わかる場第 6 回 / 質量の出どころ ── ヒッグス場という「抵抗」(本編完結)

第3回で「質量は場のブレーキ」と言った。では ── その質量 m は、そもそもどこから来るのか

質量の出どころ ── ヒッグス場という「抵抗」 真空は空っぽではない。ヒッグス場がすきまなく満ちていて、粒子はそれをかき分ける抵抗として
質量を得る。しかも各粒子の質量は、ヒッグス場との結びつきの強さ ── また一つの単位のない数で決まる。

必要な道具:第3回の質量=ブレーキ、第4回の無次元の結合 この回の比:湯川結合 y(無次元)、m = y·v/√2

第3回で、質量 \(m\) は場のブレーキで、射程 \(\lambda=\hbar/mc\) を決めると学びました。第4回では、力の強さが単位のない数 \(\alpha\) に凝縮されると見た。残った最大の問いは、これです ── その質量 \(m\) は、そもそもどこから湧くのか。電子はなぜ 0.511 MeV で、トップクォークはなぜその 33 万倍も重いのか。2012 年に決着したこの謎の答えが、ヒッグス場。真空は本当は空っぽではなく、ヒッグス場がいたるところに満ちている。粒子はその中を進むとき抵抗を受け、それが質量として現れる。そして肝心なのは ── 各粒子の質量は、ヒッグス場との結びつきの強さ \(y\)(湯川結合、単位なし)で決まること。質量すら、一つの無次元の比だった。本編の最後に、この一枚を置きます。

01真空は、空っぽじゃない ── ヒッグス場が満ちている

ふつう「真空」は何も無い空間だと思われています。でも場の理論では、真空は場の値がゼロの状態にすぎない。多くの場(電磁場など)は真空でゼロですが、ヒッグス場だけは、真空でもゼロでない一定値 \(v\) を持つ。宇宙のどこへ行っても、\(v\approx246\) GeV というヒッグス場が背景に満ちている。私たちは、気づかないままその中を泳いでいるのです。

なぜゼロにならない? ── メキシカンハットの底 ヒッグス場のエネルギー(ポテンシャル)は、底が持ち上がったワインボトルの底/メキシカンハットの形をしています。中心(場=0)はてっぺんの不安定な点で、場は必ずそこから転がり落ち、ふちの谷(場=v≠0)で安定する。だから真空はゼロでなく \(v\) を選ぶ ── これを自発的対称性の破れといいます。「何も無い」がいちばん安定なのではなく、「一様に \(v\) で満ちている」がいちばん安定。宇宙は、そういう真空を選んだ。

02抵抗が、質量になる ── m = y·v/√2

この満ちたヒッグス場を、粒子はかき分けて進みます。かき分けにくい(強く結びつく)粒子は動きにくい=重い。すいすい進む(弱く結びつく)粒子は軽い。まったく結びつかない粒子(光子)は抵抗ゼロで、質量ゼロのまま \(c\) で走る(第2回)。結びつきの強さを表す単位のない数が、湯川結合 \(y\)。粒子の質量は、こう書けます。

質量 = 結合の強さ × 真空の値
$$m=\frac{y\,v}{\sqrt2}\qquad(v\approx246\ \text{GeV}、\ y=\text{湯川結合・単位なし})$$

\(v\) は全粒子に共通の背景(ものさし)。粒子ごとに違うのは、単位のない \(y\) だけ。だから質量の違いは、結合 \(y\) の違いそのもの。質量を \(v\) で測れば \(m/v\propto y\) ── 質量は、ヒッグス場の値に対するに還元される。

ここが、このシリーズの一番言いたいことの到達点です。「電子は \(9.1\times10^{-31}\) kg」という数字は、キログラムという人間の単位の産物。本当の中身は、電子のヒッグス結合 \(y_e\approx3\times10^{-6}\) という単位のない数。トップクォークが最重量なのは \(y_t\approx1\) だから。質量の正体は kg の数字ではなく、\(0\) から \(1\) までに散らばった無次元の結合 \(y\) だったのです。

03動かしてみる ── 質量スペクトルは、結合 y の広がり

下の図は、既知の素粒子(フェルミオン)の質量を対数の軸に並べたもの。スライダーは、ヒッグスとの結合 \(y\)(単位なし)。\(y\) を動かすと、\(m=y\,v/\sqrt2\) にしたがってマーカーが左右に動きます。

\(y\approx3\times10^{-6}\) で電子、\(y\approx0.01\) でタウ粒子、そして \(y\approx1\)(結合が最大級)でトップクォーク。電子からトップまで、質量は 5 桁以上ちらばっていますが、その正体は\(y\) が \(10^{-6}\) から \(1\) まで散らばっているだけ。「重い・軽い」の百万倍の差は、単位のない一つの数 \(y\) の差に過ぎない ── それを目で確かめてください。

図:フェルミオンの質量スペクトル(対数軸)。スライダーのヒッグス結合 y を動かすと m=y·v/√2 のマーカーが移動。y≈3×10⁻⁶で電子、y≈1でトップ。質量の百万倍の差=無次元の y の差
m = y·v/√2 のマーカー(可動) 既知のフェルミオン

04ヒッグス粒子 ── 満ちた場の、さざなみ

ヒッグス場が本当にあるなら、第2回で見たように、場は揺らせば波が立つはず。そのさざなみの粒=ヒッグス粒子(ヒッグスボソン)です。2012 年、CERN の LHC が質量約 125 GeV のこの粒子を発見しました。真空に満ちた場という描像が、実験で確かめられた瞬間です。ヒッグス場は理論の便宜ではなく、叩けば鳴る実在の場だった。

05種明かし ── あなたの体重の99%は、ヒッグスじゃない

ここで、気持ちのいい誤解を一つ壊します。「ヒッグスがあらゆる質量の源」── これはまちがい。ヒッグスが直接与えるのは、電子やクォークなど素粒子の質量だけ。ところが、あなたの体重のほとんどは陽子と中性子で、その質量の約 99% は、ヒッグス由来ではない

やってみよう ── 陽子の質量の内訳

陽子(約 938 MeV)を作る 3 個のクォークの、ヒッグス由来の質量

$$m_u+m_u+m_d \approx 2.2+2.2+4.7 \approx 9\ \text{MeV}\quad(\text{陽子質量の約 1%})$$

残りの約 929 MeV(99%)は、クォークを閉じ込める強い力の場(グルオン)のエネルギー。\(E=mc^2\) で、その結合エネルギーがそのまま質量になっている。つまりあなたの体重は、ほぼ全部が強い力の場のエネルギー。ヒッグスは、材料のクォークにわずかな重さを与えているだけ ── 質量の大半は、第4回で並べた「強い力」が縛りつけたエネルギーの重さなのです。

この二段構えが美しい。素粒子そのものの質量はヒッグス結合 \(y\) が、合成粒子(陽子・原子核・あなた)の質量の大半は強い力の結合エネルギーが担う。どちらも、単位のある kg を出発点にしては見えてこない。無次元の結合と、\(E=mc^2\) というエネルギーの言葉 ── そこから見て初めて、「質量とは何か」がほどける。質量は物質に最初から備わった量ではなく、場との関わりが生む、二次的なものだったのです。

◇ ◇ ◇
正直な線 ── 「抵抗」は、どこまで本当か

ヒッグス場が真空で非ゼロの期待値 \(v\approx246\) GeV を持つこと(自発的対称性の破れ)、フェルミオンの質量が湯川結合で \(m=y v/\sqrt2\) と与えられること、\(y\) が無次元で電子 \(\sim3\times10^{-6}\)・トップ \(\sim1\) と散らばること、ヒッグス粒子(約125 GeV)が2012年に発見されたこと、陽子質量の約99%が強い相互作用の結合エネルギー(QCD)由来でヒッグス由来はわずかなことは、いずれも確立した標準物理です。

ただし「泳ぐ・かき分ける・抵抗」は直感のための比喩で、文字どおりの摩擦ではありません。摩擦なら動く物を止めてしまう(速度に依存する)が、ヒッグスが与えるのは速度によらない静止質量で、等速運動はまったく妨げない(相対性原理を破らない)。正確には、場が \(v\) を持つと相互作用項 \(y\,\phi\,\bar\psi\psi\) が質量項 \(y v\,\bar\psi\psi/\sqrt2\) に化ける、という数式の話です。 また、W・Z ボソンの質量もヒッグス由来ですが、こちらは湯川ではなくゲージ結合を通じてで、ヒッグス粒子自身の質量は自己結合から来ます(図はフェルミオンに限定)。 なお「なぜ \(y\) がこれほど広く散らばるのか(電子とトップで百万倍)」は未解決(フレーバーの謎・階層問題)── \(m=yv/\sqrt2\) は \(y\) を説明せず、質量を無次元の \(y\) に翻訳したにとどまります。

練習問題(この回の式だけで解けます。v/√2 ≈ 174 GeV)
  1. タウ粒子の質量は約 1.78 GeV。ヒッグス結合 \(y_\tau\) を \(m=y v/\sqrt2\) から概算せよ。
    答えを見る
    \(y=m/(v/\sqrt2)=1.78/174\approx0.010\)。電子の \(3\times10^{-6}\) の約3000倍。タウが重いのは結合が強いから。
  2. もしある粒子のヒッグス結合が \(y=0\) なら、その質量はいくつか。実在の例は?
    答えを見る
    \(m=0\)。ヒッグスと結びつかない=抵抗ゼロ=質量ゼロ。光子がその例で、だから \(c\) で走り無限射程(第2回・第3回)。
  3. 陽子質量(約938 MeV)のうち、材料クォークのヒッグス由来はおよそ9 MeV。ヒッグス由来は何%か。残りは何か。
    答えを見る
    \(9/938\approx1\%\)。残り約99%は、クォークを閉じ込める強い力の場(グルオン)のエネルギーが \(E=mc^2\) で質量に化けたもの。
  4. 「電子の質量は 9.1×10⁻³¹ kg」より「電子のヒッグス結合は y≈3×10⁻⁶」のほうが本質的だ、と言えるのはなぜか。
    答えを見る
    kg の数字は人間が決めた単位に依存する舞台装置。\(y\) は単位のない純粋な数で、どの単位・どの観測者でも同じ。質量の"重さの違い"の本体は、この無次元の結合 \(y\) の違いだから。

第6回まとめ質量すら、比だった ── m = y·v/√2

質量 \(m\) の出どころは、真空を満たすヒッグス場(真空値 \(v\approx246\) GeV、自発的対称性の破れの結果)。粒子はこの場と結びつく強さに応じて抵抗=質量を得る。フェルミオンなら \(m=y v/\sqrt2\)。\(v\) は全粒子共通のものさしで、粒子ごとに違うのは単位のない湯川結合 \(y\) だけ ── 電子 \(3\times10^{-6\!}\)、トップ \(\sim1\)。質量の百万倍の差は、無次元の \(y\) の広がりに過ぎない。ヒッグス場は、叩けば鳴る実在の場(ヒッグス粒子、2012年発見・約125 GeV)。

そして種明かし ── あなたの体重の約99%はヒッグス由来ではない。陽子・中性子の質量の大半は、強い力の場(グルオン)の結合エネルギーが \(E=mc^2\) で質量化したもの。素粒子の質量はヒッグス結合 \(y\) が、合成粒子の質量の大半は強い力のエネルギーが担う。質量は物質に元から備わる量ではなく、場との関わりが生む二次的なもの。単位のある kg でなく、無次元の \(y\) とエネルギーの言葉から見て初めてほどける ── 場を比で読む、本編最後の一歩です。

この文書は「わかる場」シリーズ第6回(本編完結)、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。電弱対称性の自発的破れによりヒッグス場が真空期待値 \(v\approx246\) GeV を持つこと、フェルミオン質量が湯川結合で \(m=y\,v/\sqrt2\) と与えられ \(y\) が無次元(電子 \(y_e\approx2.9\times10^{-6}\)、トップ \(y_t\approx1\))であること、ヒッグス粒子(約125 GeV)が2012年に ATLAS/CMS で発見されたこと、核子質量の約99%が量子色力学(QCD)の結合エネルギー由来で電流クォーク質量(ヒッグス由来)の寄与は約1%であることは、いずれも確立した標準物理です。「抵抗・molasses」の描像は発見的比喩で、ヒッグス機構は速度依存の摩擦ではなく速度によらない静止質量を与えます(等速運動は不変=相対性原理を破らない)。W/Z 質量はゲージ結合を、ヒッグス自身の質量は自己結合を通じて生じ本回の湯川式の対象外であること、湯川結合の階層(フレーバーの謎)は未解決であることは本文「正直な線」に明記しました。図はフェルミオン質量の対数スペクトルと \(m=yv/\sqrt2\) の関係の模式です(質量値は代表値)。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。前後の回:第5回 次元目次。姉妹編:わかる力わかる宇宙論

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではヒッグス結合 y を動かすと、質量 m=y·v/√2 のマーカーが電子からトップまで動きます。「答えを見る」で解答が開きます。