決着していない問題を、決着していないまま丁寧に ── 「かかった時間」が定義できないという結論のほうが、たぶん深い
第1回で保留した問題です。粒子が壁をすり抜けるとき、壁の中にいた時間は何秒か。素朴で当然の問いに見えます。ところが計算してみると、まず奇妙なことが起きます ── 壁を厚くしても、時間が増えない。1962年にハートマンが指摘したこの現象を素直に読むと、厚い壁ほど実効速度が上がり、いずれ光速を超えてしまう。相対論は破れていないので、どこかがおかしい。おかしいのは、じつは問いのほうです。 「壁の中にいた時間」を測る方法は複数あり、それぞれ違う答えを返します。しかも量子力学には、そもそも「時間」に対応する観測量(エルミート演算子)がありません。この回は、答えの出ない問いを、なぜ答えが出ないのかまで含めて扱います ── 「わからない」で終わる回が1本くらいあってもいいはずです。
いちばん自然な定義は、波束の到着が遅れた分を測ることです。壁がある場合とない場合で、透過波のピークがいつ来るかを比べる。これは透過振幅の位相を微分すれば出ます(ウィグナーの群遅延)。
矩形障壁で計算すると、壁が厚くなるにつれてこれは飽和します。厚い壁の極限で
$$\tau_\varphi\ \longrightarrow\ \frac{2m}{\hbar\kappa k}\qquad(\text{障壁の厚み }a\text{ に依らない!})$$これがハートマン効果です。厚みを 2 倍にしても 10 倍にしても、遅れは増えない。だから「実効速度 \(a/\tau_\varphi\)」はいくらでも大きくできて、いずれ光速を超えます。
結論から言うと、これで情報を光より速く送ることはできません。理由は 2 つあります。
① 出てくる波は「作り直された」波である。
壁は、入ってきた波束の前縁だけを弱く通し、後ろを切り落とすフィルタとして働きます。出てきた波束のピークは、入ってきたピークが移動したものではなく、前縁の一部が整形されたもの。だから「ピークが早く着いた」は「何かが速く動いた」を意味しません。
② 信号の先頭(フロント)は、必ず光速で進む。
ゾンマーフェルトとブリユアンが 1914 年に示したとおり、波形のいちばん先端(不連続な立ち上がり)は、媒質が何であろうと必ず \(c\) で進みます。情報を運べるのはこの先端だけ。ピークの速さは信号速度ではありません。
さらに、電子の場合にはもっと即物的な事情があります ── 超光速に見える領域に入るには壁を極端に厚くする必要があり、そこでは透過確率が \(10^{-1000}\) 級になる。指数が、超光速の領域を実質的に封鎖しています。これは図で確かめられます。
ここからが本題です。「壁の中にいた時間」を測る方法は複数あり、それぞれ違う量を測っていて、違う答えを出します。
| 時計 | 何を測るか | 厚い壁で |
|---|---|---|
| 位相時間(ウィグナー) | 透過波束のピークの遅れ | 飽和する(ハートマン) |
| 滞在時間(スミス) | 壁の中に存在する確率 ÷ 入射流束 | 飽和するが、反射も含む量 |
| ラーモア時計(バズ、リバチェンコ) | 壁の中だけに弱い磁場を置き、スピンが何度回ったかで時間を読む | 成分が2つ出て、片方は飽和・片方は増える |
| ビュティカー–ランダウアー | 壁を振動させ、ついてこられなくなる振動数から時間を推定 | 厚みとともに増える |
| 弱測定(弱値) | 弱く測って乱さずに平均を取る | 複素数の時間が出る |
「どれが正しいのか」と聞きたくなりますが、おそらく問いの立て方が間違っています。
量子力学では、位置や運動量には対応する演算子があります。ところが「時間」に対応するエルミート演算子は存在しません(パウリの議論、1933)。時間は状態を並べるパラメータであって、測る対象ではないのです。
だから「壁の中に何秒いたか」は、それ自体では意味が定まりません。意味が生じるのは、具体的な時計を系に結合したときだけ ── スピンを回すのか、壁を振動させるのか、波束のピークを追うのか。時計が違えば、測っている量が違う。
これは姉妹編「わかる量子」の測定の話そのものです。「粒子は壁の中で何をしていたか」は、測らないかぎり答えがない ── そして測れば、その測定が答えの一部になる。
| 年 | 実験 | 結果 |
|---|---|---|
| 1990年代 | ニムツ、キアオらのマイクロ波・光子実験 | 波束のピークが「超光速」で伝わることを観測。ただし信号速度は \(c\) を超えていないという点で、解釈は決着 |
| 2008 | エックレら「アトクロック」(Science)。円偏光レーザーでヘリウムを電離させ、電子が出た方向から時刻を読む | トンネル遅延はゼロと矛盾しない |
| 2014 | ランズマンら | ゼロでない遅延を主張 |
| 2019 | サイナードら(Nature)。水素原子という理論が正確に扱える系で再測定 | クーロン場を正しく扱うと遅延はゼロと矛盾しない。以前の「ゼロでない」は解析モデル由来だった可能性 |
| 2020 | ラモス、スピアリングス、シュタインバーグら(Nature)。冷却原子のボース凝縮体を光の壁に通し、ラーモア時計で測定 | 約 0.6 ミリ秒という有限の値。しかもエネルギーを上げると短くなるという予言を確認 |
2020年の実験は重要です ── 「トンネル時間は測れないのか」ではなく「ラーモア時計はこの値を返す」という形で、きちんと答えが出ています。時計を指定すれば、答えは出る。指定しなければ出ない。それがこの問題の現在地です。
確立していること:矩形障壁の位相時間(群遅延)が厚みとともに飽和すること(Hartman 1962);形式的な実効速度が \(c\) を超えうるが、信号速度は \(c\) を超えないこと(波形の先端は常に \(c\) で伝わる ── Sommerfeld–Brillouin 1914);透過波束が入射波束の前縁の整形結果であること;複数のトンネル時間の定義(位相時間、滞在時間、ラーモア時間、ビュティカー–ランダウアー時間、弱値)が存在し互いに異なること;時間に対応するエルミート演算子が存在しないこと(Pauli);アトクロック実験の結果(Eckle ら 2008、Sainadh ら 2019)とボース凝縮体でのラーモア時計による測定(Ramos ら 2020)。
未決着・注意:① 「トンネル時間」に唯一の正しい定義があるかどうか自体が、決着していません。多数派は「測定を指定しなければ意味が定まらない」という立場ですが、特定の定義を本質的とみなす研究者もいます。② アトクロック実験の解釈は理論モデルに強く依存します。2019年の水素原子の結果は「以前の非ゼロ主張はモデル由来だった可能性」を示しましたが、これで全部が片付いたわけではありません。③ 1990年代のマイクロ波「超光速」実験は、相対論と矛盾しません。一部の一般向け報道は誤解を招くものでした。④ 図の位相時間は矩形障壁・定常状態・非相対論での計算で、実際の実験系(原子のクーロン場、光格子など)とは対応しません。⑤ 図の「超光速に見える点」は形式的な交差であり、そこでの透過確率が天文学的に小さいことも同時に表示しています ── 実験できる領域ではありません。⑥ Ramos ら 2020 の 0.6 ms という値はその系のラーモア時計が返した値であって、「電子が壁の中にいる時間は 0.6 ms だ」という一般命題ではありません。
矩形障壁の位相時間は、壁を厚くしても飽和します(ハートマン効果、1962)。だから形式的な実効速度は光速を超えうる。しかし相対論は破れていません ── 透過波束のピークは入射ピークが移動したものではなく前縁の整形結果であり、情報を運ぶ波形の先端は常に \(c\) で進むからです。しかも電子の場合、超光速に見える領域では透過確率が \(10^{-1000}\) 級 ── 指数が超光速の領域を封鎖しています。
より深い問題は、「かかった時間」の定義が一つに決まらないことです。位相時間・滞在時間・ラーモア時間・ビュティカー–ランダウアー時間・弱値 ── どれも違う答えを返します。根本には、量子力学に時間の演算子が存在しない(パウリ)という事情がある。時間はパラメータであって、観測量ではない。
だから現在地はこうです ── 時計を指定すれば答えは出る。指定しなければ出ない。2020年、シュタインバーグらは冷却原子とラーモア時計で約 0.6 ミリ秒という値を測り、理論予言と合わせました。90年かけて磨かれたのは答えではなく、問いのほうでした。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では障壁の高さとエネルギーを動かして、位相時間が飽和する様子と、a/c と交差する点(=形式的に超光速)を確かめてください。その点での透過確率も同時に表示されます。「答えを見る」で解答が開きます。