越えられない壁を越えずに向こう側へ ── 不思議なのは現象ではなく、実時間で見ていること
坂道を転がるボールは、自分の高さより高い丘を越えられません。当たり前です。ところが電子は越えます ── いや、正確には越えずに向こう側に現れます。これがトンネル効果で、量子力学の入門でだいたい「不思議ですね」と言われて終わる話です。でも不思議なのは現象ではなく、実時間で見ていることのほうです。時間を虚軸に 90 度回してみると(姉妹編「わかる温度」第6回のウィック回転)、壁が谷にひっくり返ります。すると粒子はもう何も飛び越えていない ── ただの坂を、ふつうに歩いて渡っているだけ。その散歩にかかった「作用」\(S_E\) が、そのまま確率の指数の肩に乗る。このシリーズは、この一つの見方で太陽の燃焼から超伝導、真空の崩壊までを一本につなぎます。
高さ \(V\) の壁に、エネルギー \(E 壁の外(\(E>V\))では波数 \(k=\sqrt{2mE}/\hbar\) で振動します。壁の中(\(E 振動が減衰に化けました。だから波は壁の中で消えていくけれど、ゼロにはならない。壁の厚み \(a\) が有限なら、向こう側に少しだけ残って、そこからまた振動を再開する。これがすり抜けです。 電子で数字を入れてみます。\(V-E=1\) eV のとき \(\kappa\approx5.1\ \mathrm{nm^{-1}}\)。壁の厚みが 1 nm なら \(e^{-10}\approx4.5\times10^{-5}\)。2万回に1回は抜ける。厚みを 2 nm にすると \(e^{-20}\approx2\times10^{-9}\) ── 一気に4桁落ちます。 この「厚みが2倍で確率が4桁」という感触が、シリーズ全体の主役です。すり抜けは指数の肩に乗っている。 いまの計算で決定的だったのは、「平方根の中身が負になって \(k\) が虚数になった」ところでした。虚数が出たら、時間を回せ ── これが姉妹編「わかる温度」第6回で覚えた手つきです。 実時間の運動方程式(エネルギー保存)は 壁の中では右辺が負なので、実数の速度では解けません。ここで \(t=-i\tau\)(虚時間)と置くと \(\dot x^2\to-(dx/d\tau)^2\) となり、 右辺が正になりました。つまり ── 虚時間の中では、ポテンシャルが上下ひっくり返る。実時間で越えられなかった山は、虚時間では谷で、粒子はふつうに転がって渡れます。 そして、その散歩にかかる作用(ユークリッド作用)を計算すると: \(x_1,x_2\) は壁とエネルギー線が交わる2点(転回点)。四角い壁なら \(S_E=\hbar\kappa a\) となって、さっきの \(e^{-2\kappa a}\) に戻ります。 下の図は、四角い壁に電子をぶつけた計算です(近似ではなく厳密解)。上段が実時間の絵 ── 壁、エネルギー線、そして \(|\psi|\)。壁の中で指数的に細っていくのが見えます。破線は虚時間で見たときの反転ポテンシャルで、そこでは壁が谷になっています。 下段は透過確率を対数目盛りで。スライダーを少し動かすだけで縦軸が何桁も飛びます ── これが「指数の肩」の実感です。壁の厚みを 0.1 nm 増やすだけで、確率が桁で変わることを確かめてください。 「指数の肩に乗る」ことの威力が最初に暴れたのが、原子核の α 崩壊でした。1928年、ガモフ(およびガーニーとコンドン)が独立に、これをすり抜けとして説明します ── 量子力学が原子核に適用された最初の例です。 α 粒子は原子核の中に閉じこめられていて、クーロン障壁をすり抜けて外に出ます。ここで面白いのは、核ごとの半減期のばらつき方です。 エネルギーはたった 2 倍しか違わないのに、半減期は 24 桁ちがう。これを「偶然そういうものだ」で済ませるのは無理です。しかし \(P\approx e^{-2S_E/\hbar}\) なら当然で ── 肩の上の数字が数十変われば、答えは数十桁変わる。この関係(ガイガー–ヌッタル則)は実験的に 1911 年から知られていて、ガモフの理論がその指数の中身を説明しました。 以後ずっと、注目するのは指数の肩に何が乗っているかだけです。前の係数は「だいたい合っていればいい」。肩が数十変わると答えが数十桁変わるので、係数の数倍は誤差のうちという感覚を持ってください。 ここで必ず出る質問に、先に答えておきます。「壁の中にいる時間、粒子はエネルギー保存を破っているのでは?」 破っていません。「壁の中にいる粒子」という観測はできないからです。壁の中で \(\psi\ne0\) であることは、そこに粒子を見つけられるという意味ではありません(見つけようとして測定すれば、その測定がエネルギーを注ぎ込んでしまう)。観測できるのは「入った」と「出た」だけで、その間は振幅の話です。 ではすり抜けに何秒かかるのか ── これは実は、いまも決着していない問題です。定義が複数あって答えが違い、素朴に読むと光速を超えたように見えるケースまである。面白いので番外編④を丸ごと使って扱います。 確立していること:矩形障壁の透過率の厳密解;\(E 注意すること:① WKB は近似です。\(S_E/\hbar\gg1\)(すり抜けが十分起きにくい)ときに良く、転回点の近くでは補正が要ります。図の上段は厳密解、WKB はボタンで重ねてずれが見えるようにしてあります。② 「虚時間の中を歩いている」は、経路積分の鞍点が虚時間側にあることの言い換えであって、粒子が実在の第二の時間を移動しているという主張ではありません(「わかる温度」第6回の但し書きと同じ)。③ 障壁の中の粒子を直接観測することはできず、\(\psi\ne0\) は「そこに見つかる」ことを意味しません。④ すり抜けに要する時間は未決着の問題で、この回では扱いません(番外編④)。⑤ 図は 1 次元・定常状態・スピンなしの理想化で、実際の固体中や原子核では多体効果が効きます。 エネルギーの足りない粒子が壁の向こうに現れる。実時間で書くと、壁の中で波数が純虚数になり、波が振動をやめて \(e^{-\kappa x}\) で減衰する ── 消えるがゼロにはならないので、薄い壁なら向こう側に漏れる。 時間を虚軸に回すと、この不思議さは消えます。\(t=-i\tau\) と置くとエネルギー保存の符号が反転し、壁が谷になる。粒子は何も飛び越えておらず、虚時間の中をふつうに歩いて渡っているだけ。その散歩の作用が \(S_E=\int\sqrt{2m(V-E)}\,dx\) で、確率は \(P\approx e^{-2S_E/\hbar}\)。 大事なのは、この量が指数の肩に乗っていること。α 崩壊はエネルギーが 2 倍違うだけで半減期が 24 桁ちがいます。以後このシリーズでは、係数ではなく肩の上に何が乗っているかだけを見ていきます。
透過確率はおおよそ振幅の2乗ぶんだけ落ちるので02虚時間に回すと、壁が谷になる
すり抜けは「不可能なことが確率的に起きる」のではなく、「別の時間軸では普通に起きている運動」だった。
この形が偉いのは、どんな形の壁でも同じ一本の式で書けること(WKB 近似)。第2回の太陽も、第7回の真空崩壊も、全部これの応用です。
どちらも、虚時間の中の古典運動です。違いは、円を回るか(熱)、谷を往復するか(すり抜け)だけ。だから第3回で見るように、この二つは必ずどこかの温度で入れ替わります。同じ土俵にいるからです。
03動かしてみる ── 壁と波と、反転した谷
04桁で見る ── α崩壊が 24 桁ちがう理由
核種 α のエネルギー 半減期 ²¹²Po 8.78 MeV 0.3 マイクロ秒 ²²²Rn 5.49 MeV 3.8 日 ²²⁶Ra 4.87 MeV 1600 年 ²³⁸U 4.27 MeV 45 億年
番外編①で常温核融合を判定するときも、この感覚が決め手になります ── 「金属の中だから少し助かるはず」という主張が、なぜ桁として足りないのか。05すり抜けている最中、粒子はどこにいるのか
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第1回まとめ不思議なのは現象ではなく、実時間で見ていたこと
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではエネルギーと壁の厚みのスライダーで、波の減衰と透過確率が動きます。厚みを 0.1 nm 変えるだけで縦軸が桁で飛ぶのを確かめてください。「答えを見る」で解答が開きます。