「捨ててよい」が成り立たない場所を数える ── 主張の中身は、例外を数えたときにはじめて決まる
ここまで 4 回、ずっと「捨ててよい」と言ってきました。でも、いつでも捨ててよいなら、それは主張ではなくただのお題目です。主張の中身は、捨ててはいけない場所を数えたときにはじめて決まります。粗視化が破れるのは大きく 3 通り ── ① 全スケールが結合してしまう(臨界点)、② エネルギーがスケール間を流れ落ちる(乱流)、③ ミクロがマクロへ増幅される(カオス)。とくに ③ は絶望的で、初期値の精度を 1000 倍にしても予測できる期間は少ししか伸びません。精度が指数の中に閉じ込められていて、対数でしか効かないからです。そして破れ方には速度の上限があり、その上限ぎりぎりで走っているのがブラックホールだ、という話まで行きます。
| 型 | 何が起きるか | 代表例 | 粗視化はどう失敗するか |
|---|---|---|---|
| ① スケールが結合する | 相関長が発散し、あらゆる大きさの構造が同時に効く | 臨界点、相転移 | 「小さい方を捨てる」ができない(切り離せる小ささが存在しない) |
| ② エネルギーがスケール間を流れる | 大きな渦が小さな渦に砕け、小さな渦が熱になる(カスケード) | 乱流 | マクロ量の方程式が閉じない(捨てた項が本質的に効く) |
| ③ ミクロがマクロに増幅される | 初期条件の微差が指数関数的に拡大 | カオス、天気、三体問題、生命 | 捨てた \(10^{-15}\) が、有限時間後に \(10^{0}\) になって戻ってくる |
共通しているのは、第1回で挙げた条件のうち「スケールが分離していること」が壊れている点です。粗視化が効くのは、ミクロとマクロが桁で離れていて会話しないときだけ。会話が始まると、捨てたものが戻ってきます。
カオスとは、近い 2 つの初期条件が指数関数的に離れていく性質です。距離を \(\delta\) とすると \(\delta(t)\approx\varepsilon\,e^{\lambda t}\)。この \(\lambda\) をリアプノフ指数といいます。
ここで「予測できる」の定義を、「差が実用上の許容 \(\Delta\) を超えるまで」としましょう。すると:
\(\varepsilon\) は初期条件の精度。ここに \(\ln\) が入っているのが致命的です。観測精度を 1000 倍よくしても、伸びるのは \(\ln 1000/\lambda\approx 6.9/\lambda\) だけ ── リアプノフ時間の 7 倍ぶんしか伸びない。100 万倍にしても 14 倍ぶん。努力が対数に潰される。
大気のリアプノフ時間はおよそ 1〜2 日(\(\lambda\sim0.5\ \mathrm{day^{-1}}\))。現在の初期値の誤差を、観測網を桁違いに増やして 1000 分の 1 にできたとしましょう。伸びる予測期間は
$$\Delta t=\frac{\ln 1000}{\lambda}=\frac{6.9}{0.5\ \mathrm{day^{-1}}}\approx 14\ \text{日}$$1000 倍の観測努力に対して、たった 2 週間。これが「決定論的予測の限界は 2 週間ほど」と言われる理由です。観測衛星を 1000 倍打ち上げても、1 か月先の天気は当たらない。粗視化の失敗が、対数という形で人類の努力を吸収してしまう。
下の図は、いちばん簡単なカオス系(ロジスティック写像 \(x\to 4x(1-x)\))で、ほんの少しだけ違う 2 つの初期値を並走させたものです。縦軸は 2 本の差を対数で見ています。
スライダーで初期差 \(\varepsilon\) を小さくしてください。差の曲線が右へ平行移動するだけで、傾きは変わりません ── これが「予測可能時間は \(\ln(1/\varepsilon)\) でしか伸びない」ことの目に見える意味です。「精度を 1000 倍にする」ボタンを押すと、莫大な観測努力に見合う伸びが、たった約 10 ステップであることが実感できます。
もう一つの破れ方は、スケールどうしがエネルギーをやり取りする場合です。乱流では、大きな渦が小さな渦に砕け、それがさらに小さな渦になり、最後は分子の熱になる(エネルギーカスケード)。すべてのスケールが同時に、しかも一方向に、つながっている。
レイノルズ数 \(\mathrm{Re}\) の流れを直接計算するのに必要な格子点の数は、コルモゴロフのスケーリングから
$$N\sim \mathrm{Re}^{9/4}$$旅客機まわりなら \(\mathrm{Re}\sim10^{7}\)。すると \(N\sim10^{15.75}\approx 6\times10^{15}\) 点。1 点あたり数個の数を持たせ、時間発展も刻むと ── 現代最速のスパコンでも歯が立ちません。だから工学では乱流モデル(=粗視化した近似)を使いますが、そのモデルは厳密ではなく、経験的な当てはめを含みます。粗視化が破れているところを、無理やり粗視化しているからです。ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさが 100 万ドルのミレニアム懸賞問題として残っているのも、根はここにあります。
ここで、破れが必ずしも敗北ではないことを言っておきます。第4回で主役だった臨界点も、じつは粗視化の破れです ── 相関長が発散して、小さいスケールを切り離せなくなる。
ところが臨界点では、失われたスケール分離の代わりにスケール不変性という別の秩序が現れます。「どの倍率でも同じ」という新しい対称性です。だから絶望せずに済み、繰り込み群という道具で扱える。粗視化ができない代わりに、粗視化しても変わらない。
カオスの速さ \(\lambda\) には、上限があります。2016 年に示されたこの結果は、この回でいちばん美しい定理です。
温度 \(T\) の量子系では、初期条件の情報がこれより速くはかき混ぜられない(マルダセナ–シェンカー–スタンフォード限界)。そしてこの上限をぴったり達成しているのがブラックホールです ── だからブラックホールは「自然界で最速のスクランブラー」と呼ばれます。落とし込んだ情報が地平面全体に行き渡るまでの時間は $$t_*\sim\frac{\beta}{2\pi}\ln S$$ で、エントロピー \(S\)(=ビット数)の対数でしか増えない ── 途方もなく速い。
ここで \(\ln\) がまた出てきたことに注目してください。カオスの予測可能時間も対数、ブラックホールのスクランブリング時間も対数。情報がかき混ざるときは、いつも指数関数と対数が対になって現れます。姉妹編「わかるブラックホール」第4回は、まさにこの話をブラックホールの側から書いたものです。
確立していること:カオス系での指数関数的な軌道分離と \(t_{\text{pred}}=\lambda^{-1}\ln(\Delta/\varepsilon)\)、大気の予測可能限界が 2 週間程度であること、コルモゴロフ理論に基づく直接数値計算の自由度が \(\mathrm{Re}^{9/4}\) で増えること、臨界点での相関長発散とスケール不変性、量子カオスの速さの上限 \(\lambda\le2\pi k_BT/\hbar\)(マルダセナ–シェンカー–スタンフォード 2016)、ブラックホールのスクランブリング時間が \(\sim(\beta/2\pi)\ln S\) でこの上限を飽和すること(速いスクランブラー予想、Sekino–Susskind)は、いずれも確立した理論的結果または標準的理解です。
注意点:① 「破れ方は 3 通り」という分類は説明のための整理で、公式の分類ではありません(実際には重なり合います ── 乱流はカオスでもあり、臨界点近傍にもカオスは現れます)。② 乱流は未解決問題です。コルモゴロフ則は間欠性による補正を受け、ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさはミレニアム問題として未解決のままです。③ ブラックホールが上限を飽和するという主張は、AdS/CFT など具体的な模型での計算と予想に基づくもので、現実のブラックホールでの直接検証はありません。④ 図はロジスティック写像という理想化された 1 次元写像で、実際の気象や乱流の再現ではありません(本質である「対数でしか伸びない」を見せるための実演です)。
粗視化が破れるのは 3 通り ── 臨界点(相関長が発散して全スケールが結合)、乱流(エネルギーがスケール間を流れ、飛行機まわりの直接計算には \(\mathrm{Re}^{9/4}\approx10^{16}\) 格子点が要る)、カオス(ミクロが指数関数的にマクロへ増幅)。共通して壊れているのは「スケールが会話しない」という前提です。
とくにカオスの破れ方は容赦がなく、予測可能時間は \(t_{\text{pred}}=\lambda^{-1}\ln(\Delta/\varepsilon)\) ── 精度が対数の中に閉じ込められるので、観測を 1000 倍にしてもリアプノフ時間の 7 倍しか伸びない。天気予報の 2 週間の壁の正体です。ただし破れは敗北とは限らず、臨界点ではスケール不変性という別の秩序が現れ(第4回)、カオスでも粗視化のレベルを一段上げれば統計は語れる(天気 vs 気候)。そして破れる速さには上限 \(\lambda\le2\pi k_BT/\hbar\) があり、それを飽和しているのがブラックホール── 情報がかき混ざるときは、いつも指数関数と対数が対で現れます。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーで初期差 ε を変えると、差の曲線が平行移動するだけで傾きは変わりません。「精度を 1000 倍にする」で、努力がどれだけ対数に潰されるかが見られます。「答えを見る」で解答が開きます。