ここまで指数の急峻さは邪魔者だった ── この回では、それが道具になる
光学顕微鏡は光の波長(数百 nm)より細かいものを見られません。電子顕微鏡は波長を短くしてこれを突破しましたが、それでも巨大な装置と高電圧が要ります。ところが 1981 年、IBM チューリッヒ研究所のビーニッヒとローラーが、まったく別の原理で原子を1個ずつ見る装置を作りました。仕組みは拍子抜けするほど単純です ── 尖った針を表面すれすれに近づけ、すり抜けてくる電流を測る。それだけ。なぜこれで原子が見えるのかが、この回の主題です。答えは第1回の一行に尽きています ── すり抜けは指数の肩に乗っている。だから距離のわずかな違いが、電流の巨大な違いになる。邪魔者だった急峻さが、ここでは最高の道具に変わります。
探針と試料のあいだの障壁の高さは、金属の仕事関数で決まります(典型的に \(\phi\approx4\) eV)。第1回の式に入れると:
$$\kappa=\frac{\sqrt{2m\phi}}{\hbar}=5.12\sqrt{\phi[\mathrm{eV}]}\ \mathrm{nm^{-1}}\approx10.2\ \mathrm{nm^{-1}}$$ $$I\propto e^{-2\kappa d}\quad\Longrightarrow\quad \frac{I(d)}{I(d+0.1\,\mathrm{nm})}=e^{2\times10.2\times0.1}=e^{2.05}\approx \mathbf{7.8}$$0.1 nm 離れるだけで、電流が約 8 分の 1。ほぼ 1 桁です。
原子の大きさは 0.1〜0.3 nm。つまり表面の凸凹がそのまま桁の違いとして出てくる ── これが原子分解能の正体です。
ここが一番面白いところです。「原子1個を見るには、原子1個の探針が要るのでは?」── 要りません。むしろ、多少ぼんやりした針でも自動的に原子1個ぶんの分解能になります。
どんなに雑に作った針でも、先端のどこかにいちばん前に出ている原子が1個あります。2番目の原子がその 0.2 nm 後ろにいるとすると、その原子が運ぶ電流の割合は
$$e^{-2\kappa\times0.2\,\mathrm{nm}}=e^{-4.1}\approx 0.017$$つまり一番前の1個が、電流の 98% を運びます。2番目以降はほとんど寄与しない。指数が、勝手に「実効的な探針」を原子1個に絞ってくれるのです。
これが、他の顕微鏡と決定的に違うところです。レンズの世界では、装置の精度がそのまま分解能の限界になります。指数の世界では、装置がいい加減でも、物理が勝手に絞る。
下の図は、原子が並んだ表面の上を探針が走査する様子です。上段が横から見た断面(探針の高さと表面の凸凹)、下段が測れる電流。縦軸が対数であることに注意してください ── わずか 0.05 nm の起伏が、電流では何倍もの山谷になります。
「一番前の原子の寄与」の表示も見てください。ギャップを広げるとぼやけ、狭めると鋭くなる ── 分解能そのものが、指数の肩の上で決まっています。
実際の装置は、電流を測るのではなく電流を一定に保つように探針の高さを調節します(定電流モード)。そのときの上下動を記録すると、それが「原子の地図」になる。
なぜそうするかというと、電流が指数なのでそのまま測ると桁が飛びすぎて扱いにくいから。対数を取って高さに戻す、という操作をフィードバック回路にやらせているわけです。指数の急峻さは分解能の源であり、同時に扱いにくさの源でもあります。
| 量 | 典型値 |
|---|---|
| 探針と試料のギャップ | 0.5〜1 nm |
| バイアス電圧 | 10 mV 〜 数 V |
| トンネル電流 | 10 pA 〜 10 nA |
| 面内の分解能 | 約 0.1 nm |
| 高さ方向の分解能 | 約 0.01 nm(原子の 30 分の 1) |
高さ方向が桁違いに良いことに注目してください。指数が効くのは距離方向だからです。
さらに 1993年、クロミー・ルッツ・アイグラーは鉄原子 48 個を円形に並べ(量子囲い(quantum corral))、その中に閉じこめられた表面電子の定在波の模様を撮影しました。教科書に出てくる「箱の中の粒子」の波動関数が、写真として撮られた ── 姉妹編「わかる量子」の絵が、そのまま実物になった例です。
重要な注意です。STM の画像は表面の凸凹(地形)ではありません。測っているのはトンネル電流で、それはその場所・そのエネルギーでの電子の状態密度に比例します(テルソフ–ハマンの近似)。
だから、こういうことが起きます ── 物理的に出っ張っている原子が、暗く写ることがある。逆に、平らな場所に電子状態が集中していれば明るく写る。バイアス電圧を変えると、同じ場所の像が変わることさえあります。
これは欠点ではなく機能でもあって、電圧を掃引しながら測れば(走査トンネル分光)、原子1個ごとのエネルギー準位が読めます。STM は顕微鏡であると同時に、原子1個ぶんの分光器です。
確立していること:トンネル電流の距離依存 \(I\propto e^{-2\kappa d}\) と \(\kappa=\sqrt{2m\phi}/\hbar\);典型的な仕事関数(4〜5 eV)で 0.1 nm あたり約 1 桁の変化;一番前の原子が電流の大半を運ぶこと;ビーニッヒとローラーによる STM の発明(1981、1986年ノーベル物理学賞);定電流モードの動作;面内 0.1 nm・高さ 0.01 nm 級の分解能;アイグラーとシュヴァイツァーによる原子操作(1990)とクロミーらの量子囲い(1993);STM が測るのが局所状態密度であること(テルソフ–ハマンの理論)。いずれも確立した物理・技術です。
注意すること:① STM 像は地形図ではありません。局所状態密度の等高線であり、バイアス電圧に依存します。凸部が暗く写ることも実際にあります。② 単純な \(I\propto e^{-2\kappa d}\) は、探針と試料の波動関数の重なりを1次摂動で扱った近似(バーディーン/テルソフ–ハマン)です。ギャップが 0.4 nm を切ると相互作用が無視できなくなり、この描像は崩れます。③ 「一番前の原子が 98%」の見積もりは、探針が素直な形をしている場合の話です。実際には二重先端(ダブルチップ)による像の重複がよく起きます。④ 試料は導電性でなければなりません(絶縁体には使えず、そこは原子間力顕微鏡 AFM の領域)。⑤ 図は 1 次元の断面で、実際の表面は 2 次元。また表面の形をコサインで模擬した理想化です。⑥ 原子操作は、あらゆる原子・あらゆる表面でできるわけではなく、低温・超高真空という厳しい条件下の特定の組み合わせで行われています。
走査トンネル顕微鏡の原理は、第1回の \(I\propto e^{-2\kappa d}\) だけです。仕事関数 4 eV で \(\kappa\approx10.2\ \mathrm{nm^{-1}}\)、つまり 0.1 nm 離れると電流は約 8 分の 1。原子の大きさが 0.1〜0.3 nm なので、表面の凸凹がそのまま桁の違いとして出てきます。
しかも探針は自分で自分を尖らせます ── 先端でいちばん前に出た原子1個が電流の 98% を運び、0.2 nm 後ろの原子は 1.7% しか寄与しない。だから雑に作った針でも原子分解能が出る。レンズの世界では装置の精度が限界を決めますが、指数の世界では物理が勝手に絞ってくれる。
そして見るだけでなく並べられます(1990年、35個のキセノンで「IBM」/1993年、量子囲いで表面電子の定在波を撮影)。ただし STM 像は地形図ではなく局所状態密度の地図で、バイアス電圧で変わる ── それは欠点ではなく、原子1個ぶんの分光器としての機能でもあります。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではギャップと仕事関数を動かして、電流の対数目盛りがどれだけ跳ねるかを確かめてください。起伏の振幅を 0.01 nm まで下げても、電流にははっきり出ます。「答えを見る」で解答が開きます。