わかる屈折第 6 回 / 光を止める

秒速 17 メートル ── ただし、止まっているのは光ではありません

光を止める 1999 年、ボース凝縮体の中で光が秒速 17 メートルまで落とされました。自転車の速さです。
2001 年には完全に止めて、あとから取り出すことにも成功しています。
そしてこれを可能にしているのは、前回の因果律そのものです。

必要な道具:第3回の群速度、第5回のクラマース–クローニッヒ この回の芯:暗状態ポラリトン

屈折率 1.5 のガラスで光は \(c/1.5\)。ダイヤモンドで \(c/2.4\)。では、どこまで遅くできるのでしょう。答えは「いくらでも」で、実際に 1999 年、ハウらがナトリウムのボース凝縮体の中で光を秒速 17 メートルまで落としました。2001 年には完全に止めて、あとから取り出しています。
ここには落とし穴がひとつと、贈り物がひとつあります。落とし穴は ── 光を大きく遅くするには急峻な分散が要り、急峻な分散は強い吸収とセットのはずでした(第5回)。それをどう回避したのか。贈り物は ── 回避の仕掛けを見ると、第5回のクラマース–クローニッヒが「遅い光」を禁じているのではなく、むしろ要求していることがわかること。そして最後に、正直に言わなければならないことがひとつ ── 止まっているのは、光ではありません。

01群速度を遅くするには、傾きが要る

群屈折率

波束が進む速さは群速度で、屈折率が周波数に依存するとこうなります:

$$v_g=\frac{c}{n_g},\qquad n_g=n+\omega\frac{dn}{d\omega}$$

ガラスの \(n=1.5\) は第一項です。しかし第二項の \(\omega\,dn/d\omega\) は、屈折率が急に変われば、いくらでも大きくできます
17 m/s を出すのに必要な群屈折率は \(n_g=c/17\approx1.8\times10^7\)。ガラスの一千万倍です。もちろん \(n\) 自体を 1800 万にするのではなく、傾きを稼ぐ

ところが、第5回の問題がある

急峻な \(dn/d\omega\) を作るには鋭い共鳴が要ります。ところがクラマース–クローニッヒは、鋭い共鳴には鋭い吸収がついてくると言っている。
ふつうに共鳴に近づけば、光は遅くなる前に吸われて消えます。── これが 1990 年代まで「遅い光」が難しかった理由です。

02EIT ── 吸収に穴を開けて、傾きだけ残す

抜け道は 1990 年にハリスが提案し、1991 年にボラー・イマモグル・ハリスが実証しました。電磁誘起透明化(EIT)です。

仕掛け

原子に、下の準位が二つ、上の準位が一つある「Λ 型」の構造を用意します。そこに制御光を強く当てておく。すると、信号光が上の準位へ行く経路が二通りできます。

この二つの経路がぴったり逆位相で打ち消し合うため、共鳴のど真ん中で吸収がゼロになります。原子は「暗状態」と呼ばれる、光と結合しない重ね合わせに落ち込む。

結果:不透明だった吸収線の真ん中に、細い透明の窓が開く。

ここが第5回の贈り物

吸収に細い穴を開けたら、クラマース–クローニッヒは何と言うでしょうか。

積分 \(n(\omega)-1=\frac{2}{\pi}\mathrm{P}\int\frac{\omega'\kappa(\omega')}{\omega'^2-\omega^2}d\omega'\) は、\(\kappa\) の急な変化を \(n\) の急な変化に翻訳します。穴が細ければ細いほど、その中の \(dn/d\omega\) は急峻になる

つまり、遅い光はクラマース–クローニッヒに反しているのではありません。クラマース–クローニッヒが作り出しているのです。吸収の窓の細さが、そのまま群屈折率の大きさになる。

簡単な見積もり ── 制御光のラビ周波数を \(\Omega_c\)、上準位の減衰を \(\Gamma\) とすると、
 窓の幅 \(\ \sim\ \Omega_c^2/\Gamma\)、 群屈折率 \(\ n_g\ \propto\ 1/\Omega_c^2\)。
制御光を弱くするほど、窓は狭くなり、光は遅くなる。この二つは同じ一つのつまみです。

03秒速 17 メートル

群速度備考
1999ナトリウムのボース凝縮体(435 nK)17 m/sハウ・ハリスら。\(n_g\approx1.8\times10^7\)
1999高温ルビジウム蒸気90 m/sカッシュら。冷却なしでも出る
1999常温ルビジウム蒸気8 m/sバドカーら
2001ナトリウム凝縮体/ルビジウム蒸気0完全に止めて、あとから取り出した
2013Pr:YSO 結晶(固体)0保存時間 1 分

ボース凝縮体が必要なわけではありません。常温のルビジウム蒸気でも 8 m/s が出ています。凝縮体が効いたのはドップラー広がりがないことで、そのぶん窓を細くできた。

04正直に ── 止まっているのは光ではない

「光を止めた」という言い方は、正確ではありません。何が起きているかを見ます。

暗状態ポラリトン(フライシュハウアーとルーキン、2000)

媒質の中を進んでいるのは、光でも原子でもなく、その混ざりものです:

$$\Psi=\cos\theta\cdot\underbrace{E}_{\text{光}}\ -\ \sin\theta\cdot\underbrace{S}_{\text{原子のコヒーレンス}}, \qquad \tan^2\theta\ \propto\ \frac{1}{\Omega_c^2}$$

そして進む速さは \(v=c\cos^2\theta\)。制御光 \(\Omega_c\) を弱めると \(\theta\to90^\circ\) に近づき、\(\Psi\) はほとんど原子だけになります。

\(\Omega_c\) をゼロにすれば \(v=0\)。止まる。けれどそのとき \(\cos\theta=0\) ── 光の成分はゼロです。そこにあるのは原子スピンの位相の並びだけ。

制御光を戻すと \(\theta\) が戻り、原子のコヒーレンスから光が書き戻されます預けて、引き出しているのです。

では「光を止めた」は嘘なのか

嘘ではありませんが、主語が違います
・止まっているもの:原子のコヒーレンス(光子ではない)
・保たれているもの:光の量子状態そのもの ── 振幅も位相も、単一光子の量子重ね合わせも、忠実に保存され、忠実に取り出されます。
だから「光の情報を蓄えた」は完全に正しく、「光子がそこで静止している」は誤りです。本コレクションの言い方でいえば、これは「同じもの」ではなく「忠実な写し」

05動かしてみる ── 窓の細さが、そのまま遅さ

下の図は EIT の吸収(左)と屈折率(右)です。灰色は制御光を切ったとき(ふつうの吸収線)。制御光を弱くしていくと ── 窓が細くなり、その中の傾きが急になり、光が遅くなります。三つとも同じつまみです。

図:左=吸収(Im χ)。灰色は制御光なしの吸収線、色つきが EIT で穴が開いた状態。右=屈折率(Re n − 1)。窓の中の傾きが群屈折率を決める。制御光を弱めると窓が細く・傾きが急に・光が遅くなる ── すべて同じ一つのつまみ
EIT ありの吸収 / 屈折率 制御光なし(ふつうの吸収線) 透明の窓

06もちろん、ただではない

遅延と帯域は、掛け算で固定されている

窓を細くすれば光は遅くなる。でも、窓が細いということは ──

その窓に収まらない光は、通れません。パルスの帯域が窓より広いと、はみ出した成分が吸われたり歪んだりする。窓の幅 \(\sim\Omega_c^2/\Gamma\) が狭くなるのと、\(n_g\propto1/\Omega_c^2\) が大きくなるのは同じ速さで起きるので、

(遅延時間)×(使える帯域)≈ 一定

これを遅延–帯域積といいます。上限を決めているのは媒質の光学的厚みだけ。短いパルスを長く止めることは、原理的にできません。言い換えると ── パルスは、自分が受ける遅延より短くなければならない(そうでないと媒質の中に収まりきらない)。

因果律は、ここでも無傷 第3回と同じことを確認しておきます。パルスの前縁は、EIT 媒質の中でもきっかり \(c\) で進みます。遅くなるのは波束のピークであって、信号の到達そのものではない。
そして皮肉なことに ── 「遅い光」も「速い光」(\(v_g>c\) や負の群速度)も、まったく同じ理屈で許され、まったく同じ理屈で情報伝達には使えません。どちらも波形の作り直しです。
因果律は「遅い光」を禁じるどころか、それを作った当人でした(第5回)。
何の役に立つのか ── 量子メモリ いちばん重要な応用は、古典的な遅延線ではなく量子メモリです。単一光子の量子状態を原子に預け、必要なときに取り出す。量子中継器(長距離の量子通信で不可欠)の中核部品がこれです。
保存時間の記録は伸び続けており、Pr:YSO 結晶で 1 分の光保存(2013)、Eu:YSO の核スピンコヒーレンスでは6 時間(2015)が報告されています。ただし後者は「スピンのコヒーレンス時間」であって、光をそのまま 6 時間保存したという意味ではありません。
◇ ◇ ◇
正直な線

確立していること:群屈折率 \(n_g=n+\omega\,dn/d\omega\);EIT の提案(Harris 1990)と実証(Boller–Imamoğlu–Harris 1991);Λ 系の暗状態と経路干渉による透明化;ハウ・ハリスらのナトリウム凝縮体での 17 m/s(Nature 397, 594, 1999)、ルビジウム蒸気での 8〜90 m/s、2001 年の光の保存と再生;暗状態ポラリトンの記述(Fleischhauer–Lukin 2000)と \(v=c\cos^2\theta\);遅延–帯域積が光学的厚みで上限づけられること;Pr:YSO での 1 分の光保存(2013);Eu:YSO の 6 時間スピンコヒーレンス(2015)。いずれも査読済みの結果です。

注意すること:「光を止めた」の主語は光子ではありません。保存されているのは原子のコヒーレンスで、光の量子状態が忠実に写し取られ、忠実に戻される、というのが正確な言い方です。② 図で使っているのは Λ 系の弱プローブ線形感受率で、強いパルスや多準位構造、ドップラー広がり、原子の運動は入っていません。③ 図の物理定数はナトリウム D₂ 線(\(\Gamma/2\pi\approx9.8\) MHz、\(\lambda=589\) nm)と光学的厚み・媒質長を代表値として置いたもので、特定の実験の再現ではありません。「ハウ 1999」ボタンは 17 m/s 付近を再現するつまみの位置を示すもので、論文の追試ではありません。④ 群速度は信号速度ではありません。前縁はつねに \(c\) で、EIT でも変わりません。⑤ 6 時間はスピンコヒーレンス時間であって、光の保存時間ではありません(本文の注記どおり)。⑥ 遅延–帯域積の「一定」は桁の意味での見積もりで、系ごとに前係数が違います。

練習問題
  1. 光を大きく遅くするのに、屈折率そのものを大きくする必要がないのはなぜか。
    答えを見る
    群速度を決めるのは \(n_g=n+\omega\,dn/d\omega\) で、第二項の傾きが効くから。17 m/s には \(n_g\approx1.8\times10^7\) が要るが、\(n\) 自体は 1 の近くのままでよい。稼ぐのは値ではなく傾き。
  2. EIT が第5回のクラマース–クローニッヒに矛盾しないのはなぜか。
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    矛盾しないどころか、KK が遅い光を作っている。吸収線に細い穴を開けると、KK 積分がその急な変化を \(n\) の急な変化に翻訳する。窓が細いほど窓の中の \(dn/d\omega\) が急峻になり、光が遅くなる。窓の幅 \(\sim\Omega_c^2/\Gamma\) と \(n_g\propto1/\Omega_c^2\) は同じつまみ。
  3. 「光を止めた」の何が正確で、何が不正確か。
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    正確:光の量子状態(振幅・位相・重ね合わせ)が忠実に保存され、忠実に取り出される。不正確:光子がそこで静止しているわけではない。止まっているのは原子のコヒーレンス。暗状態ポラリトン \(\Psi=\cos\theta\,E-\sin\theta\,S\) が \(v=c\cos^2\theta\) で進み、制御光を切ると \(\cos\theta\to0\) ── 止まった瞬間、光の成分はゼロ
  4. 短いパルスを長く止められないのはなぜか。
    答えを見る
    短いパルスは帯域が広い。透明の窓は幅 \(\sim\Omega_c^2/\Gamma\) しかなく、はみ出した成分は吸われて歪む。窓を広げれば \(n_g\propto1/\Omega_c^2\) が小さくなって遅延が減る ── 遅延×帯域 ≈ 一定(上限は媒質の光学的厚み)。物理的には「パルスは自分が受ける遅延より短くないと、媒質に収まらない」。

第6回まとめ止まったのは光ではなく、光の写しだった

群速度を決めるのは \(n_g=n+\omega\,dn/d\omega\) の第二項です。17 m/s に必要な \(n_g\approx1.8\times10^7\) は、屈折率の値ではなく傾きで稼ぐ。ただし急な傾きは強い吸収とセットのはずでした(第5回)── そこを破ったのがEIT。制御光が作る暗状態への経路干渉で、吸収線のど真ん中に細い透明の窓が開きます。

そしてここが美しいところ ── 窓を開けると、クラマース–クローニッヒがその中に急峻な \(dn/d\omega\) を強制します。遅い光は因果律に反しているのではなく、因果律が作っている。窓の幅 \(\sim\Omega_c^2/\Gamma\) と群屈折率 \(n_g\propto1/\Omega_c^2\) は同じ一つのつまみで、だから遅延×帯域は一定(短いパルスは長く止められない)。

そして正直な一行 ── 止まっているのは光ではありません。進んでいるのは暗状態ポラリトン \(\Psi=\cos\theta\,E-\sin\theta\,S\) で、速さは \(v=c\cos^2\theta\)。制御光を切って止めた瞬間、\(\cos\theta=0\) ── 光の成分はゼロで、そこにあるのは原子のコヒーレンスだけです。保たれているのは光の量子状態で、それは忠実に取り出せる。だから「光の情報を蓄えた」は正しく、「光子が静止している」は誤りです。

この文書は「わかる屈折」シリーズ第6回、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。群屈折率、EIT の提案(Harris 1990)と実証(Boller–Imamoğlu–Harris 1991)、Λ 系の暗状態と経路干渉、ハウ・ハリスらのナトリウム凝縮体での 17 m/s(Nature 397, 594, 1999)、ルビジウム蒸気での 8〜90 m/s、2001 年の光の保存と再生、暗状態ポラリトン(Fleischhauer–Lukin 2000)と \(v=c\cos^2\theta\)、遅延–帯域積、Pr:YSO での 1 分の光保存(2013)、Eu:YSO の 6 時間スピンコヒーレンス(2015)は、いずれも査読済みの結果です。「光を止めた」の主語が光子ではなく原子のコヒーレンスであること、図が Λ 系の弱プローブ線形感受率でありドップラー広がりや原子の運動を含まないこと、図の定数がナトリウム D₂ 線の代表値であって特定実験の再現ではないこと、群速度が信号速度ではなく前縁はつねに \(c\) であること、6 時間がスピンコヒーレンス時間であること、および遅延–帯域積の「一定」が桁の見積もりであることは、本文「正直な線」に明記しました。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前後の回:第5回 屈折と吸収は、同じ一つの関数だった第7回 見えているのは、屈折率の地図目次/姉妹編 わかる量子わかるすり抜け

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面で制御光を弱めると、透明の窓が細くなると同時に屈折率の傾きが急になり、群速度が落ちます ── 三つが同じつまみで動くことを確かめてください。「ハウ 1999」ボタンで 17 m/s 付近に飛べます。「答えを見る」で解答が開きます。