わかる質量第 3 回 / 有限の床は、どう湧くのか

ヒッグスと、閉じ込め ── 同じ「質量」でも、湧き方はまるで違う

質量は、二通りに湧く 第2回で「有限の床は対称性が破れて湧く」。では実際どう湧くのか。
電子はヒッグスから、陽子は閉じ込めから ── しかも宇宙の可視質量の99%は、後者。

必要な道具:第1回の床、第2回の底の曲がり、掛け算 フック式:\(m_f=y_f\,v/\sqrt2\)/陽子 \(\sim\) 数 \(\times\Lambda_{\rm QCD}\)

第1回で質量は「消せないエネルギーの床」、第2回で「ゼロの床は対称性が守り、有限の床は対称性が破れて湧く」でした。今回はその湧き方を見ます。ところが ── 湧き方は一つではなく、二通りある。 電子のような素粒子はヒッグスから直接もらい、陽子のような複合粒子は閉じ込めのエネルギーから生まれる。そして驚くことに、あなたの体重の99%は、有名なヒッグスではなく、後者の仕業です。

01湧き方その1:ヒッグス ── 真空に満ちた場に"つかまる"

第2回の「質量²=ポテンシャルの底の曲がり」の図を、もう一歩動かします。ヒッグス場のポテンシャルは、底の係数を負にした形 ── いわゆるメキシカンハットです。すると真空(谷底)が原点から横にずれ、場が至るところで \(v\neq0\) の値を持つようになる。これが「対称性の自発的破れ」。

図:ヒッグスのポテンシャル。ツマミ μ² を負にすると原点が"丘"になり、真空が \(\phi=v\neq0\) にずれる(対称性の自発的破れ)。真空に満ちた場 \(v\) が、粒子に質量の床を与える
ツマミを動かすと、真空の位置が変わります。
ヒッグスのポテンシャル V(φ) 真空の値 v

粒子は、この真空に満ちた場と結合します。結合していると、止まっていてもエネルギーの床を持つ ── これが第1回の「床」=質量です。床の高さは、場の値 \(v\) と、結合の強さ(湯川結合 \(y_f\))で決まります。

ヒッグスが与える質量
$$m_f=\frac{y_f\,v}{\sqrt2},\qquad v\approx 246\ \text{GeV}$$

同じ \(v\) でも、結合 \(y_f\) が桁違いだから質量も桁違い。トップクォークは \(y\approx1\) で約173 GeV、電子は \(y\approx3\times10^{-6}\) で約0.5 MeV。質量の"個性"は、真空への結合の強さだったのです。

つなぐ声(第1回・第2回の回収) 破れたとき、ポテンシャルには第2回の"平らな方向"(ゴールドストン)が現れます。\(W,Z\) 粒子はこの平らな方向を食べて、第1回で言った縦波を手に入れ、重くなる。破れずに残った組み合わせが、質量ゼロの光子。第1回(縦波)・第2回(平らな方向)・今回(質量が点く)が、この一枚のハットで握手します。
◇ ◇ ◇

02湧き方その2:閉じ込め ── エネルギーが、そのまま質量になる

もう一方はまったく別物です。陽子は、3つのクォーク(アップ2・ダウン1)が強い力(グルーオン)で固く結ばれた複合粒子。ところが、中のクォークの"素の質量"(ヒッグス由来)を全部足しても、陽子の重さのほんの一部にしかなりません。

やってみよう ── 陽子の重さの内訳 $$\frac{\text{クォーク3個の素の質量}}{\text{陽子の質量}}\approx\frac{2.2+2.2+4.7\ \text{MeV}}{938\ \text{MeV}}\approx\frac{9}{938}\approx 1\%$$

残りの約99%は、クォークを閉じ込めるグルーオン場のエネルギーと、閉じ込められたクォークの運動エネルギー。それが \(E=mc^2\) でそのまま質量に化けている

この機構は、ヒッグスと完全に無関係です。もしヒッグスをオフにして全クォークを質量ゼロにしても、陽子はほぼ同じ重さで残る。なぜなら質量の出どころが、部品の重さではなく閉じ込めのエネルギーだから。

閉じ込めが与える質量(スケールが湧く)
$$m_{\text{陽子}}\ \sim\ \text{数}\times\Lambda_{\rm QCD}\qquad(\Lambda_{\rm QCD}\approx 0.2\ \text{GeV})$$

何もスケールを持たないはずの理論から、\(\Lambda_{\rm QCD}\) という重さの目盛りが湧く ── この不思議の正体は、第4回で。

03だから、体重の99%はヒッグスではない

ここが今回いちばんの種明かしです。「ヒッグスが万物に質量を与える」とよく言われますが、それは言い過ぎ。ヒッグスが与えるのは素粒子の"素の質量"だけ。あなたの体をつくる陽子・中性子の重さの大半は、QCDの閉じ込めエネルギーです。二つの機構を並べます。

ヒッグス(素粒子の素の質量)
対象:クォーク・レプトン・\(W,Z\) の静止質量。
機構:対称性の自発的破れ。真空に満ちた場 \(v\) との結合。
式:\(m_f=y_f v/\sqrt2\)。
可視質量への寄与:約1%
閉じ込め(複合粒子の質量)
対象:陽子・中性子などハドロンの質量の大半。
機構:強い力の閉じ込め。場のエネルギーが \(E=mc^2\)。
式:\(m\sim\) 数 \(\times\Lambda_{\rm QCD}\)。
可視質量への寄与:約99%

04二つの床、一つの背骨

湧き方は違っても、行き着く先は同じ ── 第1回の「消せない床」です。ヒッグスの床は、真空に満ちた場との結合が作る。閉じ込めの床は、場のエネルギーが化けて生まれる。第2回の「質量²=底の曲がり」は、ヒッグス側では文字どおり(ヒッグス粒子自身の質量=ハットの径方向の曲がり)。閉じ込め側は別種の湧き方で、そこにこそこのシリーズの合言葉 \(c\cdot t=\text{一定}\) が、初めて正当に効く扉があります。

正直な線

「ヒッグスは糖蜜(molasses)のように抵抗を与えて重くする」という比喩は不正確です。抵抗なら等速では効かないはず ── 実際に起きているのは「真空に満ちた場との結合が、静止しているときのエネルギーの床=質量を与える」こと。第1回の"床"の言葉が正しい絵です。

今回もレンズ \(c\cdot t=\text{一定}\) は前面に出していません。ヒッグス機構は標準物理で、\(c\cdot t\) と無関係だからです(無理に効かせない=姉妹シリーズ番外③の教訓)。ただし閉じ込め側の「スケールが湧く」は別。次回・第4回で、このレンズが本当に効きます。 「99%」はクォークの素質量の定義で多少ゆれますが、桁として99%は堅い事実です。

練習問題(今回の内容で解けます)
  1. 「ヒッグスが万物に質量を与える」がなぜ言い過ぎか、一言で。
    答えを見る
    ヒッグスが与えるのは素粒子(クォーク・レプトン・W,Z)の"素の質量"だけ。目に見える質量(陽子・中性子)の大半(約99%)はQCDの閉じ込めエネルギー由来で、ヒッグスの寄与は約1%にすぎない。
  2. トップクォークが電子より圧倒的に重い理由を \(m_f=y_f v/\sqrt2\) で説明せよ。
    答えを見る
    真空の値 \(v\) は同じでも、湯川結合 \(y_f\) が桁違い(トップ \(\approx1\)、電子 \(\approx3\times10^{-6}\))。質量は真空への結合の強さで決まるので、結合が大きいトップは重く、小さい電子は軽い。
  3. ヒッグスをオフにして全クォークを質量ゼロにしたら、陽子の重さはどうなるか。
    答えを見る
    ほとんど変わらない。陽子質量の約99%は閉じ込めのエネルギー由来で、クォークの素の質量(約1%)にほぼ依存しないから。陽子の重さはヒッグスにほぼ無関係に決まっている。

第3回まとめ同じ「床」に、二つの湧き方があった

有限の質量(床)の湧き方は二通り。ヒッグスは対称性の自発的破れで真空に場 \(v\) を満たし、結合 \(y_f\) に応じて素粒子に床を与える(\(m_f=y_f v/\sqrt2\))。閉じ込めは強い力の場のエネルギーが \(E=mc^2\) でそのまま質量に化け、陽子の約99%を作る。宇宙の可視質量の大半は、ヒッグスではなく閉じ込めの仕業だった。

ヒッグス側は第2回の「底の曲がり」で綺麗に描けた。だが閉じ込め側の「何もないところに重さの目盛り \(\Lambda_{\rm QCD}\) が湧く」は、まだ絵にできていない。このスケールの創発こそ、次回の主役 ── そしてついに \(c\cdot t=\text{一定}\) のレンズが正当に効く場所です。

この文書は「わかる質量」シリーズ第3回、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。ヒッグス機構(電弱対称性の自発的破れ、真空期待値 \(v\approx246\) GeV、フェルミオン質量 \(m_f=y_f v/\sqrt2\)、\(W,Z\) が南部・ゴールドストン自由度を吸収して質量を得ること)、および陽子・中性子の質量の大半(約99%)がクォークの静止質量ではなく量子色力学の力学的エネルギー(グルーオン場と閉じ込められたクォークの運動)に由来し、次元的移行によるスケール \(\Lambda_{\rm QCD}\approx0.2\) GeV で決まることは、いずれも確立した物理です。「ヒッグス=糖蜜で抵抗」という比喩は不正確で、正しくは真空に満ちた場との結合が静止エネルギー(質量)を与えます。図は \(V=\tfrac12\mu^2\phi^2+\tfrac14\phi^4\) の模式的な断面です。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。

印刷 / PDF 化:Ctrl+P(Mac は ⌘+P)。画面ではスライダーで対称性の破れ(真空のずれ)を動かせます。「答えを見る」で解答が開きます。