ K}$$

室温(298 K)は、この分かれ目のはるか下です。つまり生体内の水素移動は、そもそも最初からすり抜け領域にいる。「特別なことが起きている」のではなく、水素が軽いので、生き物の温度では自動的にそうなるだけです。

03動かしてみる ── 同位体効果で判定する

下の図は、第3回の道具をそのまま水素と重水素に適用したものです。上段が両者のアレニウスプロット、下段がその比 \(k_H/k_D\)。古典的上限(7)と SLO-1 の実測値(80)を線で入れてあります。

振動数を上げる(結合を硬くする)ほど、また障壁を高くするほど、KIE が跳ね上がります。生体温度の縦線がすでに分かれ目の左側にあることを確かめてください。

図:上=水素(H)と重水素(D)のアレニウスプロット。第3回の T₀ = ℏω_b/2πk_B を、ω ∝ 1/√m で H と D それぞれに適用。下=速度比 k_H/k_D。古典的上限 7 と、SLO-1 の実測値 80 を表示
水素(H) 重水素(D) 速度比 k_H/k_D 古典的上限(7)

04いちばん確実なもの ── あなたの呼吸

じつは、生物学で最も確立した量子効果は、水素ではなく電子のすり抜けです。しかも話題になりません ── あまりに当たり前だから

呼吸鎖と光合成の電子伝達

ミトコンドリアの呼吸鎖では、電子がタンパク質の中の金属中心から金属中心へと渡っていきます。距離は 10〜20 Å。あいだにあるのはタンパク質で、電子にとっては障壁です。古典的には絶対に渡れません。

それでも渡っているのは、すり抜けているから。速度は距離とともにきれいに指数で落ちます(ダットンの法則)── 1.7 Å 離れるごとに約 10 分の 1。番外編③の走査トンネル顕微鏡とまったく同じ形です。

あなたが吸った酸素が水になるまでのあいだ、電子は何回もすり抜けています。これは仮説ではなく、マーカス理論と膨大な実測で確立した生化学の基礎です。光合成も同じ仕組みで電子を運びます。

この事実は、「量子生物学」という言葉の使われ方への良い解毒剤になります ── 生き物が量子効果を使っているのは、当たり前です。化学結合そのものが量子効果ですから。問うべきなのは「量子効果があるか」ではなく、「ふつうの化学では説明できない、特別な量子効果があるか」です。

05有望だが、まだ仮説 ── 鳥の磁気コンパス

渡り鳥は地磁気を感じます。仕組みの有力候補がラジカル対機構です。

証拠として強いのは:コンパスが光依存(青い光が要る)であること、極性ではなく伏角を読むこと(磁石のコンパスならありえない)、そして特定の周波数の弱い電波をかけると方向感覚が乱れること ── これはラジカル対のスピン共鳴に対応します。2021年には渡り鳥のクリプトクロム4が試験管内で磁気に応答することも示されました。

ただし、まだ埋まっていない鎖

試験管内での磁気感受性と、生きた鳥の行動のあいだにはまだ確立していない鎖があります ── 網膜の中でクリプトクロムが本当にその役をしているのか、信号がどう神経に伝わるのか。有望な仮説であって、確立した機構ではありません。また、これは厳密にはトンネル効果ではなくスピンのコヒーレンスの話です。

06縮小された話 ── 光合成の「量子コヒーレンス」

この回でいちばん正直に書かなければならないところです。

できごと
2007エンゲルら(Nature)。緑色硫黄細菌の集光タンパク質(FMO)を 2 次元電子分光で測ると、77 K で 660 fs 続く振動が見えた。「長寿命の電子コヒーレンスが、エネルギー輸送を効率化しているのでは」と解釈された
2007–2014「植物は量子コンピュータを使っている」と広く報道される。「量子生物学」ブームの起点
2010年代後半再解析が進む。長寿命の振動は主に電子コヒーレンスではなく、分子振動との混成(ヴァイブロニック)だったと結論。生理的温度での純粋な電子コヒーレンスは 100 fs 未満
現在コヒーレンスは存在するが短命で、効率向上に本質的な役割を果たしているという証拠はない。光合成の高効率は、従来の(半古典的な)フェルスター/レッドフィールド理論でよく説明できる、というのが現在の一般的な理解
これは科学の失敗ではない 2007年の測定自体は正しく、優れた実験でした。誤っていたのは解釈と、その報じられ方です。そして 10 年かけて、共同体はそれを自分で訂正しました。
番外編①の常温核融合と比べてください ── あちらは再現できないまま論争が続き、こちらは再現できたうえで解釈が縮小された後者のほうがずっと健全な経過です。「量子生物学」という分野自体は、この訂正を経てむしろ真面目になりました。

07否定されたもの ── 嗅覚の振動説

もうひとつ、はっきり否定に傾いた例を挙げておきます。嗅覚は分子のを見ているのか、振動数を見ているのか、という問題です。

チューリンは 1996年、受容体が非弾性トンネル分光のように働いて分子の振動数を読んでいる、という説を出しました。魅力的な仮説で、検証可能でもありました ── 分子を重水素化すれば振動数が変わるので、匂いも変わるはず

検証結果は否定的でした。ヒトは重水素化したムスクを区別できず、ヒトのムスク受容体も同位体を区別しないことが示されています。現在、振動説は支持されていません。(ショウジョウバエでの区別は報告がありますが、匂い以外の要因の可能性が指摘されています。)

これは良い例です ── 検証可能な仮説が立てられ、検証され、否定された。科学として、これ以上望ましい経過はありません。

08仕分け表

生き物とすり抜け ── 証拠の強さで並べる
現象種類証拠の強さ
呼吸鎖・光合成の電子伝達電子のトンネル確立(生化学の基礎)
酵素の水素移動(SLO-1 など)プロトン/水素のトンネル確立(KIE ≈ 80、温度依存なし)
DNA 塩基の互変異性化と突然変異プロトンのトンネル寄与はあるが、変異全体への割合は未確定
鳥の磁気コンパス(ラジカル対)スピンのコヒーレンス有望な仮説。試験管内では実証、生体内の鎖は未完
光合成の長寿命電子コヒーレンス電子のコヒーレンス縮小。振動由来が主で、効率への寄与は未実証
嗅覚の振動説非弾性トンネル否定的

結論:生き物はすり抜けを使っています ── ただし、地味なところで、堂々と。派手に報じられたものほど縮小され、報じられなかったもの(呼吸)がいちばん確実、という構図です。

◇ ◇ ◇
正直な線

確立していること:速度論的同位体効果の半古典的上限が室温で 7〜8 程度であること;SLO-1 の KIE が約 80 で温度依存が小さく、水素トンネルの代表例とされること;芳香族アミン脱水素酵素など他の大きな KIE の例;C–H 伸縮振動から見積もる交差温度 \(T_0\) が室温より高く、生体内の水素移動が本来トンネル領域にあること;タンパク質中の長距離電子移動がトンネルであること(マーカス理論、距離依存の「ダットンの法則」);光合成 FMO 錯体の 2 次元分光における振動の観測(Engel ら 2007)と、その後の再解析で長寿命成分が主に振動由来と結論されたこと;渡り鳥のコンパスが光依存・伏角型で弱い電波に乱されること、およびクリプトクロム4の試験管内での磁気感受性;嗅覚の振動説に対するヒトでの否定的検証結果。

注意・未決着:① 図は第3回の単純なモデル(放物線障壁+零点エネルギー補正)を H と D に適用したもので、実際の酵素反応の速度を再現する計算ではありません。実際の理論は環境の揺らぎと結合したプロトン共役電子移動(PCET)で扱います。② 酵素が「トンネルを促進するように進化した」かどうかは議論があります。「酵素はドナー–アクセプター距離を縮める運動を利用している」という主張と、「トンネルは単に軽い粒子の性質で、酵素の特別な工夫ではない」という主張が並立しています。③ ラジカル対機構は有望な仮説であり、生体内での完全な機構は確立していません。またこれはトンネルではなくスピンコヒーレンスです。④ 光合成の件は「コヒーレンスが存在しない」ではなく「存在するが短命で、効率への機能的寄与は示されていない」です。⑤ DNA のプロトントンネルと突然変異の関係は、寄与自体は理論的に支持されますが、実際の変異率への定量的な割合は未確定です。⑥ 嗅覚の振動説について、ショウジョウバエでの同位体識別の報告は存在しますが、匂い以外の経路の可能性が指摘されています。

練習問題
  1. 室温で \(k_H/k_D=80\) が「すり抜けの証拠」になるのはなぜか。
    答えを見る
    零点エネルギーの差だけから来る半古典的な上限が約 7〜8 だから。80 はその 10 倍以上で、質量に指数的に効くすり抜けでなければ説明できない。加えて温度依存がほとんどないことが、第3回の「すり抜けは温度に依らない」と一致する。
  2. 「生き物は量子効果を使っているか」という問いが、なぜあまり良い問いでないのか。
    答えを見る
    化学結合そのものが量子効果なので、答えは自明に「イエス」だから。良い問いは「ふつうの化学では説明できない特別な量子効果があるか」。この形にすると、呼吸鎖の電子トンネルと酵素の水素トンネルは確実にイエス、光合成の長寿命コヒーレンスは(現時点で)ノー、と仕分けできる。
  3. タンパク質中の電子移動が「1.7 Å ごとに 10 分の 1」になるのは、どの回の話と同じか。
    答えを見る
    番外編③の走査トンネル顕微鏡(0.1 nm = 1 Å ごとに約 1 桁)と同じ形。どちらも \(I\ \text{や}\ k\propto e^{-2\kappa d}\)。障壁の高さが違うので係数が違うだけ。指数の肩に距離が乗っているという点で完全に同じ物理。
  4. 光合成の「量子コヒーレンス」の話と、番外編①の常温核融合の違いは何か。
    答えを見る
    光合成のほうは測定は再現され、解釈が縮小された。常温核融合のほうは測定自体の再現が確立していない。前者は科学の正常な自己訂正の例で、後者は 30 年決着していない例。「話が小さくなった」と「決着しない」は、まったく別のことです。

番外編⑤まとめ使っている ── 地味なところで、堂々と

判定の道具は第5回と同じ同位体効果です。零点エネルギーだけなら室温での \(k_H/k_D\) の上限は 7〜8。ダイズリポキシゲナーゼは約 80、しかも温度依存がほとんどない ── 第3回の「すり抜けは温度に依らない」そのままです。じつは C–H 伸縮から \(T_0\approx690\) K と出るので、生体温度はもともとすり抜け領域。特別なことではなく、水素が軽いことの帰結です。

そして最も確実な例は、話題にならないところにあります ── 呼吸鎖と光合成の電子伝達。10〜20 Å を電子がすり抜け、速度は 1.7 Å ごとに 10 分の 1(番外編③の STM と同じ形)。あなたが呼吸するたび、電子はすり抜けています。

一方、派手に報じられたものは縮小されました。光合成の「長寿命の電子コヒーレンス」は主に分子振動由来で、効率への寄与は未実証。嗅覚の振動説は否定的。鳥の磁気コンパスは有望な仮説(ただしトンネルではなくスピンコヒーレンス)。報じられなかったものがいちばん確実で、報じられたものほど縮小した ── この構図自体が、この分野の読み方を教えてくれます。

この文書は「わかるすり抜け」シリーズ番外編⑤、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。速度論的同位体効果の半古典的上限、ダイズリポキシゲナーゼ(SLO-1)の大きな KIE と弱い温度依存、C–H 伸縮振動から見積もる交差温度が室温を上回ること、タンパク質中の長距離電子移動がトンネルであること(マーカス理論、距離依存の経験則)、光合成 FMO 錯体の 2 次元分光(Engel ら 2007)とその後の再解析で長寿命成分が主に振動由来と結論されたこと、渡り鳥のコンパスの光依存性・伏角型・弱い電波による撹乱とクリプトクロム4の試験管内磁気感受性、および嗅覚振動説のヒトでの否定的検証は、いずれも公表された結果です。図が第3回の単純なモデルの適用であって酵素反応速度の再現ではないこと、酵素がトンネルを促進するよう進化したかに議論があること、ラジカル対機構が仮説段階でありトンネルではなくスピンコヒーレンスであること、光合成については「コヒーレンスは存在するが機能的寄与が未実証」であること、DNA のプロトントンネルの変異率への定量的寄与が未確定であること、および嗅覚振動説のショウジョウバエでの報告に別解釈があることは、本文「正直な線」に明記しました。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前後:番外編④ すり抜けるのに、何秒かかるのか番外編⑥ 室温超伝導の30年目次/姉妹編 わかる学習論

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では障壁の高さと振動数を動かすと、k_H/k_D が古典的上限(7)をどれだけ超えるかが見えます。「SLO-1 に合わせる」で実測値 80 付近の条件になります。「答えを見る」で解答が開きます。