「計算が止まった穴」ではない ── 計算が振り切れ、情報が順番待ちしている場所だ
第3回で、ブラックホールは蒸発しきるまで、途方もなく長い時間をかけてホーキング放射を出し続けると見ました。その間、地平面に飲み込まれた情報は何をしているのか。素朴には「潰れて止まった」と思いたくなりますが、情報理論の目で見ると、まるで逆です ── ブラックホールは、自然界で最速・最密のコンピュータ。第2回で数えた \(10^{77}\) ビットのメモリを、物理の許す限界いっぱいの速さでかき混ぜている(最速のスクランブラー)。落ちた情報は、消えたのでも止まったのでもなく ── 表面のキューに最大混合で積まれ、順番を待って、放射として返ってくる。「止まった穴」ではなく「計算が振り切れて順番待ちの場所」。この視点が、次回以降の情報パラドックスの下ごしらえになります。
第2回で、ブラックホールは同じ大きさで最大のエントロピー(情報量)を持つ、と学びました。エントロピーが最大=取りうる状態が最も多い=メモリが最大。第3回で、温度があり、放射でゆっくりエネルギー(情報?)を吐き出す。この二つを合わせると、ブラックホールは「巨大なメモリを持ち、時間をかけて中身を処理・出力する装置」── つまり計算機として見える。しかもその性能は、物理の限界そのものです。
物理には、計算の速さと容量の上限があります(ロイドらの議論)。演算速度はエネルギーで頭打ち、メモリはエントロピーで頭打ち ──
演算の速さは使えるエネルギー \(E\) を \(\hbar\) で割ったぶんが上限(1ビット反転にも最小の時間 \(\sim\hbar/E\) が要る)。メモリは取りうる状態の対数=エントロピー。ブラックホールは、与えられた大きさでメモリ(エントロピー)を最大にした天体── だから「最密のメモリ」を持つ究極のコンピュータなのです(ロイドの"ultimate laptop"の極限)。
ブラックホールが際立つのは、メモリの混ぜ方の速さ。何かを落とすと、その情報は地平面のたくさんの自由度にあっという間に混ざり、局所的には取り出せなくなる(スクランブル)。この混ざる速さ ── カオスの激しさ ── にも物理の上限があり、ブラックホールはそれを飽和します。
カオスの成長率 \(\lambda\)(リアプノフ指数)には温度で決まる上限があり(証明された不等式)、ブラックホールはこれをちょうど飽和する=最速のスクランブラー。全体を混ぜ終える時間 \(t_*\) は、ビット数 \(S\) の対数(\(\ln S\))でしか増えない ── 天文学的なビット数でも、混ぜるのは驚くほど速い。
\(\hbar/(2\pi k_BT)\) は、だいたい地平面を光が横切る時間 \(\sim R_s/c\)。太陽質量なら \(R_s\sim3\) km なので \(\sim10^{-5}\) 秒。ビット数 \(S\sim10^{77}\) の対数は \(\ln(10^{77})\approx177\)。かけ算して ──
$$t_*\sim 10^{-5}\ \text{s}\times177\approx\ \text{数ミリ秒}$$\(10^{77}\) ビットを、わずか数ミリ秒で完全にかき混ぜる。ふつうの物質(拡散はビット数のべきで遅くなる)とは桁違いに速い。だからブラックホールは「fastest scrambler(最速のかき混ぜ機)」と呼ばれます。
下の図。左から順序だった情報(色つきのビット)が地平面(中央の光る帯)へ落ちていきます。地平面に着くと、情報は最大混合でかき混ぜられ(色が灰色に均される)、キューとして貯まる。そして時間をかけて、右へホーキング放射(灰色の光子)として少しずつ吐き出される。「情報を落とす」ボタンでまとめて投入できます。
見てほしいのは ── 落ちた情報は消えていない。地平面のキューに貯まり、混ぜられ(順序は失われる)、放射として出ていく。「止まった」でも「消えた」でもなく、最大速度で処理され、順番待ちしている。ただし出ていく放射が元の情報を本当に持ち出せているか ── そこが次回の大問題です。
ここまでを、一つの描像にまとめます。外から見ると、地平面のすぐ外に熱くて薄い膜(stretched horizon/膜のパラダイム)があり、落ちた情報はそこに吸われ、最大速度でかき混ぜられ、貯め込まれ、ホーキング放射として時間をかけて滲み出す。第3回の「凍結星」で、外から見ると情報が表面で凍りつくように見えたのは、この膜に貼りついて見えるから。
計算の物理限界(演算速度がエネルギーで、メモリがエントロピーで頭打ち)は厳密な結果(マルゴラス–レビティン限界など)で、ブラックホールが与えられた大きさで最大エントロピー=最密メモリなのも確立。カオスの上限 \(\lambda\le2\pi k_BT/\hbar\)(Maldacena–Shenker–Stanford 2016)は証明された不等式で、ブラックホール(を記述するホログラフィ模型)がこれを飽和することも広く受け入れられています。
ただし。 ① 「ブラックホール=最速のスクランブラー」「\(t_*\sim(\hbar/2\pi k_BT)\ln S\)」は Sekino–Susskind の予想(fast scrambling conjecture, 2008)で、ホログラフィ模型で強く支持されるが厳密な一般証明はまだ。 ② 「ブラックホール=コンピュータ」「表面のキュー」は情報理論的な解釈・比喩で、標準物理の言い換えとして有用だが、素朴に実在の装置と受け取らない。 ③ stretched horizon(膜のパラダイム)は外部観測者向けの有効記述で、落ちる本人には膜はない(相補性、第1回)。 ④ スクランブル(情報が局所的に取り出せなくなる)は、情報が消えることとは違う(原理的には可逆・保存)。だが「蒸発で本当に外へ返るか」は、長らく未解決だった情報パラドックスそのもの(第6回で扱い、近年の到達点も)。 ⑤ このリサーチ回では最前線側(スクランブル・カオス限界)の一次検証は完了できず、標準的レビューに基づく記述です。
蒸発するまでの間、ブラックホールは情報理論的には自然界で最速・最密のコンピュータ。演算速度はエネルギー、メモリはエントロピー(第2回のビット数)で頭打ちで、ブラックホールは最大エントロピー=最密メモリ。しかも落ちた情報を、カオスの上限 \(\lambda\le2\pi k_BT/\hbar\) を飽和する速さでかき混ぜる最速のスクランブラー── 混ぜ終える時間は \(t_*\sim(\hbar/2\pi k_BT)\ln S\) で、ビット数の対数でしか増えない(太陽質量で数ミリ秒)。
だから「地平面で計算が止まる」は不正確。正しくは ── 計算は振り切れ、情報は表面のキュー(stretched horizon)に最大混合で貯まり、放射で少しずつ返る。止まったのでも消えたのでもなく、最速で処理されて順番待ち。ただし待っている中身はスクランブル済みで、しかも本当に外へ返る(保存される)のかは最大の謎 ── 量子力学「返る」対 ホーキング当初計算「消える」の衝突が、次回の情報パラドックス。ℏ と G の正面衝突へ。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では「情報を落とす」で、情報が地平面のキューに混ぜられ貯まり、放射で返る様子が見られます。「答えを見る」で解答が開きます。