わかるすり抜け第 3 回 / 熱で越えるか、すり抜けるか

冷やしていくと、ある温度で反応が止まらなくなる ── そこに現れる 2π は、ウンルー温度の 2π と同じもの

熱で越えるか、すり抜けるか 壁を越える方法は 2 つ。熱で乗り越えるか、すり抜けるか。
どちらも指数で、しかもどちらも虚時間の言葉で書ける ── だから必ず入れ替わる温度があります。
$$T_0=\frac{\hbar\omega_b}{2\pi k_B}$$

必要な道具:第1回の \(e^{-2S_E/\hbar}\)、「わかる温度」第2回・第6回・第7回 この回の芯:二つの周期が一致する温度

化学の授業で、反応速度は温度を上げると急に速くなる、と習います。アレニウスの式 \(k\propto e^{-E_a/k_BT}\) ── 熱で壁を乗り越える確率です。ところが冷やしていくと、ある温度から下でこの式が効かなくなります。反応が止まるはずなのに、止まらない。速度が温度に依らなくなり、絶対零度に近づけても一定値に落ち着く。熱で越えるのをやめて、すり抜けに切り替わったのです。切り替わりの温度は \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) ── そしてこの \(2\pi\) は、姉妹編「わかる温度」最終回で見たウンルー温度 \(T=\hbar a/2\pi ck_B\) の \(2\pi\) と、同じ理由で出てくる同じ \(2\pi\) です。熱とすり抜けは、はじめから同じ土俵にいました。

01壁を越える、二つのやり方

熱で乗り越えるすり抜ける
確率\(e^{-E_b/k_BT}\)\(e^{-2S_E/\hbar}\)
温度への依存あり(冷やすと止まる)なし(冷やしても変わらない)
効くもの壁の高さだけ壁の高さと幅と粒子の質量
提唱アレニウス(1889)ガモフら(1928)

この2つが並んでいるのを見ると、すぐ気づくことがあります ── 片方は温度とともに変わり、もう片方は変わらない。ということは、温度を下げていけば必ずどこかで逆転する。高温では熱が勝ち、低温ではすり抜けが勝つ。

実験ではこれはアレニウスプロットの折れ曲がりとして見えます。横軸 \(1/T\)、縦軸 \(\log(\text{速度})\) を取ると、熱の領域では直線(傾き \(=-E_b/k_B\))、すり抜けの領域では水平。折れ曲がりの位置が \(T_0\) です。

02分かれ目の温度を出す

逆転する温度は、2つの肩を等しいと置けば出ます。そのために、すり抜け側の肩 \(2S_E/\hbar\) を計算しておきます。壁の頂上付近を放物線で近似するのが標準です ── 頂上での「(虚の)振動数」を \(\omega_b\) とします。

放物線の壁のユークリッド作用

壁を \(V(x)=E_b-\frac12 m\omega_b^2x^2\)、粒子のエネルギーを \(0\) として、第1回の式に入れます。転回点は \(x_0=\sqrt{2E_b/m}\,/\,\omega_b\) で、

$$S_E=\int_{-x_0}^{x_0}\!\!\sqrt{2m\big(V(x)\big)}\,dx =\sqrt{2mE_b}\;x_0\int_{-1}^{1}\!\sqrt{1-u^2}\,du=\frac{\pi E_b}{\omega_b}$$

したがって、すり抜け側の肩は

$$\frac{2S_E}{\hbar}=\frac{2\pi E_b}{\hbar\omega_b}$$

ここが気持ちいいところです。この形を \(E_b/k_BT\) と同じ形に読み替えると ──

この回の芯 ── 分かれ目の温度
$$\frac{2S_E}{\hbar}=\frac{2\pi E_b}{\hbar\omega_b}\ \equiv\ \frac{E_b}{k_BT_0} \qquad\Longleftrightarrow\qquad \boxed{\ T_0=\frac{\hbar\omega_b}{2\pi k_B}\ }$$

つまり ── すり抜けの確率は、「温度 \(T_0\) で熱的に越える確率」とちょうど同じ。だから \(T>T_0\) なら熱のほうが速く、\(T

言い換えると:どれだけ冷やしても、系は「温度 \(T_0\) の熱浴があるかのように」振る舞い続ける。すり抜けとは、絶対零度でも消えない見かけの温度のことでもあります。

03この 2π は、ウンルーの 2π と同じもの

なぜ \(2\pi\) が出たのか。放物線の積分から出てきた、と言えばそのとおりですが、もっと深い理由があります

二つの周期が一致する、という一つの話
虚時間方向にある「周期」それが決めるもの
温度がある(わかる温度 第6回)\(\beta\hbar=\hbar/k_BT\)ボルツマン因子
すり抜け(この回)\(2\pi/\omega_b\)反転した谷を1往復する時間
加速する観測者(わかる温度 第7回)\(2\pi c/a\)ウンルー温度

第1回で見たとおり、すり抜けは虚時間の中の往復運動でした。反転した谷(=もとの壁)は頂上付近で放物線なので、そこでの往復の周期は調和振動と同じ \(2\pi/\omega_b\)。
一方、温度 \(T\) の系では虚時間は周期 \(\beta\hbar\) の円です。往復運動がこの円に収まるかどうかが、勝負を決めます ── \(\beta\hbar > 2\pi/\omega_b\)(低温、円が長い)なら往復が収まり、すり抜けが起きる。\(\beta\hbar < 2\pi/\omega_b\)(高温、円が短い)なら収まらず、熱で越えるしかない。 境目は

$$\frac{\hbar}{k_BT_0}=\frac{2\pi}{\omega_b}\qquad\Longrightarrow\qquad T_0=\frac{\hbar\omega_b}{2\pi k_B}$$
ウンルー温度と、字面まで同じ 「わかる温度」第7回では、加速する観測者の虚時間が角度になり、角度は1周が \(2\pi\) だから周期が \(2\pi c/a\) に決まり、\(T=\hbar a/2\pi ck_B\) が出ました。
こちらは、壁の頂上での往復が調和振動だから周期が \(2\pi/\omega_b\) に決まり、\(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) が出る。
どちらも「虚時間方向の周期が \(2\pi/(\text{何かの角振動数})\) になる」という同じ一行です。加速度 \(a/c\) と障壁の振動数 \(\omega_b\) が、同じ席に座っている。この二つの式を並べて眺めるのが、シリーズ前半のいちばんの見どころです。

04動かしてみる ── 折れ曲がりを見る

下の図は、いま導いた 2 本の線です。横軸は温度(対数)、縦軸は反応速度(対数)。右下がりの直線が熱、水平な線がすり抜けで、交点がちょうど \(T_0\) にあります。

プリセットのボタンで、実際の系に切り替えられます。同じ理屈が、化学反応から金属中の水素、そして超伝導回路まで、6 桁の温度範囲で同じ形をしていることを確かめてください。

図:アレニウスプロット(横軸=温度の対数、縦軸=速度の対数)。青=熱で越える(右下がり)、赤=すり抜ける(水平)。交点が T₀ = ℏω_b/2πk_B。T₀ より下ではいくら冷やしても速度が下がらない
熱で越える e^(−E_b/k_BT) すり抜ける e^(−2S_E/ℏ) 実際に観測される速度(大きいほう)

05桁で見る ── どこで折れるか

ω_b の目安T₀意味
水素が動く化学反応10¹⁴ s⁻¹約 120 K液体窒素より上ですり抜けが主役に
重い原子(炭素など)が動く反応10¹³ s⁻¹約 12 Kふつうの実験室では見えない
金属中の水素の拡散2×10¹³ s⁻¹約 25 K低温で拡散が温度に依らなくなる
ジョセフソン接合(巨視的量子トンネル)10¹¹ s⁻¹約 0.1 K希釈冷凍機の領域。第4回へ

質量が軽いほど \(\omega_b\) が大きく、\(T_0\) も高い(\(\omega_b\propto1/\sqrt m\))。だから「すり抜けが効く」のは、まず水素、次に重水素、その次に……という順番になります。この質量依存性が、番外編⑤で酵素の中のすり抜けを検出する道具になります(水素を重水素に置き換えて反応が桁で遅くなれば、すり抜けていた証拠)。

11 K で進む化学反応 2011年、シュライナーらはメチルヒドロキシカルベンという分子が、11 K のアルゴン固体の中で自発的に異性化することを報告しました。障壁は 28 kJ/mol ── 11 K の熱エネルギーの約 300 倍です。熱では 10⁻¹²⁰ 秒に一度も起きない。それが数時間で進む。
彼らはこれを「トンネル制御(tunneling control)」と呼びました。熱力学的に有利でも、速度論的に有利でもない生成物が、「壁が薄い」という第三の理由で選ばれる。低温の化学では、これが本当に起きます。

06境目のあたりは、少しややこしい

正直に言っておくと、\(T_0\) はきれいな「相転移」ではありません。実際には両方の道が同時に開いていて、「熱でいくらか登ってから、途中からすり抜ける」という中間の経路がいちばん速いことが多い(熱助トンネル)。図の折れ曲がりも、現実には角ではなく丸みを帯びます。

それでも \(T_0\) は良い目印です。この温度より上か下かで、系の振る舞いの「種類」が変わる。そしてその境目が \(\hbar\omega_b/2\pi k_B\) というきれいな形で書けること自体が、熱とすり抜けが同じ言葉で書けている証拠になっています。

◇ ◇ ◇
正直な線 ── どこまでが確立か

確立していること:アレニウス則 \(k\propto e^{-E_a/k_BT}\);低温でアレニウスプロットが折れ曲がりトンネルに支配されること(多数の系で観測);放物線障壁のユークリッド作用 \(S_E=\pi E_b/\omega_b\);交差温度 \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\)(Langer 1967、Affleck 1981、Callan–Coleman の枠組み);有限温度のすり抜けが「虚時間の円 \(\beta\hbar\) にバウンス解が収まるか」で決まること;ジョセフソン接合における巨視的量子トンネルの観測(Voss–Webb 1981、Devoret–Martinis–Clarke 1985 ほか);メチルヒドロキシカルベンの 11 K での異性化とトンネル制御(Schreiner ら 2011, Science)。いずれも標準的な結果です。

注意すること:① \(T_0\) は鋭い転移ではなくクロスオーバーです。境目付近では熱助トンネルが主役で、折れ曲がりは丸くなります(バリアの形によっては「1次的」に急になる場合もあり、その分類自体が研究対象です)。② \(S_E=\pi E_b/\omega_b\) は放物線近似で、実際の障壁形状ではずれます。特に低温側の絶対値は形に敏感です。③ 現実の系には散逸(環境との結合)があり、これは \(T_0\) を下げ、すり抜けを抑えます(カルデイラ–レゲットの理論)。図はこれを無視した理想化です。④ 図の「速度」は前置因子を 1 に規格化した相対値で、絶対値ではありません。⑤ 表の \(\omega_b\) と \(T_0\) は桁の目安であり、系ごとに数倍は動きます。

練習問題(この回の考え方で解けます)
  1. アレニウスプロットが低温で水平になるのはなぜか。
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    すり抜けの確率 \(e^{-2S_E/\hbar}\) に温度が入っていないから。熱で越える確率は冷やすと落ちていくが、すり抜けは落ちない。だからある温度から下では、すり抜けだけが残り、速度が一定になる。
  2. \(T_0\) を上げるには、何を変えればよいか。
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    \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) なので、\(\omega_b\) を大きくする。\(\omega_b\propto1/\sqrt m\) なので、軽い粒子ほど \(T_0\) が高い。だから水素は 100 K 級、重い原子は 10 K 級で折れる。壁の高さ \(E_b\) は \(T_0\) には効かない(速度の絶対値には効く)ことに注意。
  3. この回の \(2\pi\) と、ウンルー温度の \(2\pi\) の共通点は何か。
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    どちらも「虚時間方向の周期が \(2\pi/(\text{角振動数})\) になる」という同じ一行から来ている。ウンルーでは角度の1周が \(2\pi\)、こちらでは反転した谷での調和振動の1往復が \(2\pi/\omega_b\)。加速度 \(a/c\) と \(\omega_b\) が同じ席に座っている。
  4. 「すり抜けは、絶対零度でも消えない見かけの温度である」とはどういう意味か。
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    すり抜けの確率 \(e^{-2S_E/\hbar}\) が、ちょうど「温度 \(T_0\) で熱的に越える確率」\(e^{-E_b/k_BT_0}\) と等しいから。いくら冷やしても、系は温度 \(T_0\) の熱浴があるかのように反応し続ける。実際の温度が \(T_0\) を下回った時点で、系にとっての実効温度は \(T_0\) で止まる。

第3回まとめ熱とすり抜けは、同じ土俵にいた

壁を越える方法は2つ。熱で乗り越える \(e^{-E_b/k_BT}\) は温度に依り、すり抜ける \(e^{-2S_E/\hbar}\) は依らない。だから冷やしていけば必ず逆転し、アレニウスプロットが折れ曲がります

放物線の壁で計算すると \(2S_E/\hbar=2\pi E_b/\hbar\omega_b\)。これを \(E_b/k_BT_0\) と読み替えると \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\) ── すり抜けとは、絶対零度でも消えない見かけの温度 \(T_0\) のことでもあります。

そしてこの \(2\pi\) は、ウンルー温度の \(2\pi\) と同じものです。どちらも「虚時間方向の周期が \(2\pi/(\text{角振動数})\) になる」という一行から来ている ── 温度が虚時間の円 \(\beta\hbar\)、すり抜けが谷での往復 \(2\pi/\omega_b\)、その二つの周期が一致するところが分かれ目でした。水素なら約 120 K、ジョセフソン接合なら約 0.1 K。6 桁離れた系が、同じ一本の式で並びます。

この文書は「わかるすり抜け」シリーズ第3回、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。アレニウス則、低温でのアレニウスプロットの折れ曲がりとトンネル支配への移行、放物線障壁のユークリッド作用 \(S_E=\pi E_b/\omega_b\)、交差温度 \(T_0=\hbar\omega_b/2\pi k_B\)(Langer 1967、Affleck 1981、Callan–Coleman の枠組み)、有限温度のすり抜けが虚時間の周期 \(\beta\hbar\) とバウンス周期の比較で決まること、ジョセフソン接合での巨視的量子トンネルの観測(Voss–Webb 1981、Devoret–Martinis–Clarke 1985 ほか)、およびメチルヒドロキシカルベンの 11 K での異性化とトンネル制御(Schreiner ら 2011)は、いずれも確立した結果です。\(T_0\) が鋭い転移ではなくクロスオーバーであり境目付近では熱助トンネルが主役になること、\(S_E=\pi E_b/\omega_b\) が放物線近似であること、現実の系では散逸(カルデイラ–レゲット)が \(T_0\) を下げること、図の速度が前置因子を規格化した相対値であること、および表の値が桁の目安であることは、本文「正直な線」に明記しました。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前後の回:第2回 太陽が燃えているのは、すり抜けているから第4回 位相がそろうと、すり抜けが電流になる目次/姉妹編 わかる温度(第6回・第7回・番外編①)。

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では壁の高さと頂上の振動数を動かすと、折れ曲がりの位置 T₀ が移動します。プリセットのボタンで、化学反応からジョセフソン接合まで 6 桁の温度範囲を行き来できます。「答えを見る」で解答が開きます。