小さい系では、エントロピーが減る事象が実際に起きる ── しかも起きる確率が厳密に計算できる
「エントロピーは増える」── 熱力学第二法則は、物理でいちばん破れそうにない法則として教わります。ところが 1990 年代以降、それが破れる瞬間を実際に観測して数えることができるようになりました。破っているのは、コロイド粒子ひとつや、ほどけかけの RNA 一本といった小さい系です。しかも重要なのは、「たまに例外がある」という曖昧な話ではないこと ── 破れる確率と守る確率の比が、厳密な等式で与えられます。それがゆらぎの定理:\(P(+\sigma)/P(-\sigma)=e^{\sigma/k_B}\)。ここでも \(k_B\) が両替レートとして働いていて、生成エントロピーが \(k_B\) 何個ぶんかという無次元の比だけが効きます。第二法則が「法則」に見えるのは、日常の系ではこの比が \(10^{20}\) といった数になるから、それだけのことです。
水に浮かぶ花粉の微粒子は、まわりの水分子に叩かれてふらふら動きます。このとき微粒子は、時々まわりから熱をもらって速くなり、時々まわりに熱を返して遅くなる。もらっている瞬間だけを切り取れば ── それは熱が冷たい側から熱い側へ流れているということです。
姉妹編「わかる繰り込み」第1回で見たとおり、こうした逆行が見えるのは \(N\) が小さいから。相対的なゆらぎは \(1/\sqrt N\) で、粒子が \(10^{23}\) 個あれば \(10^{-12}\) となって決して見えない。だからブラウン運動の逆行と、第二法則は矛盾しません。
問題は、その先です。「たまに逆行する」を、どれくらいの頻度で、と言えるか。
ある実験で生成エントロピーが \(+\sigma\) になる確率と、\(-\sigma\) になる(=第二法則に逆らう)確率の比が、これだけで決まります。
ここでも効くのは無次元の比 \(\sigma/k_B\) ── 「\(k_B\) 何個ぶんのエントロピーか」。第1回で「\(k_B\) は換算レート」と書いた意味が、ここでいちばんはっきりします。
この一行が言っていることは、二つあります。
| 系 | 典型的な σ/k_B | 逆行の相対確率 e^(−σ/k_B) | 実際に見えるか |
|---|---|---|---|
| 光ピンセットで引くコロイド粒子(1 秒) | 数〜数十 | 10⁻¹ 〜 10⁻⁵ | 見える(実験で日常的に観測) |
| 分子モーター 1 歩 | ≈ 20 | ≈ 2×10⁻⁹ | ときどき逆走する(観測済み) |
| コップの水が 1 mK 冷える | ≈ 10¹⁸ | 10^(−4×10¹⁷) | 絶対に見えない |
第二法則が「法則」なのは、\(\sigma/k_B\) が桁違いに大きい世界にだけ住んでいるからです。ナノスケールに降りると、法則は賭けに戻ります。
下の図は、水中の微小な粒子を光ピンセットで一定速度で引きずるという、実験室で実際にやられている設定を、その場で数値計算したものです(過減衰ランジュバン方程式を 3000 本の軌道について解いています)。1 本の軌道ごとに、外から加えた仕事 \(W\) を測ります。
左が \(W\) のヒストグラム。平均は必ず正(第二法則)ですが、赤く塗った左側の裾 ── \(W<0\) の軌道が実在します。これは「粒子が水から熱をもらって、引き手を押し返した」回。第二法則が破れた個々の実験です。
右が検証で、各ビンについて \(\ln\bigl[P(W)/P(-W)\bigr]\) を \(W\) に対して打ったもの。ゆらぎの定理が正しければ、これは傾き 1 の直線に乗るはずです(\(k_BT\) を単位にとっているので)。乗ります。
そしてスライダーで引く時間(=系の「大きさ」)を伸ばすと ── 逆行の割合が指数関数的に消えていきます。第二法則が、目の前で「法則」になっていく。
もうひとつ、同じ家族の等式があります。こちらは実用的です。
左辺はどんなに速く(非平衡に)引いてもよい実験の平均。右辺は平衡の量(自由エネルギー差)。乱暴な実験を何度も繰り返して指数平均を取ると、平衡の値がぴったり出るという驚くべき等式です。
しかも、ここから熱力学第二法則が系として導けます ── イェンセンの不等式より \(\langle e^{-W/k_BT}\rangle\ge e^{-\langle W\rangle/k_BT}\) なので、\(\langle W\rangle\ge\Delta F\)。第二法則は等式の系であって、独立な公理ではなかった。
この等式は実験でも使われていて、RNA のヘアピンを光ピンセットで無理やり引きほどく実験から、ほどくのに必要な自由エネルギー(平衡量)が実測されています。ゆらぎに支配された乱暴なデータから、きれいな平衡量が出てくる ── 指数平均が、まれな逆行イベントを拾い上げているからです。
従来:「孤立系のエントロピーは減少しない」
正確には:「エントロピーが \(\sigma\) だけ減る確率は、同じだけ増える確率の \(e^{-\sigma/k_B}\) 倍である」
── そして \(\sigma/k_B\) が巨大な日常の系では、前者が後者の \(10^{-10^{18}}\) 倍になるので、実質的に「減らない」と言ってよい。
第1回から一貫している構図が、ここでも出ています ── 効くのは無次元の比だけ。第1回は \(E/k_BT\)、第3回は \(\hbar\omega/k_BT\)、そしてこの回は \(\sigma/k_B\)。単位のある量そのものではなく、\(k_B\) で割った「何個ぶんか」だけが物理を決めています。
確立していること:ゆらぎの定理(Evans–Cohen–Morriss 1993、Gallavotti–Cohen 1995、Crooks 1999 ほか)と、その形 \(P(+\sigma)/P(-\sigma)=e^{\sigma/k_B}\);ヤジンスキー等式 \(\langle e^{-W/k_BT}\rangle=e^{-\Delta F/k_BT}\)(1997)とそこから第二法則が不等式として従うこと;コロイド粒子の光ピンセット実験(Wang ら 2002 ほか)や RNA ヘアピンのほどき実験(Liphardt ら 2002、Collin ら 2005 ほか)による実験的検証;過減衰ランジュバン系で仕事分布がガウスになりゆらぎの定理を満たすこと ── いずれも確立した物理です。
誤解しないこと:① 第二法則は破れていません。破れるのは「個々の試行」であって、平均は必ず \(\langle\sigma\rangle\ge0\)。むしろゆらぎの定理は第二法則を精密化したもので、否定するものではありません。② 永久機関は作れません ── 逆行イベントを選んで取り出すには、どちらが逆行かを測って記憶する必要があり、その情報処理のコスト(ランダウアー、姉妹編「わかる繰り込み」番外編②)が必ず上回ります(マクスウェルの悪魔の現代的決着)。③ 定理が成り立つには、初期状態が平衡である・熱浴が正準分布であるなど、いくつかの条件が要ります。形も設定によって少しずつ違う版(過渡的/定常状態/Crooks/Jarzynski)があり、本文は代表形です。④ 図は過減衰ランジュバン方程式(\(k=\gamma=k_BT=1\)、トラップを一定速度で並進)の数値解で、実験装置の再現ではありません。この設定では \(\Delta F=0\) なので、ゆらぎの定理が \(P(W)/P(-W)=e^{W/k_BT}\) の形になります。
小さい系・短い時間では、エントロピーが減る事象が実際に起きます。しかもその頻度は厳密な等式で決まる ── \(P(+\sigma)/P(-\sigma)=e^{\sigma/k_B}\)(ゆらぎの定理)。効くのは無次元の比 \(\sigma/k_B\)=「\(k_B\) 何個ぶんのエントロピーか」だけで、ここでも \(k_B\) は両替レートとして働いています。
コロイド粒子や RNA の実験で確認済み。さらにヤジンスキー等式 \(\langle e^{-W/k_BT}\rangle=e^{-\Delta F/k_BT}\) を使うと、乱暴な非平衡実験から平衡の自由エネルギーが取り出せ、しかもそこから第二法則が不等式として導けます ── 第二法則は独立な公理ではなく、等式の系だった。
ただし破れるのは個々の試行だけで、平均は必ず守られます。そして逆行だけを拾おうとすれば、測って記憶するコスト(ランダウアー)が必ず上回る ── 永久機関にはなりません。第二法則が「法則」に見えるのは、私たちが \(\sigma/k_B\sim10^{18}\) の世界に住んでいるから、それだけです。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーで引く時間を変えると、第二法則を破った軌道の割合が変わります。右のグラフが傾き 1 の直線に乗るのがゆらぎの定理の検証です。「答えを見る」で解答が開きます。