わかる繰り込み第 6 回 / 漏れている二か所

現代物理最大の二つの謎は、じつはまったく同じ形をしている ── 粗視化が、ここだけ効かない

漏れている二か所 階層問題と、宇宙定数問題。
10⁻³⁴ と 10⁻¹²⁰ の桁合わせを要求してくるこの二つは、
標準模型で唯一 relevant な演算子がちょうど二つしかないことの、そのまま裏返しだ。

必要な道具:第4回の relevant / irrelevant、桁の感覚、指数 この回の芯:relevant な演算子は、上の階を遮断できない

第4回で、粗視化の魔法を見ました ── 上の階の詳細は \((E/\Lambda)^n\) で死に、下の階は自分の言葉で閉じる。おかげで化学者はクォークを知らなくていい。ところがこの魔法には、ちょうど二つだけ穴がありますヒッグス粒子の質量宇宙定数。この二つだけは、プランクスケールという遥か上の階からの影響を遮断できず、まともに直撃を受ける。そして観測値は直撃の予想より \(10^{34}\) 倍、\(10^{120}\) 倍も小さい。まるで裸の値と量子補正が、34 桁目まで、120 桁目まで、示し合わせたように打ち消し合っているかのように見える。これが現代物理最大の二つの謎です。そして重要なのは ── 二つは同じ形をしている。この回では、その形を読みます。

01なぜ、たいていの量は守られているのか

まず、なぜふつうは大丈夫なのかを押さえます。量子論では、どんな量にも「もっと高いエネルギーの世界からの補正」が入ります。それでも問題にならないのは、多くの場合対称性が守ってくれるからです。

守る対称性補正の入り方危険度
電子の質量カイラル対称性\(\delta m \propto m\ln(\Lambda/m)\) ── 掛け算で入る安全(元がゼロならゼロのまま)
光子・グルーオンの質量ゲージ対称性そもそも許されない(ゼロ)安全
電荷などの結合定数(次元 4 の演算子)\(\ln\Lambda\) でゆっくり安全
ヒッグス質量²ない\(\delta m_H^2 \propto \Lambda^2\) ── 足し算で入る危険
宇宙定数(真空エネルギー)ない\(\delta\rho \propto \Lambda^4\)最も危険

電子の質量の行が肝心です。補正が \(m\) に比例する(掛け算で入る)なら、元の値が小さければ補正も小さい ── だから小さいままでいられる。これを「小ささが技術的に自然である」といいます。一方、補正が \(\Lambda^2\) と足し算で入ると、元の値が小さくても補正が巨大になり、小ささが維持できません。

02ヒッグスの 34 桁

桁で見る ── ヒッグス質量の桁合わせ

標準模型を信じるかぎり、量子補正は上限エネルギー \(\Lambda\) の 2 乗で入ります。\(\Lambda\) をプランクスケール \(1.22\times10^{19}\ \mathrm{GeV}\) とすると

$$\delta m_H^2 \sim \Lambda^2 \approx 1.5\times10^{38}\ \mathrm{GeV^2}$$

ところが実測されたヒッグス質量は 125 GeV、つまり

$$m_H^2 \approx 1.6\times10^{4}\ \mathrm{GeV^2}$$

比は \(1.6\times10^{4}/1.5\times10^{38}\approx10^{-34}\)。裸の値と補正が 34 桁目まで一致して打ち消し合っていることになります。1 兆分の 1 の 1 兆分の 1 のさらに 1 億分の 1。偶然だと思うには苦しいので、これを階層問題と呼びます。

03宇宙定数の 120 桁

桁で見る ── こちらは桁違いに悪い

真空にも量子ゆらぎのエネルギーがあり、素朴に見積もると \(\Lambda^4\) のオーダー:

$$\rho_{\text{理論}}\sim \Lambda^4 \approx (1.22\times10^{19})^4 \approx 2\times10^{76}\ \mathrm{GeV^4}$$

観測されている宇宙の加速膨張から出る値は

$$\rho_{\text{観測}}\sim 10^{-47}\ \mathrm{GeV^4}$$

比はおよそ \(10^{-123}\)(見積もりの取り方で \(10^{-120}\) 前後と言われます)。「物理学史上、最悪の理論的予言」と呼ばれることもあります。これが宇宙定数問題

04この二つが、同じ形である

ここがこの回の芯です。第4回の言葉に翻訳すると、なぜこの二つだけなのかが一行でわかります。

この回の芯 ── relevant な演算子は、上の階を遮断できない
演算子の次元 d粗視化するとどうなるか標準模型での例
\(d>4\):irrelevant\((E/\Lambda)^{d-4}\) で縮むほとんど全部(だから世界は層になる)
\(d=4\):marginal\(\ln\) でゆっくり動くゲージ結合、湯川結合
\(d<4\):relevant低エネルギーへ向かうほど拡大するちょうど 2 つだけ

その 2 つとは ── \(d=0\) の単位演算子(=宇宙定数)\(d=2\) の \(H^\dagger H\)(=ヒッグス質量²)。ほかに relevant になりうる項(フェルミオン質量 \(\bar\psi\psi\) は \(d=3\)、ゲージ場の質量 \(A^2\) は \(d=2\))は、すべて対称性に禁止されている。だから守られていない relevant 演算子は、宇宙にちょうど二つしかない ── そしてその二つが、そのまま現代物理最大の二つの謎になっている

言い換えれば、こういうことです。粗視化が効くのは irrelevant な方向だけ。relevant な方向では、粗視化は情報を捨てるどころか上の階の情報を拡大して下ろしてくる。だから遮断できない。階層問題と宇宙定数問題は「新しい謎」ではなく、〈世界が層になっている〉という同じ一つの事実の、裏側です。魔法が効く理由と、二か所だけ効かない理由は、同じ定理から出ている。

05動かしてみる ── 34 桁を合わせるとは、どういうことか

「34 桁の一致」がどれくらい異様かは、実際に桁を並べてみるのが早いです。下の図は、裸の値量子補正という二つの巨大な数を並べ、スライダーで「何桁目まで一致しているか」を変えるものです。

一致した桁は打ち消し合って消え、残りカスが私たちの見る物理量になります。ヒッグスなら 34 桁、宇宙定数なら 120 桁あたりまで合わせないと観測値に届かない ── ボタンで二つの問題を切り替えて、目盛りの遠さを比べてみてください。

図:裸の値と量子補正の桁を並べたもの。灰色=打ち消し合った桁、色つき=残った桁。スライダーで一致桁数を変えると、残差(=観測される物理量)が変わる。観測値に届くのに必要な桁数がどれだけ異様かを見る図
打ち消し合った桁 残った桁(=観測される量)

06では、なぜそうなっているのか

答えは出ていません。有力な立場は三つあります。

立場主張現状
① 新しい対称性が守っている超対称性などで、\(\Lambda^2\) の補正が別の粒子の寄与と相殺する。つまり「守る対称性がない」が間違いもっとも美しい解だが、期待された質量域に超対称粒子が LHC で見つかっていない。楽観は減っている
② 人間原理/マルチバース宇宙は無数にあり、値は場所ごとに違う。銀河が作れる値の宇宙にしか観測者はいないワインバーグは 1987 年にこの論法で宇宙定数の上限を予言し、1998 年の観測はその範囲に入った。だが検証は難しい
③「自然さ」という基準が間違い「桁が合っているのは不自然」という直観自体、根拠のない美意識かもしれない近年この立場を取る研究者が増えている。ただし代案の予言力は弱い
この回のいちばん大事な一文 粗視化は、二か所だけ漏れる。そしてその二か所は、粗視化が効く理由とまったく同じ定理から出ている。
「世界が層になっている」ことと「階層問題があること」は、コインの裏表です。もし relevant な演算子が一つもなければ、宇宙定数もヒッグス質量も存在せず、質量のスケールそのものが決まらない ── つまり物質も原子も生まれない。私たちが困っているこの二つの穴こそ、世界に大きさを与えているものでもあります。
◇ ◇ ◇
正直な線 ── 「桁合わせ」という言い方の射程

確立していること:ヒッグス質量の 2 乗に対する量子補正がカットオフの 2 乗で入ること(スカラーには質量を守る対称性がないこと)、フェルミオン質量がカイラル対称性、ゲージ場の質量がゲージ対称性によって守られること、演算子の次元による relevant/marginal/irrelevant の分類、標準模型で対称性に守られない relevant 演算子が単位演算子(宇宙定数)と \(H^\dagger H\) の二つであること、実測値(\(m_H\approx125\) GeV、宇宙定数のエネルギー密度)とプランクスケールからの素朴な見積もりとの比が \(10^{-34}\) と \(10^{-120}\) 程度であること、ワインバーグが 1987 年に人間原理から宇宙定数の上限を与え後の観測がその範囲に入ったことは、いずれも確立した物理・標準的理解です。

注意すべきこと:① 「\(\Lambda^2\) の補正」「裸の値との打ち消し」という言い方はカットオフ正則化に依存した表現です。次元正則化のような別の処方では \(\Lambda^2\) の項は現れず、問題は「別のスケール(新粒子の質量など)との間の階層」として立ち現れます。図の「桁を合わせる」描像は直観のための可視化で、厳密な計算手順そのものではありません。② 宇宙定数の \(10^{-120}\) は見積もりの取り方(どのスケールで切るか)で \(10^{-120}\)〜\(10^{-123}\) 程度に振れます。③ そもそも「不自然だから説明が要る」という前提(naturalness)自体が、確立した物理原理ではなく指針であり、その妥当性が現在議論の的になっています ── 本文の立場③がそれです。④ したがってこの回は「未解決の謎を、繰り込み群の言葉で整理するとこう見える」という整理であって、解決を提示するものではありません。

練習問題(この回の考え方で解けます)
  1. 電子の質量が小さいままでいられて、ヒッグス質量がそうでないのはなぜか。
    答えを見る
    電子の質量はカイラル対称性に守られていて、補正が \(\delta m\propto m\ln(\Lambda/m)\) と掛け算で入る(元が小さければ補正も小さい)。ヒッグスにはそういう対称性がなく、\(\delta m_H^2\propto\Lambda^2\) と足し算で入るので、小ささを維持できない。
  2. 「世界が層になっていること」と「階層問題があること」の関係を述べよ。
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    同じ定理の表裏。粗視化で上の階が切り離されるのは irrelevant な方向(\(d>4\))だけで、relevant な方向(\(d<4\))では逆に上の階の影響が拡大して下りてくる。守られていない relevant 演算子はちょうど二つ(宇宙定数と \(H^\dagger H\))しかなく、それがそのまま二大難問になっている。
  3. 宇宙定数問題がヒッグスの階層問題より「ひどい」のはなぜか、桁で答えよ。
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    ヒッグスは \(\Lambda^2\) の補正に対して \(10^{-34}\)。宇宙定数は \(\Lambda^4\) の補正に対して \(10^{-120}\) 程度。次元が高いぶん補正が大きく、要求される桁合わせが 3 倍以上厳しい。
  4. もし relevant な演算子が一つもなかったら、宇宙はどうなっていたか。
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    質量のスケールを与える項がなくなるので、粒子の質量も真空エネルギーも決まらず、原子のような「大きさを持つ構造」が生まれない。困りものの二つの穴が、同時に世界に大きさを与えている。

第6回まとめ魔法が効く理由と、二か所だけ効かない理由は、同じ定理から出ている

量子補正はふつう対称性に守られます ── 電子の質量はカイラル対称性で、ゲージ場の質量はゲージ対称性で。守られている量は補正が掛け算で入るので、小さいままでいられる。ところがヒッグス質量²と真空エネルギーには守る対称性がなく、補正が \(\Lambda^2\)、\(\Lambda^4\) と足し算で直撃する。結果、観測値に合わせるには 34 桁120 桁の打ち消し合いが要る。

そしてこの二つが「たまたま二つ」なのではありません。第4回の言葉で言えば、標準模型で対称性に守られていない relevant な演算子(\(d<4\))が、ちょうど二つしかない── \(d=0\) の単位演算子(宇宙定数)と \(d=2\) の \(H^\dagger H\)(ヒッグス質量²)。relevant な方向では、粗視化は上の階を遮断するどころか拡大して下ろしてくる。だから「世界が層になっていること」と「階層問題があること」はコインの裏表です。答えは出ていません(新しい対称性/人間原理/そもそも自然さが間違い、の三つ巴)。

この文書は「わかる繰り込み」シリーズ第6回、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。スカラー場の質量 2 乗への 2 次発散補正、カイラル対称性によるフェルミオン質量の保護とゲージ対称性によるゲージ場質量の保護、't Hooft の技術的自然さ、演算子次元による relevant/marginal/irrelevant の分類、標準模型で対称性に守られない relevant 演算子が単位演算子と \(H^\dagger H\) の二つであること、ヒッグス質量 125 GeV とプランクスケールの比から来る \(10^{-34}\) 程度の微調整、真空エネルギーの理論見積もりと観測値の比 \(10^{-120}\) 程度、およびワインバーグ(1987)による人間原理からの宇宙定数上限の予言は、いずれも確立した物理・標準的理解です。ただし「\(\Lambda^2\) 補正と裸の値の打ち消し」という表現がカットオフ正則化に依存すること(次元正則化では別の形で現れること)、\(10^{-120}\) が見積もり方に依存すること、そして自然さ(naturalness)が確立した物理原理ではなく議論中の指針であることは本文「正直な線」に明記しました。図は桁合わせの異様さを直観するための可視化で、厳密な計算手順の再現ではありません。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前後の回:第5回 粗視化が破れるとき第7回 解像度という次元目次

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーで一致桁数を変えると残差が変わり、ボタンでヒッグス/宇宙定数を切り替えられます。「観測値に合わせる」で必要な桁数まで一気に動きます。「答えを見る」で解答が開きます。