粗視化できることと、粗視化して面白いことが起きることは、別の話だ
第1回で「エントロピーは増える=捨てた情報は勝手に戻らない」と書きました。しかし、じつはあの説明には穴があります。ミクロの法則は時間反転に対して完全に対称 ── ビデオを逆再生しても、方程式はまったく文句を言いません。それなのに、なぜ現実には片方向にしか進まないのか。粗視化だけからは、時間の矢は出てこないのです。もう一枚、カードが要る ── それが宇宙は極端に低いエントロピーで始まったという仮定(過去仮説)です。そしてどれくらい極端かというと、ペンローズの見積もりで \(1/10^{10^{123}}\)。この番外編は、シリーズ本編がずっと使ってきた「捨てても同じ」の足元に、実はもう一つの巨大な仮定が置かれていることを確認する回です。
ボルツマンは、粗視化からエントロピー増大を導こうとしました(H 定理)。しかしすぐに、二つの強烈な反論を受けます。
| 反論 | 内容 | 効き目 |
|---|---|---|
| ロシュミットの逆転 | すべての粒子の速度を反転させれば、系はエントロピーが減る方向に走る。法則が時間対称である以上、この解も同じくらい正当 | 「増える」を法則から導くのは不可能 |
| ツェルメロの再帰 | 有限の系は、十分待てば必ず初期状態のごく近くに戻る(ポアンカレの再帰定理) | 永遠に増え続けることは、原理的にありえない |
どちらも正しい。ボルツマンの答えは正直なものでした ── エントロピーが増えるのは法則のせいではなく、いま低いからである。低い状態から出発すれば、行き先は圧倒的に高い状態しかない(数が違いすぎる)。だから増える。逆転させた解も再帰する解も存在はするが、とてつもなく珍しいだけ。
しかしこれは、問いを一段ずらしただけです。ではなぜ、いま低いのか? 昨日はもっと低かったから。ではなぜ昨日は? ── この鎖をさかのぼると、宇宙の始まりに突き当たります。
下の箱で、実際に確かめられます。粒子は壁で跳ね返るだけで、法則は完全に時間対称です。
三つ目が肝心です。同じ法則・同じ粗視化でも、初期条件が特殊でなければ時間の矢は生まれない。矢は法則の性質ではなく、初期条件の性質なのです。
では、宇宙の初期条件はどれくらい珍しかったのか。ペンローズの有名な見積もりを追ってみます。
観測可能な宇宙にある物質を全部かき集めて、一つの巨大なブラックホールにしたときのエントロピーは(ベッケンシュタイン–ホーキングの式から)
$$S_{\max}\sim 10^{123}\,k_B$$これが「この宇宙が取りうる最大のエントロピー」です。いっぽう初期宇宙の実際のエントロピーは、光子の数などから \(10^{88}\,k_B\) 程度。第1回の \(S=k\log W\) を逆に解くと、状態の数は \(W=e^{S/k}\) なので、
$$\frac{W_{\text{初期}}}{W_{\max}}\sim\frac{e^{10^{88}}}{e^{10^{123}}}\ \approx\ \frac{1}{10^{10^{123}}}$$分母は「1 のあとに 0 が \(10^{123}\) 個」。この数を紙に書こうとすると、宇宙のすべての素粒子に 1 桁ずつ割り当てても足りません。ペンローズはこれを「創造主は位相空間の中の \(1/10^{10^{123}}\) の的を射抜かねばならなかった」と表現しました。
ここで直観に反することが起きます。初期宇宙の写真(宇宙マイクロ波背景放射)は、ほとんど完全に一様です。ふつう「一様に混ざっている」といえば高エントロピー ── コーヒーとミルクが混ざった状態です。なのに、なぜこれが「異常に低いエントロピー」なのか?
| 低エントロピー | 高エントロピー | |
|---|---|---|
| 気体(重力なし) | 片隅に集まっている | 一様に広がっている |
| 重力のある物質 | 一様に広がっている | 塊に集まっている(究極はブラックホール) |
重力は引力しかないので、集まるほど「もっともらしい」=配置の数が多い。だから重力にとっては、一様こそが異常な状態です。初期宇宙が一様だったのは、重力の自由度がまったく励起されていなかったということ ── ペンローズはこれをワイル曲率仮説(初期宇宙ではワイル曲率=重力そのものの自由度がゼロだった)として定式化しました。宇宙の歴史とは、この一様な状態から星や銀河やブラックホールへ向かって、重力がゆっくりエントロピーを食べていく過程です。私たちが太陽から受け取っているのも、熱ではなく「低エントロピー」のほうです。
ここが番外編①のいちばん大事な点です。粗視化ができるだけでは、世界は面白くなりません。
もし宇宙が最初から熱平衡で始まっていたら ── 粗視化は完璧に効きます。どこを見ても同じ温度、同じ密度。マクロ変数はたった数個で足り、予測は 100% 当たる。そして、何も起きない。構造も、層も、化学も、生命も、観測者もない。
繰り込み群は「捨てても同じ」を保証してくれますが、何かが起きることは保証してくれません。世界に層があり、そこで面白いことが起きているのは、宇宙が \(10^{123}\) ビットぶんの余白を持って始まり、いまもそれを使い切っていないからです。私たちは、その余白の中に住んでいる。
確立していること:ミクロの力学法則が(CP 対称性の破れという小さな例外を除いて)時間反転に対して対称であること、そこからロシュミットの逆転パラドックスとツェルメロの再帰パラドックスが従うこと、したがって熱力学第二法則は力学法則のみからは導けないこと、重力多体系では一様状態が低エントロピーで集中状態が高エントロピーであること(重力系の負の比熱)、ブラックホールのエントロピーが面積に比例すること、そして観測可能宇宙の最大エントロピーの見積もりが \(\sim10^{123}k_B\) であることは、いずれも確立した物理・標準的理解です。
未解決・議論中:① 過去仮説そのものは説明ではなく、置いた仮定です。「なぜ初期条件がそうだったのか」には答えていません。② インフレーション理論が低エントロピー初期条件を説明するという主張がありますが、「インフレーションが始まるためにすでに低エントロピーが必要ではないか」という批判が根強くあり、決着していません。③ ワイル曲率仮説はペンローズの提案であって、確立した法則ではありません。④ ペンローズの \(10^{10^{123}}\) は特定の見積もりの取り方に依存する数字で、桁の感覚をつかむためのものと理解してください。⑤ そもそも「宇宙全体のエントロピー」を定義できるのか(重力場のエントロピーをどう数えるか、系が孤立していないのでは)という点自体、物理と哲学の両面で議論が続いています。 ── この回は「本編の足元にもう一つ巨大な仮定がある」という確認であって、それを解決するものではありません。
ミクロの法則は時間反転対称なので、粗視化だけからは第二法則は出ません(ロシュミットの逆転、ツェルメロの再帰)。エントロピーが増えるのは「いまが低いから」であり、その鎖をさかのぼると宇宙の始まりに突き当たる ── これが過去仮説です。必要な特殊さは、ペンローズの見積もりで \(1/10^{10^{123}}\)。しかも重力があると話は逆さで、一様であることこそが低エントロピー(ワイル曲率仮説)。宇宙の歴史とは、その余白を重力がゆっくり食べていく過程です。
そして本編との接続。粗視化可能 + 特殊な初期条件 = 階層・構造・時間の矢。繰り込み群は「捨てても同じ」を保証しますが、「何かが起きること」は保証しません。熱平衡から始まった宇宙では粗視化は完璧に効き、そして何も起こらない。私たちが層のある面白い世界に住んでいるのは、宇宙が \(10^{123}\) ビットの余白を持って始まり、まだ使い切っていないからです。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では「左半分から始める」「時間を反転する」「平衡から始める」で、時間の矢が初期条件から来ていることが確かめられます。「答えを見る」で解答が開きます。