「結果は原因より先に起きない」── それだけから、屈折率の実部と虚部が積分で縛られる
第1回で位相子(フェイザー)の図を描いたとき、吸収のつまみを回すと矢印の先が内側に巻き込んでいきました。あれがこの回の全部です。屈折率は本当は複素数で、実部が「位相をどれだけ遅らせるか」、虚部が「どれだけ吸うか」。ここまではただの記法です。本題はここから ── この実部と虚部は、独立に選べません。物理にひとつだけ要請を置くと ── 「結果は原因より先に起きない」 ── それだけで二つは積分で縛られてしまう。クラマース–クローニッヒの関係です。そして帰結は容赦がありません。あらゆる帯域で完全に透明で、それでいて光を曲げる物質は、原理的に存在できない。ガラスが可視光で透明で、しかも \(n=1.5\) なのは ── ガラスが紫外線を吸うからです。
屈折率を \(\tilde n=n+i\kappa\) と書いて、平面波に入れます:
$$E=E_0\,e^{i(k_0\tilde n z-\omega t)} =E_0\underbrace{e^{ik_0nz}}_{\text{位相の遅れ}}\ \underbrace{e^{-k_0\kappa z}}_{\text{減衰}}\ e^{-i\omega t}$$強度は振幅の 2 乗なので、吸収係数は
$$\alpha=2k_0\kappa=\frac{4\pi\kappa}{\lambda_0}$$第1回の位相子で、矢印の先が円を保つか内側に巻くかの違いが、そのまま \(\kappa=0\) か \(\kappa>0\) かでした。屈折と吸収は、最初から一つの複素数の二つの成分です。
物質の応答を書きます。時刻 \(t\) の分極は、それまでにかかった電場すべてに応じて決まる:
枠の中が因果律です ── まだかかっていない電場は、いまの分極に効かない。それだけ。
ところが、この「\(\tau<0\) で消える」という性質は、フーリエ変換すると強烈な意味を持ちます。\(\chi(\tau)\) が \(\tau<0\) でゼロなら、その変換 \(\chi(\omega)\) は 複素 \(\omega\) 平面の上半面で解析的(極も切断もない)になります。\(e^{i\omega\tau}\) の \(\mathrm{Im}\,\omega>0\) 部分が、\(\tau>0\) 側だけを抑え込んでくれるからです。
そして解析的な関数には、コーシーの積分定理が使えます。あとは自動的。
(P は主値。1926〜27年、クローニッヒとクラマースが独立に。)
片方が全周波数でわかれば、もう片方は計算するだけで出ます。実部と虚部は独立な情報ではありませんでした。
上の第一式で \(\kappa(\omega')\equiv0\)(どの周波数でもまったく吸わない)と置いてみてください。
$$\kappa\equiv0\ \Longrightarrow\ n(\omega)-1=0\ \text{(すべての }\omega\text{ で)}\ \Longrightarrow\ n\equiv1$$まったく吸わない物質は、まったく曲げません。それは真空です。
逆に言えば ── 光を曲げる物質はすべて、どこかの周波数で必ず光を吸っています。「完全に透明なレンズ」は、原理的に存在できない。
ここで実際の物質を見ます。ガラス(石英)は可視光に透明ですが、その両隣には巨大な吸収があります。
| 帯域 | 何が起きるか | ガラスは |
|---|---|---|
| 紫外(\(\gtrsim4\) eV) | 電子が励起される(バンドギャップ) | 強く吸う |
| 可視(1.6〜3.2 eV) | 電子には足りず、格子には速すぎる | 透明(窓) |
| 赤外(\(\sim\)4 μm 以遠) | Si–O 結合の振動(フォノン) | 強く吸う |
可視の透明さは、二つの吸収にはさまれた「窓」です。そしてクラマース–クローニッヒが言うのは ── 窓の中の \(n=1.5\) という値そのものが、両隣の吸収が作っているということ。とくに紫外側の寄与が支配的です。
「ガラスは透明だから、そこには何もない」ではありません。ガラスの可視光での \(n=1.5\) は、見えない紫外線のところにある吸収の、遠くまで届く影です。
下の図の右側で「紫外の吸収を消す」を押してみてください ── 窓の中の屈折率が、すとんと 1 に落ちます。
左はローレンツ振動子(束縛電子のいちばん単純なモデル)。\(n\) と \(\kappa\) を描いてあります。そして緑の点は、\(\kappa\) だけを使ってクラマース–クローニッヒの積分を数値的に実行して復元した \(n\) ── 曲線にぴたりと乗るはずです。片方から片方が本当に出ます。
右はガラスの模型(赤外と紫外に一つずつ振動子)。横軸は対数の周波数。まん中の白い帯が可視の窓です。
| 分野 | 同じ構造 |
|---|---|
| 光学(この回) | 因果律 → \(\tilde n(\omega)\) の解析性 → 屈折と吸収がつながる |
| 統計力学(わかる温度) | ゆらぎ–散逸定理:応答関数の虚部が散逸、実部が反作用。同じ因果律の帰結 |
| 素粒子論 | 分散関係と光学定理:前方散乱振幅の虚部が全断面積。S 行列の解析性は因果律の反映 |
| 回路 | 受動素子のインピーダンス \(Z(\omega)\) の実部(抵抗)と虚部(リアクタンス)も同じ関係で縛られる |
虚部は「失う」を、実部は「ずれる」を表し、因果律がその二つを接着している。
この構造は、姉妹編で何度も出てきた形の親戚です ── 「わかるすり抜け」では時間を虚数にすると障壁が谷になり、ここでは周波数を複素数にすると吸収と屈折がつながる。どちらも複素平面に出ることで、離れて見えた二つが一つになるという話です。
確立していること:複素屈折率 \(\tilde n=n+i\kappa\) と \(\alpha=4\pi\kappa/\lambda_0\);線形・時間並進不変・因果的な応答関数が複素上半面で解析的になること(ティッチマーシュの定理)と、そこから出るクラマース–クローニッヒの関係(1926–27);\(\kappa\equiv0\Rightarrow n\equiv1\);f 総和則 \(\int_0^\infty\omega\,\mathrm{Im}\,\varepsilon_r\,d\omega=(\pi/2)\omega_p^2\);ローレンツ振動子模型と正常/異常分散;石英ガラスの紫外電子吸収端と赤外フォノン吸収、その間の可視の窓。いずれも標準的な物理です。
注意すること:① クラマース–クローニッヒが成り立つ前提は線形・時間並進不変・因果的・受動的な応答です。強い光での非線形光学や、時間変化する媒質では、この形のままでは使えません。② 導出では \(\omega\to\infty\) で \(\chi\to0\) を仮定します。導体では \(\omega\to0\) で \(\varepsilon\) が発散するため、\(\varepsilon\) ではなく \(\sigma\) を使うなど扱いに手当てが要ります。③ 「透明なら屈折しない」は理想化された言い切りです。実際に言えるのは「どこかの周波数に吸収がなければ \(n\equiv1\)」であって、ある帯域で吸収が測定限界以下でも \(n\neq1\) は普通に起こります ── その \(n\) を作っているのが別の帯域の吸収だ、というのが本文の主張です。④ 右の図の「ガラス」は二振動子の模型で、実際の石英の光学定数の再現ではありません。共鳴位置と強度は、可視で \(n\approx1.5\) になるよう選んだ教育用の値です。⑤ 左の図の KK 復元は有限区間(\(\omega'\le40\,\omega_0\))の数値積分なので、原理的にわずかな打ち切り誤差があります。⑥ 総和則の右辺に入る \(N\) は全電子密度(内殻を含む)で、可視域だけを見て検証できる量ではありません。
屈折率は複素数 \(\tilde n=n+i\kappa\) で、実部が位相の遅れ(屈折)、虚部が減衰(吸収、\(\alpha=4\pi\kappa/\lambda_0\))。そしてこの二つは独立に選べません。「結果は原因より先に起きない」(\(\chi(\tau)=0\) for \(\tau<0\))というたった一行から、\(\tilde n(\omega)\) は複素上半面で解析的になり、コーシーの定理がクラマース–クローニッヒの関係を強制します。
帰結は容赦がありません ── \(\kappa\equiv0\) を入れると \(n\equiv1\)。まったく吸わない物質は、まったく曲げない。さらに f 総和則 \(\int_0^\infty\omega\,\mathrm{Im}\,\varepsilon_r\,d\omega=(\pi/2)\omega_p^2\) は、吸収の総量が電子の数だけで決まると言っています。周波数を移すことはできても、減らすことはできない。
だから ── ガラスが可視光で \(n=1.5\) なのは、ガラスが紫外線を吸うからです。可視の透明さは紫外と赤外の吸収にはさまれた窓であり、窓の中の屈折率は見えないところにある吸収の影。図で紫外の振動子を消せば、\(n\) はすとんと 1 に落ちます。同じ構造は、ゆらぎ–散逸定理にも、素粒子論の光学定理にも、回路のインピーダンスにも出てきます ── 虚部は「失う」、実部は「ずれる」、接着剤は因果律。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では左のγを動かすと共鳴の幅が変わり、緑の点(κ から復元した n)が青い曲線に乗り続けることを確かめられます。右の「紫外の吸収を消す」を押すと、可視の窓の屈折率が 1 に落ちます。「答えを見る」で解答が開きます。