シリーズを貫く一言「効くのは無次元の比、単位は舞台装置」── その一番わかりやすい実演を、二つの式で
このシリーズでは、何度も同じことを言ってきました ── 物理を決めているのは単位のない比だけ。\(c\) や \(\hbar\) や \(\varepsilon_0\) は「どの物差しで測るか」という舞台装置。でも「単位を入れると式が複雑になる」って、具体的にはどのくらい? この番外編は、その落差を二つの例で目に見せます。片方は速度の合成 ── 無次元で見ると、なんと「ただの足し算」に戻る。もう片方は水素原子のエネルギー ── 無次元なら \(\alpha^2/2\) の一行なのに、単位を入れると定数が雪だるま式に湧いて出る。落差の正体まで、最後に種明かしします。
第1回で、\(c\) は「速い乗り物」ではなく時間と空間の両替レートだと見ました。秒とメートルというちぐはぐな単位で測るから \(c=3\times10^8\) という大きな数が現れるだけで、両方を同じ単位で測れば \(c=1\)、式から消える。物理の中身は無次元の比 \(\beta=v/c\) が握っている ── これがシリーズの出発点でした。
だとすると、逆のことも起きるはずです。単位を明示すると、消せたはずの \(c\) や \(\hbar\) を式のあちこちに書き込む羽目になる。中身は同じなのに、見かけだけ複雑になる。それを二つ、実際に並べてみましょう。
電車(速さ \(v_1\))の中で、進行方向にボール(速さ \(v_2\))を投げる。地面から見たボールの速さは? ニュートンなら答えは単純 ── ただ足す、\(v_1+v_2\)。ところが光速に近づくと、この素朴な足し算は破綻します(そのままだと光速を超えてしまう)。相対論の正しい合成則は、単位を入れて書くとこうです。
分母に \(c^2\)(= \(9\times10^{16}\))が居座る。日常では \(v_1v_2/c^2\approx0\) なので \(v\approx v_1+v_2\)(ニュートンに戻る)。でも光速近くでは、この \(c^2\) が効いて、和は \(c\) を超えられない。式の形は、正直、あまり美しくありません。
ところが、すべてを \(c\) で割って無次元にしてやると(\(\beta=v/c\))、\(c\) が消えて、少しだけすっきりします。
\(c^2\) が消えた。でも「足し算」にはまだ見えない ── 分母の \(1+\beta_1\beta_2\) が残っている。もう一歩、物差しそのものを取り替えると、ここが劇的に変わります。
その物差しがラピディティ \(\theta\)(速度パラメータ)です。速さ \(\beta\) の代わりに、\(\beta=\tanh\theta\) で決まる \(\theta\) を使う。\(\theta\) は無次元で、じつは第3回の時空間隔で見た時空の"回転角"そのもの(空間の回転で角度が足せるのと同じ)。この \(\theta\) で速度の合成を書くと ──
相対論のあの複雑な合成則が、ただの足し算になった。ガリレイの \(v=v_1+v_2\) と同じ形。実際、双曲線関数の加法定理 \(\tanh(\theta_1+\theta_2)=\dfrac{\tanh\theta_1+\tanh\theta_2}{1+\tanh\theta_1\tanh\theta_2}\) を戻せば、上の \(\beta\) の式にちゃんと一致します。相対論の"難しさ"は、間違った物差し(\(v\) や \(\beta\))で見ていただけだったのです。
素朴な足し算(ニュートン)
$$\beta_1+\beta_2=0.5+0.5=1.0\quad(\text{=光速。あり得ない})$$相対論の和(無次元)
$$\beta=\frac{0.5+0.5}{1+0.5\times0.5}=\frac{1.0}{1.25}=0.8$$ラピディティ(足すだけ)
$$\theta=\operatorname{artanh}(0.5)+\operatorname{artanh}(0.5)=0.549+0.549=1.098,\quad \tanh(1.098)=0.8\ \checkmark$$同じ 0.8 に、三つの道で到達します。素朴な足し算は光速を破るが、ラピディティの足し算は決して \(\beta=1\) を超えない(\(\theta\) をいくら足しても \(\tanh\) は 1 未満)。「越えられない壁」が、足し算の世界では無限遠として自然に現れるわけです。
二つの速度 \(\beta_1,\beta_2\) をスライダーで決めてください。上段はβ の物差し(速度そのもの、0〜1)。素朴な和は光速の壁を突き抜けてしまう(✗)のに、相対論の和は壁の手前で止まる(✓)。下段はラピディティの物差し。\(\theta_1\) と \(\theta_2\) を頭からしっぽへ継ぎ足すだけで合成が終わる ── そして \(\tanh\) で上段へ戻すと、ちゃんと相対論の和に一致します。
もう一つ、別の顔の「複雑さ」を。水素原子の電子が持つエネルギー準位です。無次元で書くと、電子の静止エネルギー \(m_e c^2\) を単位にして、たったこれだけ ──
基底状態(\(n=1\))は実質 「\(\alpha^2\) の半分」。微細構造定数 \(\alpha\) ひとつしか出てきません。第2回で電子の軌道速度が \(v/c=\alpha\) だった、あの \(\alpha\) です。
ところが、これを SI 単位で「全部」書き下すと、隠れていた定数がいっせいに湧いて出ます。
\(m_e\)・\(e^4\)・\(\varepsilon_0^2\)・\(h^2\) と、定数が四種類。中身は同じ 13.6 eV なのに、無次元版では \(\alpha^2\) の中に畳まれていたものが、単位を入れた途端に表へあふれ出す。ちなみに \(\alpha=\dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0\hbar c}\) なので、この四つはぜんぶ \(\alpha\) の中身です。
無次元(コンプトン波長 ℏ/m_e c を単位に)
$$a_0=\frac{1}{\alpha}\,\frac{\hbar}{m_e c}$$SI で全部書くと
$$a_0=\frac{4\pi\varepsilon_0\hbar^{2}}{m_e e^{2}}$$無次元なら「コンプトン波長の \(1/\alpha\)(=137倍)」の一言。単位を入れると、また \(\varepsilon_0\) と \(e^2\) が顔を出す。同じ物理、違う見かけ ── 落差の出どころは、いつも同じです。
二つの例に共通する落差の正体は、こうです。物理の中身を決めているのは無次元の比だけ ── 速度合成なら \(\beta\)(さらに畳めば \(\theta\))、水素なら \(\alpha\)。\(c\)・\(\hbar\)・\(\varepsilon_0\) といった次元をもつ定数は、「秒・メートル・キログラム・クーロンという、人間が勝手に決めた物差し」を式の中で持ち運ぶための荷札にすぎません。
・比だけで語る → 荷札(\(c^2,\varepsilon_0^2,h^2\)…)が相殺して消え、構造(足し算・\(\alpha^2\))が裸で見える。
・単位を明示する → 物差し一式を式に書き込む羽目になり、見かけが複雑化する。
複雑さは物理の深さではなく、物差しの持ち運びコスト。だから物理学者は \(c=\hbar=1\) と置く(自然単位)── 荷札を降ろせば、式は本来の一行に戻る。
これは、このシリーズと全集を貫く視点そのものです。単位のある量は舞台装置、効くのは無次元の比。相対論が難しく見えたのも、\(v\) や秒やメートルという舞台装置を握ったまま考えていたから。物差しを \(\beta\)、さらに \(\theta\) に取り替えた瞬間、あの合成則が「ただの足し算」に戻ったように ── 正しい無次元の物差しを選ぶことが、理解そのものなのです。
\(v=(v_1+v_2)/(1+v_1v_2/c^2)\) が無次元化で \(\beta=(\beta_1+\beta_2)/(1+\beta_1\beta_2)\) になり、ラピディティ \(\theta=\operatorname{artanh}\beta\) で \(\theta=\theta_1+\theta_2\) と加法的になること、\(\theta\) がローレンツ変換(時空の双曲的回転)の"角度"であること、水素の \(E_n=-\tfrac12\alpha^2 m_e c^2/n^2=-m_e e^4/(8\varepsilon_0^2 h^2 n^2)\)、ボーア半径 \(a_0=\hbar/(\alpha m_e c)=4\pi\varepsilon_0\hbar^2/(m_e e^2)\) は、いずれも確立した標準物理です。
ただし。 ① ラピディティの加法性 \(\theta=\theta_1+\theta_2\) は同一直線上(1次元)の速度合成での話。向きが違う速度を合成すると、余分な回転(トーマス歳差)が現れ、単純な足し算では済みません。 ② 「複雑さは単位のせい」は見かけの複雑さのこと。速度が単純に足せず光速で頭打ちになる、という中身は物理の事実で、物差しを変えても消えません(第1回で「\(c\) の普遍性は単位の話ではない」と断ったのと同じ)。ラピディティは難しさを"足し算に畳んで見せる"のであって、無くすのではない。 ③ \(\alpha\approx1/137\) が無次元でも、その値がなぜ 1/137 かは未解決 ── 単位を消しても残る、正真正銘の謎です(姉妹編「わかる宇宙論」)。
「単位を入れると複雑」を、二つの式で実演した。速度の合成は、単位つきなら \(v=(v_1+v_2)/(1+v_1v_2/c^2)\) と \(c^2\) を抱えるが、無次元にすると \(c\) が消え、ラピディティ \(\theta=\operatorname{artanh}\beta\) に取り替えると \(\theta=\theta_1+\theta_2\) ── ガリレイと同じただの足し算に戻る。水素のエネルギーは、無次元なら \(-\tfrac12\alpha^2/n^2\) の一行なのに、SI で書くと \(m_e e^4/(8\varepsilon_0^2h^2n^2)\) と定数が雪だるま。
落差の正体は物差しの持ち運びコスト。物理を握るのは無次元の比(\(\beta,\theta,\alpha\))だけで、\(c\)・\(\hbar\)・\(\varepsilon_0\) は物差しの荷札。比だけで語れば荷札は相殺して消え、構造が裸で見える。正しい無次元の物差しを選ぶことが、理解そのもの ── これがシリーズを貫く「効くのは無次元の比」の、いちばん素直な実演です。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では β₁・β₂ スライダーで、上段(速度の物差し)の「素朴な和 ✗/相対論の和 ✓」と、下段(ラピディティの物差し)の「継ぎ足すだけの足し算」が連動します。「答えを見る」で解答が開きます。