電子は二つの穴を同時に通れるのに、なぜ猫は通れないのか ── 位相は消えていない。環境に薄まっただけだ
量子力学のいちばん有名な居心地の悪さは、「電子は二つの穴を同時に通れるのに、机も猫も月もそうならない」という点です。どこかに境界があるはずですが、方程式にはそんな境界は書かれていない。答えは、境界などなく連続的に効きが変わる、というものです ── そして効き方は系の大きさに比例して爆発的に速くなる。重要なのは、位相が消えるのではないこと。位相は環境の膨大な自由度のなかに薄まるだけで、原理的には保存されている。ただし薄まった位相を追いかけるコストが天文学的になるので、私たちは第1回と同じことをする ── 捨てて、確率で書く。「大きく見れば確率で計算しても同じ」は、こうして時刻の計算できる定理になります。
まず事実から。「量子は小さいものだけ」という常識は、実験によって毎年更新されています。
| 系 | 規模 | 確認されたこと |
|---|---|---|
| 電子・中性子 | 1 個 | 干渉(教科書どおり) |
| C60(サッカーボール分子) | 60 原子 | 二重スリット干渉(1999年) |
| 巨大有機分子 | 約 2000 原子(25,000 amu) | 物質波干渉(2019年) |
| 超伝導リングの電流状態 | 約 10¹⁰ 電子 | 時計回りと反時計回りの重ね合わせ |
| アルミ製の微小ドラム 2 枚 | 約 10¹³ 原子 | 機械振動子どうしのもつれ(2021年) |
| 重力波望遠鏡 LIGO の鏡 | 40 kg(有効質量 10 kg) | 運動の量子基底状態の近くまで冷却(2021年) |
つまり「大きいと量子でなくなる」という壁はありません。あるのは、大きいほど維持が難しくなるという連続的な傾向だけ。では何が難しくしているのか。
干渉縞が現れるのは、二つの経路の位相差が定まっているときだけです。位相差が経路ごとにバラバラだと、縞は足し合わされて平らになります。
ここで決定的な事実 ── 環境が「どちらの経路を通ったか」を知ってしまうと、干渉は消えます。人間が読み取る必要はありません。空気分子が 1 個ぶつかって跳ね返り、その跳ね返り方に経路の情報が乗るだけで十分。情報が外に出た時点で、系だけを見ているかぎり縞は消える。
対角成分(「左を通った確率」「右を通った確率」)は変わりません。減るのは非対角成分だけ。そしてそこにしか干渉は住んでいない。非対角がゼロになると、行列は「左か右か、どちらかだった」というただの確率表と区別がつかなくなる ── これがデコヒーレンスです。「確率として計算しても同じ」になる瞬間が、数式の上ではっきり書ける。
環境からの「小突き」1 回ごとに位相情報が少しずつ漏れます。だから漏れる速さは、単位時間あたり何回小突かれるかで決まる。大きい物体は表面積が大きく、たくさん小突かれる。数を入れてみましょう。
空気分子の数密度 \(n\approx2.5\times10^{25}\ \mathrm{m^{-3}}\)、平均速さ \(v\approx500\ \mathrm{m/s}\)、塵の断面積 \(\sigma=\pi r^2=\pi(0.5\times10^{-6})^2\approx8\times10^{-13}\ \mathrm{m^2}\)。衝突の回数は
$$\text{衝突率}=n\,v\,\sigma\approx (2.5\times10^{25})(500)(8\times10^{-13})\approx 1\times10^{16}\ \text{回/秒}$$1 秒に 1 京回。塵が 1 μm 離れた二か所の重ね合わせにいたとして、1 回の衝突で「どちらか」がほぼ判別できるので、コヒーレンスは 10⁻¹⁶ 秒のオーダーで死にます。人間が観測するどころではありません。だから塵は、いつでもどこかにある。
実験室の高真空(\(10^{-5}\) Pa 程度)まで引くと \(n\) が \(10^{10}\) 分の 1 になるので衝突率は \(10^{6}\) 回/秒 ── コヒーレンス時間はマイクロ秒台まで伸びる。分子干渉実験が「真空を引く」ことに命を懸ける理由がこれです。そして完全な真空にしても、宇宙背景放射の光子(数密度 \(4\times10^{8}\ \mathrm{m^{-3}}\))が残るので、ゼロにはできません。
ここから、この回の芯が出ます。系を大きくすると ── ① 断面積が増えて小突かれる回数が増え、② 重ね合わせた二状態の「見分けやすさ」も増える。どちらも同じ向きに効くので、デコヒーレンス率は系のサイズとともに一方的に増える。第1回の \(1/\sqrt{N}\) は「大きいほどマクロ量が鋭くなる」でしたが、こちらは「大きいほど量子性が速く消える」。古典世界が古典に見える理由は、この二本立てです。
下の図の左は干渉縞、右は前節の \(2\times2\) 行列 \(\rho\)(明るいほど成分が大きい)。スライダーで飛ばす物体の大きさ(原子数 \(N\))を変えてください。
見てほしいのは対角と非対角の運命が違うことです。\(N\) を増やしても左上と右下(=「左を通った」「右を通った」の確率)はまったく変わりません。消えるのは右上と左下だけ。そして縞が消える。確率は無傷で、干渉だけが死ぬ ── これが「大きく見たら確率で計算しても同じ」の正体です。
「エコーで位相を戻す」ボタンにも触れてみてください。環境に漏れた位相を途中で反転させて呼び戻す操作(スピンエコーや量子回路の巻き戻し)です。実際の実験でこれができるという事実が、位相は破壊されたのではなく預けられているだけだという何よりの証拠になっています。もし宇宙が本当に情報を捨てていたら、エコーは戻ってきません。
ここで、自然な疑問が湧きます ── 「デコヒーレンスなんて回りくどい説明をせずに、大きくなったら重ね合わせが勝手に壊れるという法則を書けばいいのでは?」。
実は、それを書いた人たちがいます。自発的収縮モデルと呼ばれる理論群です。
1 粒子あたり毎秒 \(\lambda\sim10^{-16}\) の確率で、波動関数が勝手に一点に収縮する。1 個なら 1 億年に 1 回で誰も気づかないが、\(10^{23}\) 個が結びついた物体では毎秒 \(10^{7}\) 回起きる ── 小さいものは量子、大きいものは自動的に古典。ペンローズ–ディオシのモデルはさらに踏み込み、収縮を起こすのは重力だとする(二つの異なる時空の重ね合わせは維持できず、\(\tau\sim\hbar/E_G\) で壊れる)。
この発想は魅力的で、しかも反証可能です。自発収縮は粒子を微妙に揺さぶるので、余計な熱や放射が出るはず ── そこを実験で狙い撃ちできる。そして実際に:
つまり「宇宙は大きいものについて計算をサボる」は、詩ではなく検証可能な物理仮説であり、今のところ分が悪い側です。デコヒーレンスのほうは、新しい法則を一つも足さずに同じ現象を説明します ── ただし、次の但し書きつきで。
確立していること:環境との相互作用が密度行列の非対角成分を指数関数的に抑制すること、その率が系のサイズ・重ね合わせの空間的隔たり・環境の密度とともに増大すること、これが実験で定量的に確認されていること(分子干渉計での制御されたデコヒーレンス、空洞QEDでの猫状態の崩壊の観測など)、スピンエコー等で部分的にコヒーレンスを回復できること、そして上の実験記録(分子干渉 25,000 amu 級、機械振動子のもつれ、LIGO 鏡の基底状態近傍冷却)。桁の見積もりは標準的な散乱デコヒーレンスの評価です。
解けていないこと:デコヒーレンスは「なぜ干渉が見えなくなるか」は完璧に説明しますが、「なぜ結果が一つに決まるのか」は説明しません。非対角が消えた密度行列は「左か右かのどちらかだった確率表」と区別がつかない、というところまでで、そこから先(実際に一つが起きること)は解釈の問題として残っています ── 多世界、ボーム、収縮理論などが競合中で、決着していません。本文の「位相は環境に預けられている」という言い方はユニタリな時間発展が全体として続くという標準的立場に立ったもので、自発収縮が正しければ位相は本当に失われます。そちらが実験で削られつつある、というのが現状です。また図はサイズ依存性を示すための桁合わせの模型で、特定の実験を再現したものではありません。
「電子は量子で猫は古典」の境界は存在せず、あるのは連続的な傾向だけ ── 分子 2000 原子、超伝導リング 10¹⁰ 電子、ドラム 10¹³ 原子、LIGO の鏡 40 kg と、記録は毎年更新されています。干渉が消えるのは、環境が「どちらの経路か」を知ったとき。数式では密度行列の非対角成分だけが \(e^{-\Lambda t}\) で消え、対角成分(確率)は無傷。だから「確率として計算しても同じ」になる瞬間が、はっきり書けます。
速さは桁で出せます ── 空気中の 1 μm の塵は毎秒 \(10^{16}\) 回小突かれ、コヒーレンスは \(10^{-16}\) 秒で死ぬ。系が大きいほど断面積も見分けやすさも増えるので、大きいほど速く古典になる。ただし位相は破壊されていません ── エコーで呼び戻せるのが証拠です。デコヒーレンスとは、量子力学における粗視化そのもの。宇宙がサボったのではなく、私たちが追跡を諦めた。「宇宙が本当にサボる」版(GRW/CSL、ペンローズ–ディオシ)は検証可能な仮説として存在し、そして削られつつあります。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーで物体の大きさを変えると干渉縞が消え、密度行列の非対角成分だけが暗くなります。「エコーで位相を戻す」で回復の様子が見られます。「答えを見る」で解答が開きます。