わかるすり抜け番外編 ② / 本物の常温核融合 ── ミュオン触媒

室温で本当に起きる核融合が、ひとつだけある ── 動く。それでも採算に届かない

本物の常温核融合 ── ミュオン触媒 電子をミュオンに置き換えると、分子が 207 分の 1 に縮みます。
すると障壁が薄くなり、マイクロ秒どころかピコ秒で融合します
止めているのは障壁ではなく ── 生まれたヘリウムに、ミュオンが張り付くこと

必要な道具:第1回のすり抜け(質量依存)、第2回のガモフ因子、番外編① この回の芯:約150回で引退、採算には約300回必要

番外編①で「電子が約 8 倍重ければ、常温核融合が起きる」と書きました。では、本当に重い粒子を使ったらどうなるか。答えは知られています ── 起きます。ミュオンは電子の 207 倍重く、これを重水素分子に入れると分子は 207 分の 1 に縮み、原子核どうしが 500 fm まで近づいて、ピコ秒のうちに融合します。しかもこれは理論の話ではなく、1956年にアルヴァレズが泡箱の中で偶然見つけた実在の現象です。液体水素の温度、つまり 20 K で核融合が起きる ── 文字どおりの「常温(以下の)核融合」。にもかかわらず、70 年たっても発電になっていません。止めているのは障壁ではなく、もっと即物的な事情です。この回はその「あと 2 倍」の話です。

01ミュオンは、重くて短命な電子

電子ミュオン
質量0.511 MeV105.7 MeV(206.8 倍
寿命安定2.197 マイクロ秒
電荷・スピン−e, 1/2−e, 1/2(電子と同じ)

電荷もスピンも電子と同じなので、ミュオンは原子の中で電子の代わりができます。ただし重い。ボーア半径は質量に反比例するので ──

分子が 207 分の 1 に縮む
分子核間距離
ふつうの D₂(電子)74,000 fm(0.74 Å)
ddμ(ミュオン)約 500 fm
核力が届く距離数 fm

まだ核力の 100 倍以上離れていますが、すり抜けにはこれで十分です。第1回の \(S_E=\int\sqrt{2m(V-E)}\,dx\) は距離の積分なので、距離が 150 分の 1 になると肩が劇的に小さくなります。

02結果 ── ピコ秒で融合する

融合率の比較(1 対あたり毎秒)
融合率意味
D₂ 分子(電子)\(10^{-64}\)宇宙年齢の \(10^{47}\) 倍待っても起きない
ddμ\(\sim10^{9}\)ナノ秒
dtμ(重水素+三重水素)\(\sim10^{12}\)ピコ秒。事実上、瞬時

\(10^{-64}\) から \(10^{12}\) へ ── 76 桁の跳躍。番外編①で「必要なのは 53 桁」と計算しました。ミュオンは、必要量を 23 桁も追い越しています。だから余裕で起きる。

偶然の発見 予言は 1947年のフランク、1948年のサハロフ(当時は公表されず)にさかのぼりますが、実際に見つかったのは事故でした。1956年、アルヴァレズのグループが液体水素の泡箱で宇宙線ミュオンを観察していて、説明のつかない飛跡を見つけます。追ってみると、ミュオンが水素分子を縮めて核融合を起こし、また出てきていた。
アルヴァレズは一瞬「無限のエネルギー源を見つけた」と思ったそうです。しかしすぐに、ミュオン1個が何回働けるかが問題だと気づきます ── その計算が、この回の残り全部です。

03触媒サイクル

「触媒」と呼ばれるのは、ミュオンが消費されずに繰り返し使えるからです。

  1. ミュオンが重水素/三重水素の混合体に入り、原子に捕まる
  2. もう一方の核を引き寄せて dtμ 分子を作る(ここが律速。約 \(10^{-8}\) 秒)
  3. 核が近いのですぐ融合:\(d+t\to{}^4\mathrm{He}+n+17.6\) MeV(\(10^{-12}\) 秒)
  4. ミュオンは解放され、1 に戻る

1 サイクルが約 \(10^{-8}\) 秒なので、ミュオンの寿命 2.2 μs のあいだに原理的には 約 220 回回れます。

04止めているもの ── 二つの壁が、ほぼ同じ高さ

ミュオン1個が働ける回数を決める2つの制限
$$N=\frac{1}{\ \omega_s+\dfrac{1}{\lambda_c\tau_\mu}\ }$$

① α 張り付き \(\omega_s\) ── 融合でできたヘリウム(\(\alpha\))は電荷 +2 なので、ミュオンを強く引きつけます。約 0.45〜0.6% の確率でミュオンが α に捕まり、そのまま持ち去られる。一部は飛行中に剥ぎ取られて復帰しますが、正味で残るのがこの値。
→ これだけで上限は \(1/0.0045\approx220\) 回。

② ミュオンの寿命 \(\tau_\mu=2.2\) μs ── サイクル率 \(\lambda_c\approx10^8\)/秒 なら、寿命のあいだに \(\lambda_c\tau_\mu\approx220\) 回。

驚くべきことに、この二つがほぼ同じ大きさです。両方を合わせると \(N\approx110\)。実験の最良値は約 150 回(密度と温度の最適化による)。偶然にも、自然は二つの制限を同じ高さに置いていました。

では、何回必要なのか

ミュオンを 1 個作るのに、加速器で現実的には 約 5 GeV のエネルギーがかかります(ミュオンの静止質量 106 MeV の約 50 倍 ── 生成効率が悪いため)。
1 回の d+t 融合で得られるのは 17.6 MeV。したがって:

$$N_{\text{損益分岐}}=\frac{5000\ \mathrm{MeV}}{17.6\ \mathrm{MeV}}\approx 284\ \text{回}$$

しかも熱を電気に戻す効率が 40% 程度なので、実際に「発電所として黒字」にするには 700 回級が要ります。
達成 150 回 ── 必要 300〜700 回。桁ではなく、2 倍から 5 倍。この距離が 70 年縮まっていません。

05動かしてみる ── あと 2 倍が届かない

下の図は、この収支そのものです。張り付き確率とサイクル率、ミュオン生成コストを動かすと、1 個のミュオンが何回働き、収支がどうなるかが出ます。

実験の現状(青い点)と損益分岐(緑の線)の距離を見てください。どちらのつまみを回しても、なかなか線を越えられません ── 張り付きを半分にできれば届きますが、それは核物理で決まっている量で、人間には動かせません。

図:ミュオン1個が働ける回数 N = 1/(ω_s + 1/λ_cτ_μ)。横軸=α 張り付き確率(対数)。青=寿命だけの制限、赤=張り付きだけの制限、太線=両方。緑の線が損益分岐。現状(点)との距離が「あと2〜5倍」
実際に働ける回数 N 張り付きだけの上限 寿命だけの上限 損益分岐

06それでも、科学としては完全な成功

発電にならなかったからといって、この現象の価値は下がりません。ミュオン触媒核融合は、「障壁を薄くすれば、室温でも核融合が起きる」ことの実証だからです。

番外編①との関係 ── これが基準線になる
方法実効質量融合率判定
ふつうの電子×1\(10^{-64}\)起きない
金属格子の遮蔽×1.0〜1.1\(10^{-60}\) 級足りない
(1 W に必要)×8\(10^{-11}\)──
ミュオン×207\(10^{12}\)起きる(実証済み)

ミュオン触媒が存在するおかげで、番外編①の議論は「原理的に不可能」ではなく「量的に足りない」という、はるかに強い形で言えます。「障壁を薄くすれば起きる」は正しい。問題は、格子にはミュオンほどの力がないこと。

そして皮肉なことに ── 本物のほうは、障壁の問題を完全に解決したうえで、まったく別の理由(張り付きと寿命)で止まっています。番外編①の教訓「入口を解決しても、別のところで詰まる」が、ここでも繰り返されています。

◇ ◇ ◇
正直な線

確立していること:ミュオンの質量比 206.77 と寿命 2.197 μs;ミュオン置換により分子サイズが約 207 分の 1 に縮むこと;dtμ の融合率が \(10^{12}\)/秒級であること;フランク(1947)・サハロフ(1948)の予言とアルヴァレズら(1956)の観測;触媒サイクルの構造と、α 張り付き確率が正味で 0.4〜0.6% 程度であること;サイクル率が高密度で \(10^8\)/秒級に達すること;実験で観測された 1 ミュオンあたりの融合回数が 100〜150 回程度であること(Jones らの一連の実験ほか);d+t の発熱 17.6 MeV。いずれも確立した実験事実です。

数値の幅・注意:ミュオン生成コスト 5 GeV は概算です。加速器の方式や設計によって 2〜10 GeV 程度の幅があり、これが損益分岐の見積もりを直接左右します。図でスライダーを動かすとその影響が見えます。② 張り付き確率は温度・密度に依存し、飛行中の再剥ぎ取り(reactivation)を含めた「実効値」を使っています。③ 損益分岐の回数は、熱→電気の変換効率や中性子の利用法(増殖ブランケット等)の仮定で変わります。本文の 284 回はミュオン生成エネルギーだけを回収する最低ラインで、実際の発電所にはさらに余裕が要ります。④ サイクル率と張り付きは独立に動かせるわけではなく(どちらも密度と温度に依存)、図はそれを独立なつまみとして単純化しています。⑤ 中性子を使った核分裂とのハイブリッド(ミュオン触媒でトリガーする混成炉)など、直接発電以外の応用構想もありますが、実用化されたものはありません。

練習問題
  1. ミュオンに置き換えると、なぜ核融合が起きるようになるのか。
    答えを見る
    ボーア半径が質量に反比例するので、分子が 207 分の 1 に縮む(74,000 fm → 約 500 fm)。第1回の \(S_E=\int\sqrt{2m(V-E)}\,dx\) は距離の積分なので、肩の上が劇的に小さくなり、融合率が \(10^{-64}\) から \(10^{12}\)/秒へ ── 76 桁跳ぶ。
  2. 「触媒」と呼ばれるのはなぜか。そしてなぜ完全な触媒ではないのか。
    答えを見る
    融合後にミュオンが解放され、繰り返し使えるから。ただし約 0.45% の確率でヘリウム(電荷 +2)に張り付いて持ち去られるので、平均 200 回程度で失われる。完全な触媒なら 1 個で無限に働けるが、そうはならない。
  3. 張り付きと寿命、どちらが効いているか。
    答えを見る
    ほぼ同じくらい効いている。張り付きだけなら \(1/0.0045\approx220\) 回、寿命だけなら \(\lambda_c\tau_\mu\approx220\) 回。合わせて \(N\approx110\)。片方だけ改善しても、もう片方が待っている ── これが難しさの本質。
  4. この回の話は、番外編①の判定をどう補強するか。
    答えを見る
    「障壁を薄くすれば室温でも核融合が起きる」ことを実証している。だから番外編①の結論は「原理的に不可能」ではなく「格子の遮蔽ではミュオンに遠く及ばない」という量の話として言える。必要は ×8、格子は ×1.1、ミュオンは ×207。

番外編②まとめ動く。それでも、あと2〜5倍が届かない

ミュオンは電子の 207 倍重く、分子を 207 分の 1 に縮めます。すると核間距離が 500 fm になり、融合率は \(10^{-64}\) から \(10^{12}\)/秒へ ── 76 桁の跳躍。ピコ秒で融合します。1956年にアルヴァレズが泡箱で偶然発見した、実在する常温核融合です。

止めているのは障壁ではありません。① 融合でできたヘリウムにミュオンが張り付く(約 0.45%、上限 220 回)と、② ミュオンの寿命 2.2 μs(サイクル率から上限 220 回)── この二つがほぼ同じ高さで、合わせて実効 100〜150 回。一方、ミュオン生成に 5 GeV かかるので損益分岐は約 284 回、発電所としては 700 回級。桁ではなく 2〜5 倍。それが 70 年縮まっていません。

それでも科学としては完全な成功で、しかも番外編①の基準線になります ── 「障壁を薄くすれば起きる」は正しい。格子にはミュオンほどの力がないだけ。そして本物のほうも、入口を解決したあと別のところで詰まっている。この構図の繰り返しが、この分野の本当の教訓です。

この文書は「わかるすり抜け」シリーズ番外編②、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。ミュオンの質量比と寿命、ミュオン置換による分子サイズの縮小、dtμ の融合率、フランク(1947)・サハロフ(1948)の予言とアルヴァレズら(1956)の観測、触媒サイクルと α 張り付き(正味 0.4〜0.6%)、高密度でのサイクル率、実験で得られている 1 ミュオンあたり 100〜150 回という値、および d+t の発熱 17.6 MeV は、いずれも確立した実験事実です。ミュオン生成コスト 5 GeV が加速器方式に依存する概算であること、張り付き確率が温度・密度に依存し再剥ぎ取りを含む実効値であること、損益分岐の回数が熱電変換効率や中性子利用法の仮定に依存すること、図がサイクル率と張り付きを独立なつまみとして単純化していること、および混成炉などの応用構想が実用化されていないことは、本文「正直な線」に明記しました。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前後:番外編① 常温核融合は起きるのか番外編③ 原子1個が見えるのは、指数だから目次

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では3つのつまみを動かして、どれをどこまで改善すれば損益分岐に届くかを試してください。張り付き確率は核物理で決まっていて、人間には動かせない量です。「答えを見る」で解答が開きます。