室温で本当に起きる核融合が、ひとつだけある ── 動く。それでも採算に届かない
番外編①で「電子が約 8 倍重ければ、常温核融合が起きる」と書きました。では、本当に重い粒子を使ったらどうなるか。答えは知られています ── 起きます。ミュオンは電子の 207 倍重く、これを重水素分子に入れると分子は 207 分の 1 に縮み、原子核どうしが 500 fm まで近づいて、ピコ秒のうちに融合します。しかもこれは理論の話ではなく、1956年にアルヴァレズが泡箱の中で偶然見つけた実在の現象です。液体水素の温度、つまり 20 K で核融合が起きる ── 文字どおりの「常温(以下の)核融合」。にもかかわらず、70 年たっても発電になっていません。止めているのは障壁ではなく、もっと即物的な事情です。この回はその「あと 2 倍」の話です。
| 電子 | ミュオン | |
|---|---|---|
| 質量 | 0.511 MeV | 105.7 MeV(206.8 倍) |
| 寿命 | 安定 | 2.197 マイクロ秒 |
| 電荷・スピン | −e, 1/2 | −e, 1/2(電子と同じ) |
電荷もスピンも電子と同じなので、ミュオンは原子の中で電子の代わりができます。ただし重い。ボーア半径は質量に反比例するので ──
| 分子 | 核間距離 |
|---|---|
| ふつうの D₂(電子) | 74,000 fm(0.74 Å) |
| ddμ(ミュオン) | 約 500 fm |
| 核力が届く距離 | 数 fm |
まだ核力の 100 倍以上離れていますが、すり抜けにはこれで十分です。第1回の \(S_E=\int\sqrt{2m(V-E)}\,dx\) は距離の積分なので、距離が 150 分の 1 になると肩が劇的に小さくなります。
| 系 | 融合率 | 意味 |
|---|---|---|
| D₂ 分子(電子) | \(10^{-64}\) | 宇宙年齢の \(10^{47}\) 倍待っても起きない |
| ddμ | \(\sim10^{9}\) | ナノ秒 |
| dtμ(重水素+三重水素) | \(\sim10^{12}\) | ピコ秒。事実上、瞬時 |
\(10^{-64}\) から \(10^{12}\) へ ── 76 桁の跳躍。番外編①で「必要なのは 53 桁」と計算しました。ミュオンは、必要量を 23 桁も追い越しています。だから余裕で起きる。
「触媒」と呼ばれるのは、ミュオンが消費されずに繰り返し使えるからです。
1 サイクルが約 \(10^{-8}\) 秒なので、ミュオンの寿命 2.2 μs のあいだに原理的には 約 220 回回れます。
① α 張り付き \(\omega_s\) ── 融合でできたヘリウム(\(\alpha\))は電荷 +2 なので、ミュオンを強く引きつけます。約 0.45〜0.6% の確率でミュオンが α に捕まり、そのまま持ち去られる。一部は飛行中に剥ぎ取られて復帰しますが、正味で残るのがこの値。
→ これだけで上限は \(1/0.0045\approx220\) 回。
② ミュオンの寿命 \(\tau_\mu=2.2\) μs ── サイクル率 \(\lambda_c\approx10^8\)/秒 なら、寿命のあいだに \(\lambda_c\tau_\mu\approx220\) 回。
驚くべきことに、この二つがほぼ同じ大きさです。両方を合わせると \(N\approx110\)。実験の最良値は約 150 回(密度と温度の最適化による)。偶然にも、自然は二つの制限を同じ高さに置いていました。
ミュオンを 1 個作るのに、加速器で現実的には 約 5 GeV のエネルギーがかかります(ミュオンの静止質量 106 MeV の約 50 倍 ── 生成効率が悪いため)。
1 回の d+t 融合で得られるのは 17.6 MeV。したがって:
しかも熱を電気に戻す効率が 40% 程度なので、実際に「発電所として黒字」にするには 700 回級が要ります。
達成 150 回 ── 必要 300〜700 回。桁ではなく、2 倍から 5 倍。この距離が 70 年縮まっていません。
下の図は、この収支そのものです。張り付き確率とサイクル率、ミュオン生成コストを動かすと、1 個のミュオンが何回働き、収支がどうなるかが出ます。
実験の現状(青い点)と損益分岐(緑の線)の距離を見てください。どちらのつまみを回しても、なかなか線を越えられません ── 張り付きを半分にできれば届きますが、それは核物理で決まっている量で、人間には動かせません。
発電にならなかったからといって、この現象の価値は下がりません。ミュオン触媒核融合は、「障壁を薄くすれば、室温でも核融合が起きる」ことの実証だからです。
| 方法 | 実効質量 | 融合率 | 判定 |
|---|---|---|---|
| ふつうの電子 | ×1 | \(10^{-64}\) | 起きない |
| 金属格子の遮蔽 | ×1.0〜1.1 | \(10^{-60}\) 級 | 足りない |
| (1 W に必要) | ×8 | \(10^{-11}\) | ── |
| ミュオン | ×207 | \(10^{12}\) | 起きる(実証済み) |
ミュオン触媒が存在するおかげで、番外編①の議論は「原理的に不可能」ではなく「量的に足りない」という、はるかに強い形で言えます。「障壁を薄くすれば起きる」は正しい。問題は、格子にはミュオンほどの力がないこと。
そして皮肉なことに ── 本物のほうは、障壁の問題を完全に解決したうえで、まったく別の理由(張り付きと寿命)で止まっています。番外編①の教訓「入口を解決しても、別のところで詰まる」が、ここでも繰り返されています。
確立していること:ミュオンの質量比 206.77 と寿命 2.197 μs;ミュオン置換により分子サイズが約 207 分の 1 に縮むこと;dtμ の融合率が \(10^{12}\)/秒級であること;フランク(1947)・サハロフ(1948)の予言とアルヴァレズら(1956)の観測;触媒サイクルの構造と、α 張り付き確率が正味で 0.4〜0.6% 程度であること;サイクル率が高密度で \(10^8\)/秒級に達すること;実験で観測された 1 ミュオンあたりの融合回数が 100〜150 回程度であること(Jones らの一連の実験ほか);d+t の発熱 17.6 MeV。いずれも確立した実験事実です。
数値の幅・注意:① ミュオン生成コスト 5 GeV は概算です。加速器の方式や設計によって 2〜10 GeV 程度の幅があり、これが損益分岐の見積もりを直接左右します。図でスライダーを動かすとその影響が見えます。② 張り付き確率は温度・密度に依存し、飛行中の再剥ぎ取り(reactivation)を含めた「実効値」を使っています。③ 損益分岐の回数は、熱→電気の変換効率や中性子の利用法(増殖ブランケット等)の仮定で変わります。本文の 284 回はミュオン生成エネルギーだけを回収する最低ラインで、実際の発電所にはさらに余裕が要ります。④ サイクル率と張り付きは独立に動かせるわけではなく(どちらも密度と温度に依存)、図はそれを独立なつまみとして単純化しています。⑤ 中性子を使った核分裂とのハイブリッド(ミュオン触媒でトリガーする混成炉)など、直接発電以外の応用構想もありますが、実用化されたものはありません。
ミュオンは電子の 207 倍重く、分子を 207 分の 1 に縮めます。すると核間距離が 500 fm になり、融合率は \(10^{-64}\) から \(10^{12}\)/秒へ ── 76 桁の跳躍。ピコ秒で融合します。1956年にアルヴァレズが泡箱で偶然発見した、実在する常温核融合です。
止めているのは障壁ではありません。① 融合でできたヘリウムにミュオンが張り付く(約 0.45%、上限 220 回)と、② ミュオンの寿命 2.2 μs(サイクル率から上限 220 回)── この二つがほぼ同じ高さで、合わせて実効 100〜150 回。一方、ミュオン生成に 5 GeV かかるので損益分岐は約 284 回、発電所としては 700 回級。桁ではなく 2〜5 倍。それが 70 年縮まっていません。
それでも科学としては完全な成功で、しかも番外編①の基準線になります ── 「障壁を薄くすれば起きる」は正しい。格子にはミュオンほどの力がないだけ。そして本物のほうも、入口を解決したあと別のところで詰まっている。この構図の繰り返しが、この分野の本当の教訓です。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では3つのつまみを動かして、どれをどこまで改善すれば損益分岐に届くかを試してください。張り付き確率は核物理で決まっていて、人間には動かせない量です。「答えを見る」で解答が開きます。