第3回で「質量は場のブレーキ」と言った。では ── その質量 m は、そもそもどこから来るのか
第3回で、質量 \(m\) は場のブレーキで、射程 \(\lambda=\hbar/mc\) を決めると学びました。第4回では、力の強さが単位のない数 \(\alpha\) に凝縮されると見た。残った最大の問いは、これです ── その質量 \(m\) は、そもそもどこから湧くのか。電子はなぜ 0.511 MeV で、トップクォークはなぜその 33 万倍も重いのか。2012 年に決着したこの謎の答えが、ヒッグス場。真空は本当は空っぽではなく、ヒッグス場がいたるところに満ちている。粒子はその中を進むとき抵抗を受け、それが質量として現れる。そして肝心なのは ── 各粒子の質量は、ヒッグス場との結びつきの強さ \(y\)(湯川結合、単位なし)で決まること。質量すら、一つの無次元の比だった。本編の最後に、この一枚を置きます。
ふつう「真空」は何も無い空間だと思われています。でも場の理論では、真空は場の値がゼロの状態にすぎない。多くの場(電磁場など)は真空でゼロですが、ヒッグス場だけは、真空でもゼロでない一定値 \(v\) を持つ。宇宙のどこへ行っても、\(v\approx246\) GeV というヒッグス場が背景に満ちている。私たちは、気づかないままその中を泳いでいるのです。
この満ちたヒッグス場を、粒子はかき分けて進みます。かき分けにくい(強く結びつく)粒子は動きにくい=重い。すいすい進む(弱く結びつく)粒子は軽い。まったく結びつかない粒子(光子)は抵抗ゼロで、質量ゼロのまま \(c\) で走る(第2回)。結びつきの強さを表す単位のない数が、湯川結合 \(y\)。粒子の質量は、こう書けます。
\(v\) は全粒子に共通の背景(ものさし)。粒子ごとに違うのは、単位のない \(y\) だけ。だから質量の違いは、結合 \(y\) の違いそのもの。質量を \(v\) で測れば \(m/v\propto y\) ── 質量は、ヒッグス場の値に対する比に還元される。
ここが、このシリーズの一番言いたいことの到達点です。「電子は \(9.1\times10^{-31}\) kg」という数字は、キログラムという人間の単位の産物。本当の中身は、電子のヒッグス結合 \(y_e\approx3\times10^{-6}\) という単位のない数。トップクォークが最重量なのは \(y_t\approx1\) だから。質量の正体は kg の数字ではなく、\(0\) から \(1\) までに散らばった無次元の結合 \(y\) だったのです。
下の図は、既知の素粒子(フェルミオン)の質量を対数の軸に並べたもの。スライダーは、ヒッグスとの結合 \(y\)(単位なし)。\(y\) を動かすと、\(m=y\,v/\sqrt2\) にしたがってマーカーが左右に動きます。
\(y\approx3\times10^{-6}\) で電子、\(y\approx0.01\) でタウ粒子、そして \(y\approx1\)(結合が最大級)でトップクォーク。電子からトップまで、質量は 5 桁以上ちらばっていますが、その正体は\(y\) が \(10^{-6}\) から \(1\) まで散らばっているだけ。「重い・軽い」の百万倍の差は、単位のない一つの数 \(y\) の差に過ぎない ── それを目で確かめてください。
ヒッグス場が本当にあるなら、第2回で見たように、場は揺らせば波が立つはず。そのさざなみの粒=ヒッグス粒子(ヒッグスボソン)です。2012 年、CERN の LHC が質量約 125 GeV のこの粒子を発見しました。真空に満ちた場という描像が、実験で確かめられた瞬間です。ヒッグス場は理論の便宜ではなく、叩けば鳴る実在の場だった。
ここで、気持ちのいい誤解を一つ壊します。「ヒッグスがあらゆる質量の源」── これはまちがい。ヒッグスが直接与えるのは、電子やクォークなど素粒子の質量だけ。ところが、あなたの体重のほとんどは陽子と中性子で、その質量の約 99% は、ヒッグス由来ではない。
陽子(約 938 MeV)を作る 3 個のクォークの、ヒッグス由来の質量
$$m_u+m_u+m_d \approx 2.2+2.2+4.7 \approx 9\ \text{MeV}\quad(\text{陽子質量の約 1%})$$残りの約 929 MeV(99%)は、クォークを閉じ込める強い力の場(グルオン)のエネルギー。\(E=mc^2\) で、その結合エネルギーがそのまま質量になっている。つまりあなたの体重は、ほぼ全部が強い力の場のエネルギー。ヒッグスは、材料のクォークにわずかな重さを与えているだけ ── 質量の大半は、第4回で並べた「強い力」が縛りつけたエネルギーの重さなのです。
この二段構えが美しい。素粒子そのものの質量はヒッグス結合 \(y\) が、合成粒子(陽子・原子核・あなた)の質量の大半は強い力の結合エネルギーが担う。どちらも、単位のある kg を出発点にしては見えてこない。無次元の結合と、\(E=mc^2\) というエネルギーの言葉 ── そこから見て初めて、「質量とは何か」がほどける。質量は物質に最初から備わった量ではなく、場との関わりが生む、二次的なものだったのです。
ヒッグス場が真空で非ゼロの期待値 \(v\approx246\) GeV を持つこと(自発的対称性の破れ)、フェルミオンの質量が湯川結合で \(m=y v/\sqrt2\) と与えられること、\(y\) が無次元で電子 \(\sim3\times10^{-6}\)・トップ \(\sim1\) と散らばること、ヒッグス粒子(約125 GeV)が2012年に発見されたこと、陽子質量の約99%が強い相互作用の結合エネルギー(QCD)由来でヒッグス由来はわずかなことは、いずれも確立した標準物理です。
ただし「泳ぐ・かき分ける・抵抗」は直感のための比喩で、文字どおりの摩擦ではありません。摩擦なら動く物を止めてしまう(速度に依存する)が、ヒッグスが与えるのは速度によらない静止質量で、等速運動はまったく妨げない(相対性原理を破らない)。正確には、場が \(v\) を持つと相互作用項 \(y\,\phi\,\bar\psi\psi\) が質量項 \(y v\,\bar\psi\psi/\sqrt2\) に化ける、という数式の話です。 また、W・Z ボソンの質量もヒッグス由来ですが、こちらは湯川ではなくゲージ結合を通じてで、ヒッグス粒子自身の質量は自己結合から来ます(図はフェルミオンに限定)。 なお「なぜ \(y\) がこれほど広く散らばるのか(電子とトップで百万倍)」は未解決(フレーバーの謎・階層問題)── \(m=yv/\sqrt2\) は \(y\) を説明せず、質量を無次元の \(y\) に翻訳したにとどまります。
質量 \(m\) の出どころは、真空を満たすヒッグス場(真空値 \(v\approx246\) GeV、自発的対称性の破れの結果)。粒子はこの場と結びつく強さに応じて抵抗=質量を得る。フェルミオンなら \(m=y v/\sqrt2\)。\(v\) は全粒子共通のものさしで、粒子ごとに違うのは単位のない湯川結合 \(y\) だけ ── 電子 \(3\times10^{-6\!}\)、トップ \(\sim1\)。質量の百万倍の差は、無次元の \(y\) の広がりに過ぎない。ヒッグス場は、叩けば鳴る実在の場(ヒッグス粒子、2012年発見・約125 GeV)。
そして種明かし ── あなたの体重の約99%はヒッグス由来ではない。陽子・中性子の質量の大半は、強い力の場(グルオン)の結合エネルギーが \(E=mc^2\) で質量化したもの。素粒子の質量はヒッグス結合 \(y\) が、合成粒子の質量の大半は強い力のエネルギーが担う。質量は物質に元から備わる量ではなく、場との関わりが生む二次的なもの。単位のある kg でなく、無次元の \(y\) とエネルギーの言葉から見て初めてほどける ── 場を比で読む、本編最後の一歩です。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではヒッグス結合 y を動かすと、質量 m=y·v/√2 のマーカーが電子からトップまで動きます。「答えを見る」で解答が開きます。