中性子の寿命 880 秒は、神様がサイコロを振っている時間ではない ── 質量を複素数にすると、崩壊が出てくる
自由な中性子はおよそ 880 秒で陽子・電子・反ニュートリノに崩壊します。教科書は「単位時間あたり一定の確率で崩壊する」と書き、そこから指数関数則 \(N(t)=N_0e^{-t/\tau}\) を出す。まるで各中性子が毎秒サイコロを振っているかのように。でも、量子力学に「サイコロを振る」という項はどこにも書かれていません。あるのは、位相の回転だけです。実は、中性子の質量をほんの少し複素数にする ── \(m\to m-i\Gamma/2\) ── だけで、指数関数的崩壊は自動的に出てきます。つまり崩壊とは、追いかけていた位相が複素平面の側へ逃げていくこと。ではなぜ「行って戻る」振動ではなく「戻らない」崩壊になるのか。答えは行き先が離散か連続かで、そこに第1回の粗視化がもう一度顔を出します。
放射性崩壊の指数関数則は、確率的な描像とあまりに相性がよく、ふつうこう説明されます ── 「各粒子は記憶を持たず、毎秒 \(1/\tau\) の確率で崩壊する。だから残る数は指数関数で減る」。生き残った中性子は、生まれたてと区別がつかない(無記憶性)。これは実験とよく合います。
ところが量子力学の基本方程式(シュレディンガー方程式)は、完全に決定論的です。状態は \(e^{-iEt/\hbar}\) という位相の回転で時間発展するだけで、確率が顔を出すのは測定のときだけ。ではなぜ、誰も測っていないのに中性子は「勝手に」崩壊するのか。
崩壊しない粒子の時間発展は、位相が一定の速さで回るだけです:\(e^{-imc^2t/\hbar}\)。ここで質量にほんの小さな虚部を足してみます。
振幅の 2 乗が確率なので、生存確率は \(P(t)=e^{-\Gamma t/\hbar}=e^{-t/\tau}\)。指数関数則が、サイコロを一度も振らずに出てきました。\(\Gamma\) を崩壊幅といい、寿命との関係は \(\Gamma=\hbar/\tau\)。これはウィグナー–ワイスコップの近似と呼ばれる、標準的な扱いです。
\(\hbar=6.58\times10^{-16}\ \mathrm{eV\cdot s}\)、\(\tau\approx 879\ \mathrm{s}\) を入れると
$$\Gamma=\frac{\hbar}{\tau}=\frac{6.58\times10^{-16}}{879}\approx 7.5\times10^{-19}\ \mathrm{eV}$$中性子の質量エネルギーは 939 MeV = \(9.4\times10^{8}\) eV ですから、虚部は実部の \(10^{-27}\) 倍。ほんのわずかに複素数にしただけで、880 秒の寿命が出る。崩壊とは、質量のごく小さな虚部のことです。
「どちらの言い方でも同じでは?」と思うかもしれません。ところが両者は観測できる形で違います。純粋な確率過程なら生存確率はどこまでも厳密に指数関数のはずですが、量子力学の答えは指数関数から二か所でずれます。
崩壊し始めの瞬間、生存確率は $$P(t)\approx 1-\left(\frac{\Delta E\,t}{\hbar}\right)^2$$ と2 次関数で減ります(指数関数なら \(1-t/\tau\) の 1 次のはず)。2 次ということは、\(t\to0\) で減り方の傾きがゼロ ── だから頻繁に測定して時計を巻き戻し続けると、崩壊が止まる。これが量子ゼノン効果で、1990 年にイオントラップの実験(Itano ら)で確認されています。確率のサイコロなら、見ていようがいまいが結果は変わらないはずです。
寿命の何十倍もあとでは、生存確率は指数関数から外れてべき関数の裾に移ることが理論的に示されています(ハルフィンの定理)。理由は、エネルギーが下限を持つ(下は空っぽ)から。純粋な確率過程には、こんな理由はありません。実験で捕まえるのは非常に難しく、報告例はごく少数です。
短時間の \(t^2\) は、まさに位相がずれ始めている段階そのものです。まだ振幅は「どこへ行くか決めかねて」いて、揃った位相のまま少し漏れているだけ。指数関数則が現れるのは、そのあと ── 位相がバラバラになってからです。指数関数則は基本法則ではなく、粗視化の結果として出てくる。第1回と同じ構図です。
ここが本題です。同じ「位相の漏れ」なのに、世界には二種類の振る舞いがあります。
| 振動(行って戻る) | 崩壊(戻らない) | |
|---|---|---|
| 例 | ニュートリノ振動、K中間子の混合 | 中性子崩壊、原子の発光 |
| 行き先の状態 | 離散(数えられる個数) | 連続(無限に密なスペクトル) |
| エネルギー | ほぼ縮退(差がごく小さい) | 大きく解放(中性子なら Q=782 keV) |
| 振る舞い | 周期的・可逆 | 指数関数的・不可逆 |
| 位相は | 揃ったまま回る | バラけて二度と揃わない |
中性子の行き先は 3 体の連続スペクトルです。陽子・電子・反ニュートリノがエネルギーを好きな比率で分け合えるので、行き先の状態は連続無限にある。しかも 782 keV のエネルギーを持って飛び去っていく。だから位相はバラバラになり、二度と揃わない。もし行き先が離散の 1 準位しかなく、しかもエネルギーが一致していたら、中性子は p+e+ν̄ と行ったり来たりして振動したはずです。
「中性子か、p+e+ν̄ か、区別がつかなくなる時間」はいくつか。それは行き先のエネルギー幅 \(Q\) で決まります:
$$t_{\text{区別}}\sim\frac{\hbar}{Q}=\frac{6.58\times10^{-16}\ \mathrm{eV\cdot s}}{7.82\times10^{5}\ \mathrm{eV}}\approx 8\times10^{-22}\ \mathrm{s}$$一方、崩壊寿命は 879 秒。比は 10²⁴。つまり「重ね合わせが壊れる時間」のほうが「崩壊する時間」より 24 桁も短い。1 周期回るはるか手前で行き先が逃げてしまうので、振動にならず指数関数的崩壊になる。この 24 桁が、振動と崩壊を分けている。
下の図は、1 個の始状態(中性子)が \(M\) 個の行き先(終状態)につながっている、という最小のモデルをその場で解いたものです。結合の強さは、崩壊率が同じになるように自動調整してあります。動かすのは行き先の数 \(M\) だけ。
\(M=1\)(行き先が 1 個)から始めてください ── 生存確率はきれいに 0 と 1 を往復します。これが振動。スライダーで \(M\) を増やしていくと、往復が乱れ、やがてなめらかな指数関数に化けます。これが崩壊。基本方程式は最初から最後まで同じユニタリな位相回転で、サイコロは一度も振っていません。変えたのは行き先の数だけです。
注目してほしいのは「戻り」の山です。\(M\) が小さいと、いったん減った生存確率がまた盛り返す(=位相が揃い直す=情報が戻る)。\(M\) を増やすと、この再帰の時刻はどんどん右へ逃げていきます。現実の中性子では行き先が連続無限にあるので、再帰時刻は事実上無限の彼方。だから戻ってこない。不可逆性とは、再帰時刻が観測時間より長いこと、それだけです。第1回でコーヒーとミルクが分離しなかったのと、まったく同じ理屈になっています。
この「崩壊=振幅がどこへ漏れるか」という見方は、実験の謎をきれいに定式化してくれます。中性子の寿命は 2 通りの方法で測られていて、値が合いません。
| 手法 | 数えるもの | 測っているのは | 値 |
|---|---|---|---|
| ボトル法(超低速中性子を閉じ込め、生き残りを数える) | 残った中性子 | 全崩壊幅 Γ全=中性子が消える速さ | 877.8 ± 0.3 秒 |
| ビーム法(飛行中の中性子から出る陽子を数える) | 生まれた陽子 | 部分幅 Γp=陽子が生まれる速さ | 888 ± 2 秒 |
差は約 10 秒、割合にして 1% ほど。しかも符号が意味深です ── 消える中性子のほうが、生まれる陽子より多い。素直に読むと「1% ほどの中性子は、陽子を作らない何かになっている」。漏れ口がもう一つある、ということです。
ボトル(閉じ込め・磁場あり・低速)とビーム(自由飛行)は環境が全然違います。位相の回り方が環境で変わるのでは? 基準は行き先のエネルギー幅 \(Q=782\) keV です。
| 効果 | エネルギーへの影響 | Q との比 |
|---|---|---|
| 超低速中性子の閉じ込め(〜100 neV) | 10⁻⁷ eV | 10⁻¹³ |
| 磁気トラップの磁場 1 T(μnB) | 6×10⁻⁸ eV | 10⁻¹³ |
| 飛行による時間の遅れ(数百 m/s) | — | 10⁻¹² |
| 地表の重力赤方偏移 | — | 10⁻¹⁶ |
最大でも 10⁻¹³。説明したい差は 10⁻² ── 11 桁足りません。崩壊率は MeV スケールの位相空間で決まっているので、neV スケールの環境をいじってもびくともしない。実際、磁気トラップ実験では磁場・トラップの大きさ・保持時間を変えても寿命は動きませんでした。この方向は理論でも実験でも潰れています。
では何か。生き残っている説明は二系統です。
① 未知の漏れ口(新物理)。 たとえば \(n\to\chi+\gamma\) のようなダーク崩壊(分岐比 1% ほど)。あるいは、この回の主題そのままの説明として、中性子が鏡像世界の粒子 \(n'\) とごくわずかに混合して振動する(ミラー中性子)── ボトルでは「消えた」と数えられ、ビームは陽子だけ見ているので影響を受けにくい。符号も大きさも合います。ただしダーク崩壊は中性子星の観測(そんな漏れ口があると最大質量が \(0.7\,M_\odot\) 程度に落ち、実在する \(2\,M_\odot\) の中性子星と矛盾する)から強く制約され、ミラー中性子も探索でパラメータ空間の大部分が排除されています。
② ビーム法の系統誤差。 こちらが現在の大勢です。ボトル法は材質ボトル・壁のない磁気トラップなど原理の違う複数方式が互いに一致している一方、ビーム法は絶対中性子束の較正と陽子の捕集効率という、1% の誤差が入りうる箇所を抱えています。より高精度のビーム実験が決着をつけると期待されています。
確立していること:崩壊が振幅のユニタリな時間発展から出ること、ウィグナー–ワイスコップ近似で複素エネルギー \(E-i\Gamma/2\) が指数関数則を与えること、\(\Gamma=\hbar/\tau\)、短時間の 2 次的振る舞いと量子ゼノン効果(実験で確認済み)、超長時間のべき則的裾(ハルフィンの定理、実験的検証は限定的)、離散終状態ならラビ振動・連続終状態なら不可逆崩壊になること(フリードリクス模型/フェルミの黄金律)、CKM 混合 \(|V_{ud}|\approx0.974\)、中性子寿命のボトル法とビーム法の食い違い(約 4σ)、および環境効果が桁で足りないこと。
仮説・未決着:寿命問題の原因は決着していません。ダーク崩壊・ミラー中性子振動などの新物理は魅力的ですが、中性子星の質量や直接探索から強く制約されており、現在の主流はビーム法の未同定の系統誤差だと見ています。本文の実験値は本稿執筆時点の代表値で、最新の測定・再解析で更新されうることに注意してください。また「複素質量」は厳密解ではなく近似で、崩壊が本当に厳密な指数関数だと主張しているわけではない ── むしろ厳密でないことが、確率描像ではなく振幅描像が正しい証拠でした。
質量を \(m-i\Gamma/2c^2\) とほんの少し複素数にするだけで、指数関数的崩壊が出てくる ── サイコロは要らない。中性子なら虚部は実部の \(10^{-27}\) 倍で、それが 880 秒になる。確率描像ではなく振幅描像が正しい証拠は二つ:短時間の \(t^2\) 的振る舞い(量子ゼノン効果、実験で確認済み)と、超長時間のべき則的裾。指数関数則は基本法則ではなく、粗視化の結果です。
そして振動と崩壊を分けるのは行き先が離散か連続か。中性子の場合、「n か p+e+ν̄ か区別がつかなくなる時間」は \(\hbar/Q\approx8\times10^{-22}\) 秒で、寿命 879 秒より 24 桁短い。だから 1 周期も回れずに崩壊になる。不可逆性の正体は「再帰時刻が観測時間より長いこと」── コーヒーとミルクとまったく同じです。ボトル法とビーム法の 1% の食い違いも、この枠組みでは「全幅 vs 部分幅」=漏れ口がもう一つあるかという形にきれいに定式化されます(原因は未決着)。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーで行き先の数 M を変えると、振動が指数関数的崩壊に変わります。ボタンで縦軸を対数に切り替えられます。「答えを見る」で解答が開きます。