箱に玉をでたらめに配るだけ ── 何のルールも入れていないのに、指数分布がひとりでに立ち上がる
第1回で「温度はエネルギーだ」と言いました。でも、それだけでは足りません ── お風呂とコップの水が同じ 40 ℃ なら温度は同じですが、持っているエネルギーは全然違う。温度は総量ではない。では何か。答えは配り方の傾きで、しかもこれは机上の話ではなく、目の前で立ち上がるところを見られます。箱をたくさん並べて、玉(エネルギーの最小単位)をでたらめにやりとりさせるだけ。何のルールも、指数関数も、ボルツマンも入れていないのに ── 数十秒で指数分布が現れます。その傾きが温度です。そしてこの実験を追いかけると、温度の正体が \(T\) ではなく \(\beta=1/k_BT\) のほうだということも、自然にわかります。
用意するもの。
それだけです。エネルギーは保存する(玉の総数は変わらない)。他には何も入れていません。「温度」も「平衡」も「エントロピー」も、まだどこにも書いていない。
下の図がその実験です。上が箱の中身(棒の高さが玉の数)、下がヒストグラム(玉を \(n\) 個持つ箱が何個あるか)。
「全部を 1 箱に集める」から始めてみてください。最初はヒストグラムがめちゃくちゃですが、玉をやりとりさせるうちに ── まっすぐな指数分布に落ち着きます(縦軸を対数にすると直線になる)。誰も指数関数を指定していないのに、です。そして平均エネルギーのスライダーを動かすと、その直線の傾きだけが変わる。
これが「温度が生まれる瞬間」です。個々の玉のやりとりはでたらめなのに、全体としては決まった形に落ち着く。しかもその形はパラメータをひとつしか持たない ── 傾きです。
種明かしは、驚くほど単純です。玉の配り方の場合の数を数えるだけ。
系を二つに分けます ── 注目する小さい部分(箱 1 個)と、残り全部(熱浴)。全体のエネルギーは \(E_{\text{全}}\) で一定。小さい部分がエネルギー \(E\) を持つとき、その状態が実現する確率は、残りの部分の場合の数に比例します:
$$P(E)\ \propto\ \Omega_{\text{浴}}(E_{\text{全}}-E)$$「小さい部分がエネルギーを持てば持つほど、残りに配れる玉が減り、残りの場合の数が減る」── だから大きい \(E\) は起きにくい。ここまでは当たり前です。では、どう減るのか。
\(E\) は熱浴に比べて小さいので、\(\ln\Omega_{\text{浴}}\) を \(E\) で 1 次まで展開します:
$$\ln\Omega_{\text{浴}}(E_{\text{全}}-E)\approx \ln\Omega_{\text{浴}}(E_{\text{全}})-E\cdot\underbrace{\frac{d\ln\Omega_{\text{浴}}}{dE}}_{\textstyle \equiv\ \beta}$$指数に戻すと
$$P(E)\ \propto\ e^{-\beta E}$$これだけです。指数関数が出てきた理由は「テイラー展開の 1 次で切ったから」── つまり熱浴が大きいから。ボルツマン因子の正体は、場合の数の対数を 1 次で近似したもの。それ以上でも以下でもありません。
そして途中で定義した \(\beta\) こそが、温度の本体です。
言葉にすると ── 「エネルギーを 1 単位もらったとき、場合の数が何倍になるか」の対数微分。
エネルギーをもらって場合の数が激増する系(=もっとエネルギーを欲しがる系)は \(\beta\) が大きい=冷たい。もらってもあまり増えない系は \(\beta\) が小さい=熱い。二つの系を接触させると、\(\beta\) の大きいほう(冷たいほう)へエネルギーが流れ、\(\beta\) が揃ったところで止まる ── それが熱平衡です。
\(\beta=1/k_BT\) は「温度の逆数」なので、ふつうは脇役扱いされます。でも定義を見れば、先に生まれたのは \(\beta\) のほうです。\(T\) は \(\beta\) の逆数として後から定義された量にすぎません。
\(\beta\) を主役にすると、いろいろなことが素直になります。
| 状況 | β | T | \(\beta\) で見ると |
|---|---|---|---|
| 絶対零度に近い | +∞ | 0 | 端っこ。エネルギーを欲しがる度合いが無限大 |
| ふつうに冷たい | 大きい正 | 小さい | 連続 |
| ふつうに熱い | 小さい正 | 大きい | 連続 |
| 無限大の温度 | 0 | ∞ | ただの 0。特別でも何でもない、通過点 |
| 負の温度(第5回) | 負 | 負 | 0 を通り越しただけ。連続してつながる |
\(T\) で書くと「無限大」という扱いにくい点が真ん中にありますが、\(\beta\) で書けばそこはただの \(0\) です。だから第5回の「負の温度」も、\(\beta\) から見れば何の不思議もない ── 傾きの符号が変わっただけ。温度に \(\pm\infty\) の壁があるように見えるのは、逆数で書いているせいの錯覚です。
下の準位と上の準位の占有数の比は、ボルツマン因子そのままです:
$$\frac{n_{\text{上}}}{n_{\text{下}}}=e^{-\Delta E/k_BT}$$第1回の「効くのは \(E/k_BT\) だけ」がここに直結します ── \(\Delta E\ll k_BT\) なら比は 1(半々に埋まる)、\(\Delta E\gg k_BT\) なら比はほぼ 0(下だけ埋まる)。
たとえば室温(25 meV)で \(\Delta E=1\) eV の系なら、\(e^{-40}\approx4\times10^{-18}\) ── 1 京個に数個。だから常温の物質はほとんど基底状態にいる。この比が 1 に近づくとどうなるか、そして1 を超えたらどうなるかが、第5回です。
ここまでくると、温度計の正体も言えます。温度計は「熱さ」を測っているのではありません ── 相手と接触して、\(\beta\) が揃うまで待つ装置です。揃ったあとの自分の状態を読めば、相手の \(\beta\) がわかる。
だから温度計には、二つの条件が要ります。① 相手より十分小さいこと(測ることで相手を変えてはいけない)。② \(\beta\) が揃うまで待つこと。この二つ目が満たされないとき ── たとえば急激な変化や、平衡から遠い系 ── では、「温度」という量そのものが定義できなくなります。温度は、平衡のための言葉です。
確立していること:ボルツマン因子 \(P(E)\propto e^{-\beta E}\) が、熱浴の状態数の対数を 1 次展開することで導かれること;\(\beta=d\ln\Omega/dE=1/k_BT\)、すなわち \(1/T=\partial S/\partial E\)(\(S=k_B\ln\Omega\))が温度の統計力学的定義であること;接触した二系の間で \(\beta\) が等しくなるのが熱平衡であること;二準位系の占有比 \(e^{-\Delta E/k_BT}\);そして図の模型(区別できる \(N\) 個の箱に区別できない \(Q\) 個の量子を配る)の平衡分布が幾何分布 \(p(n)\propto\bigl(q/(1+q)\bigr)^n\) になること(\(N\to\infty\))── いずれも標準的な統計力学です。
仮定していること:① 展開を 1 次で切れるのは熱浴が注目系よりずっと大きいときだけです。小さい熱浴では高次項が効き、指数分布からずれます(これが第4回のゆらぎの主題)。② 「ランダムに配れば必ず平衡へ行く」は、この模型では成り立ちますが、一般にはエルゴード性という仮定です。実際、成り立たない系(可積分系、ガラス、多体局在)が存在します。③ 図の玉のやりとりは、実在の分子衝突を模したものではなく、「保存則だけがある無作為な交換」から分布が決まることを見せるための最小模型です。④ 温度は平衡(あるいは局所平衡)でのみ定義される量で、平衡から遠い系では「その系の温度」は一般に存在しません。
箱に玉をでたらめに配るだけで、指数分布がひとりでに立ち上がります。誰も指数関数を指定していないのに。種明かしは場合の数の勘定で、熱浴の \(\ln\Omega\) を 1 次展開すれば \(P(E)\propto e^{-\beta E}\) が出る ── ボルツマン因子はテイラー展開の 1 次項です。
そこで定義された \(\beta=d\ln\Omega/dE=1/k_BT\) こそが温度の本体。言葉にすると「エネルギーを 1 もらうと、場合の数が何倍になるか」で、姉妹編「わかる繰り込み」第1回の \(S=k_B\ln\Omega\) をエネルギーで微分したものにあたります。だから第1回の「温度=エネルギーとビットの両替レート」は文字どおりでした。
そして \(\beta\) を主役にすると、無限大の温度はただの \(\beta=0\) になり、負の温度もその向こう側として自然につながります。温度に壁があるように見えるのは、逆数で書いているせいの錯覚です。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では玉のやりとりが動き続け、ヒストグラムが指数分布に落ち着きます。「全部を 1 箱に集める」でリセット、縦軸を対数にすると直線になります。「答えを見る」で解答が開きます。