番外編④で質量の位相は「重力には見えない」と結論しかけた。ところが量子にすると、一箇所だけ抜け道がある
番外編④は「電子の質量に虚部はあるか」を追いかけて、位相には二つのツマミ(Weyl とカイラル)があること、単独の位相は帳簿だが位相差は物理であることを見ました。今回はその位相が重力にどう映るかを最後まで追います。答えは三段構えです ── 古典重力は位相を見ない。量子重力はアノマリーを通して見る。そして見えるのは、時空が回っているときだけ。 ついでに、そもそも「重力の強さ」という単一の数が存在しないことも分かります。
第10回の判定手続きを、いちばん有名な定数にかけます。ニュートン定数 \(G\) の単位は \(\mathrm{m^3\,kg^{-1}\,s^{-2}}\) ── 思いきり次元付きです。よって左の列、帳簿。
では物理は何か。\(G\) と \(\hbar\) と \(c\) と質量から無次元量を作ると、答えは一つしかありません。
微細構造定数 \(\alpha=e^2/(4\pi\varepsilon_0\hbar c)\) と、まったく同じ形。ただし質量が入っている。
ここが決定的です。\(\alpha\) は電荷が量子化されているので全粒子で同じ値ですが、質量は量子化されていない。だから \(\alpha_G\) は粒子ごとに違う数になります。
| \(m/M_{\rm Pl}\) | \(\alpha_G=(m/M_{\rm Pl})^2\) | |
|---|---|---|
| ニュートリノ(\(m_3\)) | \(4.10\times10^{-30}\) | \(1.68\times10^{-59}\) |
| 電子 | \(4.19\times10^{-23}\) | \(1.75\times10^{-45}\) |
| ミューオン | \(8.65\times10^{-21}\) | \(7.49\times10^{-41}\) |
| 陽子 | \(7.69\times10^{-20}\) | \(5.91\times10^{-39}\) |
| タウ | \(1.46\times10^{-19}\) | \(2.12\times10^{-38}\) |
| トップクォーク | \(1.41\times10^{-17}\) | \(2.00\times10^{-34}\) |
| プランク質量 | \(1\) | \(\mathbf{1}\) |
ニュートリノからトップまでで \(1.19\times10^{25}\) 倍の開き。つまり ──
「重力は弱い」は、粒子を指定しないと意味を持たない文です。
重力に単一の強さは存在しない。\(G\) は帳簿で、物理は粒子ごとの \(\alpha_G\)。電磁気と比べれば \(\alpha/\alpha_G(e)=4.17\times10^{42}\) ですが、これも「電子に対しては」という但し書きが要ります。
この数には、はるかに直観的な意味があります。粒子には長さが二つ付いてきます ── ブラックホールとしての大きさ(シュヴァルツシルト半径)と、量子としての大きさ(コンプトン波長)。
二つの長さ
$$r_s=\frac{2Gm}{c^2},\qquad \lambda_C=\frac{\hbar}{mc}$$割ると単位が全部消える
$$\frac{r_s}{\lambda_C}=\frac{2Gm}{c^2}\cdot\frac{mc}{\hbar}=\frac{2Gm^2}{\hbar c}=2\alpha_G$$質量が二乗で出てくるのは、片方が \(m\) に比例し、もう片方が \(1/m\) に比例するから。
\(\alpha_G\) は「その粒子がどれだけブラックホールに近いか」そのものでした。
電子は \(r_s/\lambda_C=3.50\times10^{-45}\)。自分の量子的な広がりに比べて、地平面は \(10^{-45}\) しかない。逆に \(\alpha_G=1\) になる質量を探すと、それがプランク質量です ── 自分のコンプトン波長が自分の地平面になってしまう点。「量子重力のスケール」の定義が、この一行から出てきます。
\(\alpha_G(e)=1.75\times10^{-45}\) という数は、どこから来たのか。第4回の作法で、質量を「無次元の結合 × スカラーの真空期待値」に分解します。\(m_e=y_e v/\sqrt2\) を入れるだけです。
左がフレーバー問題(なぜ \(y_e\) が \(10^{-6}\) か)、右が階層問題(なぜ \(v\ll M_{\rm Pl}\) か)。物理学の二大未解決問題が、掛け算で並んでいる。
桁で言うと 11.4桁と33.4桁。電子に対して重力が弱い理由の 3/4 は階層問題、1/4 はフレーバー問題です。そして番外編④を思い出すと、左の因子には正体がありました ── \(\delta\) が \(135^\circ\) のゼロ点まであと \(2.27^\circ\) のところに立っているから。感度は \(d\ln m_e/d\delta=0.90\)/度でしたから、
$$\frac{d\ln\alpha_G(e)}{d\delta}=1.80\ /\text{度}\qquad\Longrightarrow\qquad \delta\ \text{が}\ 1^\circ\ \text{動けば、電子に対する重力の強さは 6倍変わる}$$ここから本題。番外編④の質量 \(m=m_1+im_2\gamma_5\) を、重力に食わせます。重力が結合する相手はエネルギー運動量テンソル \(T_{\mu\nu}\) ただ一つです。
ところが 04節でやったとおり、カイラル回転 \(\psi\to e^{i\alpha\gamma_5/2}\psi\) は理論を \(|m|=\sqrt{m_1^2+m_2^2}\) の理論に完全に写します。observable は全部同じ ── \(T_{\mu\nu}\) も同じ。したがって
重力は \(|m|\) しか見ない。位相は完全に不可視。
これは番外編④の「② カイラル位相単独=帳簿」の、まったく独立な二つ目の確認です。あちらは場の理論の言葉で、こちらは幾何の言葉で、同じ結論に着きました。
02節の \(\alpha_G\) も同じことを言っています。\(\alpha_G=(|m|/M_{\rm Pl})^2\) には位相の入る隙間がない。重力にとって、質量の虚部は存在しないのと同じ。
── で、終わりません。いま「カイラル回転で写せる」と言ったところに、量子が噛みます。
第8回でやったことを思い出してください。古典的に自由に回せるツマミが、量子化すると痕跡を残す ── アノマリーです。カイラル回転にもそれがあり、しかも二種類あります。
第1項が電磁場、第2項が重力場。\(R\tilde R=\tfrac12\epsilon^{\mu\nu\alpha\beta}R_{\mu\nu\rho\sigma}R_{\alpha\beta}{}^{\rho\sigma}\) はポントリャーギン密度と呼ばれます。
意味はこうです。質量の位相 \(\theta\) をカイラル回転で消したとき、その \(\theta\) は消滅したのではなく作用の \(R\tilde R\) の係数(重力版の \(\theta\) 項)に移動した。帳簿の付け替えであって、消滅ではない。
シリーズを通して三枚目の表になります。
| 古典で自由なツマミ | 量子が残す痕跡 | どこで見えるか | 回 |
|---|---|---|---|
| Weyl \(\Omega\) | 共形アノマリー \(T^\mu_\mu=\tfrac{\beta}{2g}F^2\) | \(\beta\) 関数、陽子質量の99% | 第8回 |
| カイラル \(\alpha\)(電磁) | \(F\tilde F\) = \(\theta_{\rm QCD}\) | 中性子EDM、\(\bar\theta<10^{-10}\) | 番外編④ |
| カイラル \(\alpha\)(重力) | \(R\tilde R\) = \(\theta_{\rm grav}\) | 今回 | 番外編⑤ |
では \(R\tilde R\) は、どこで顔を出すのか。ここからが今回いちばん綺麗なところです。
真空解では、曲率の情報はワイル・スカラー \(\Psi_2\) という複素数ひとつに凝縮します(type D と呼ばれる型の場合)。そして二つの曲率不変量は、その複素数の実部と虚部そのものです。
クレッチマン不変量(おなじみの「曲率の大きさ」)
$$R_{\mu\nu\rho\sigma}R^{\mu\nu\rho\sigma}\ \propto\ \mathrm{Re}\!\left(\Psi_2^2\right)$$ポントリャーギン密度(アノマリーに出てくるほう)
$$R\tilde R\ \propto\ \mathrm{Im}\!\left(\Psi_2^2\right)$$同じ複素数の、実部と虚部。片方が「曲がり具合」、もう片方が「捩れ具合」。
そしてカー解(回転ブラックホール)では、この複素数が閉じた形で書けます。
$$\Psi_2=-\frac{M}{(r-i\,a\cos\theta)^3}$$ここで \(a=J/Mc\) が回転パラメータ。虚部は \(a\cos\theta\) からしか来ていません。 だから ──
重力場に虚部があるのは、時空が回っているときだけ。
\(a=0\)(シュヴァルツシルト)なら \(\Psi_2=-M/r^3\) は実数で、\(R\tilde R=0\)。FRW は共形平坦なのでワイル・テンソルがまるごとゼロ、やはり \(R\tilde R=0\)。宇宙も、静かなブラックホールも、位相を映さない。
| 時空 | \(\mathrm{Re}(\Psi_2^2)\) | \(\mathrm{Im}(\Psi_2^2)\) | 位相は見えるか |
|---|---|---|---|
| FRW(膨張宇宙) | 0 | 0 | 見えない(共形平坦) |
| シュヴァルツシルト | \(\ne0\) | \(\mathbf{0}\) | 見えない |
| カー(回転ブラックホール) | \(\ne0\) | \(\boldsymbol{\ne0}\) | 見える |
数を入れます。半径依存 \(1/r^6\) を割って規格化し、基準点 \(r=2M\)、\(\cos\theta=0.5\) で測ると:
| \(a/M\) | 実部(規格化) | 虚部(規格化) | \(|\mathrm{Im}/\mathrm{Re}|\) |
|---|---|---|---|
| 0(静止) | 1.0000 | 0.0000 | 0 |
| 0.3 | 0.8858 | 0.4270 | 0.48 |
| 0.6 | 0.5863 | 0.7289 | 1.24 |
| 0.9 | 0.2074 | 0.8370 | 4.04 |
| 0.998(ほぼ極限) | 0.0864 | 0.8298 | 9.60 |
\(a/M\approx0.53\) で虚部が実部を追い越します。 高速回転するブラックホールの近くでは、曲率不変量の「虚のほう」が「実のほう」の10倍あるということ。質量の位相を映す鏡としては、これ以上ないほど明るい場所です。
\(a\gtrsim0.9\) で右の絵に符号の反転が現れます。\(\Psi_2^2\) が \((r-ia\cos\theta)^{-6}\) で、偏角が \(6\) 倍されるからです ── 極方向へ向かうと偏角が \(180^\circ\) を越え、虚部の符号が裏返る。\(a/M=0.998\) では地平面のすぐ外で \(6\varphi=251^\circ\) まで回ります。
ここで正直にブレーキを踏みます。上の絵は綺麗ですが、そのままでは観測量になりません。理由が二つ。
理由①:球面平均するとゼロ。 \(\mathrm{Im}(\Psi_2^2)\) は \(\cos\theta\) の奇関数です(北半球と南半球で符号が逆)。だから球面で積分すると消える。数値で確かめると
$$\left\langle \mathrm{Im}(\Psi_2^2)\right\rangle_{r=3M}\ \sim\ 10^{-17}\quad(\text{数値誤差の範囲でゼロ}),\qquad \max\left|\mathrm{Im}\right|=0.837$$理由②:定数の \(\theta_{\rm grav}\) は全微分。 ポントリャーギン密度の積分は
$$\int R\tilde R\,\sqrt{-g}\,d^4x=32\pi^2\times(\text{ポントリャーギン数})$$で、閉じた多様体では整数になります。つまり \(\theta_{\rm grav}\) が定数なら、効くのは時空の位相幾何だけ。ふつうの漸近平坦な時空では何も起きません。QED の \(\theta\) 項が(磁気単極子がなければ)観測不能なのと、まったく同じ事情です。
では、どうすれば効くのか。答えは一つしかありません ── \(\theta_{\rm grav}\) を定数ではなく場にすること。
これには名前があります ── ダイナミカル・チャーン=サイモンズ重力(ジャッキウ=ピ 2003)。そして、そこで起きることが劇的です。
回っていないブラックホールは無傷で、回っているブラックホールだけが壊れる。 06節の \(\mathrm{Im}(\Psi_2)\) の話が、そのまま解の存在/非存在に翻訳されます。
番外編④と合わせて、質量の位相が観測に顔を出しうる場所を全部並べます。
| 見える場所 | 仕組み | 現状 |
|---|---|---|
| 電子EDM | 質量と湯川の位相差 → 電荷分布の前後非対称 | \(d_e/(e\lambda_C)<1.1\times10^{-19}\) |
| 強いCP | \(\arg\det M_q\) → \(F\tilde F\) → 中性子EDM | \(\bar\theta<10^{-10}\) |
| 回転する時空 | 重力アノマリー → \(R\tilde R\propto\mathrm{Im}(\Psi_2^2)\) | \(\theta\) が場のときのみ |
三つとも、次元付きの量が一つも出てこないのが特徴です。EDM は長さの比、\(\bar\theta\) は角度、ポントリャーギン数は整数。第10回の判定手続きどおり、位相の物理は最初から最後まで無次元でした。
07節のダイナミカル・チャーン=サイモンズ重力は修正重力の提案であって、確立した物理ではありません。「カーが解でなくなる」も、その枠組みの中での帰結です。実際に観測で押さえられている上限はまだ緩く、この効果が自然界に存在する証拠はありません。
アノマリーの係数 \(1/384\pi^2\) は規約に依存します(ディラック粒子かワイル粒子か、\(R\tilde R\) の定義に \(1/2\) を含めるか)。文献によって \(768\pi^2\) 等と書かれます。同様に \(R\tilde R\propto\mathrm{Im}(\Psi_2^2)\) の比例係数と符号も規約次第で、本稿が使ったのは「虚部から来る」という定性的な事実だけです。
\(\Psi_2\) の閉じた式は真空の type-D 解に限った話です。物質があるとワイル・スカラーは5つに増え、この単純な言い換えは成り立ちません。図の子午面はボイヤー=リンドクイスト座標をそのまま平面に描いた模式図で、固有距離ではありません。
07節末の「ディラトン=\(\theta_{\rm grav}\)」は本稿の語りです。08節おまけの \(\rho_\Lambda^{1/4}\) と \(m_\nu\) の近さは、説明のない数値的一致にすぎません。そして 03節の \(\delta\) の話は、番外編④の小出の関係式(極質量でだけ成立する経験式)を前提にしています。
まず \(G\) が帳簿でした。次元付きだからです。物理は \(\alpha_G=(m/M_{\rm Pl})^2\) で、これは粒子ごとに違い、ニュートリノからトップまで \(10^{25}\) 開いています。「重力は弱い」は粒子を指定しないと意味を持たない文だった。そして \(\alpha_G=\frac12(r_s/\lambda_C)\) ── \(\alpha_G\) はその粒子がどれだけブラックホールに近いかそのもので、\(\alpha_G=1\) の点がプランク質量です。
電子の \(\alpha_G=1.75\times10^{-45}\) は、\((y_e^2/2)\times(v/M_{\rm Pl})^2\) に厳密に割れます ── フレーバー問題(11.4桁)と階層問題(33.4桁)の積。番外編④とつなげば、左因子は「\(\delta\) がゼロ点まであと \(2.27^\circ\)」でした。\(\delta\) が \(1^\circ\) 動けば、電子に対する重力の強さは 6倍変わります。
肝心の位相は、古典重力にはまったく見えません。\(T_{\mu\nu}\) がカイラル回転で不変だからで、これは番外編④の結論の独立な二つ目の確認です。ところが量子にすると、そのカイラル回転がアノマリーを持つ ── ツケは \(R\tilde R\) の係数に回る。第8回(共形アノマリー)、強いCP(電磁カイラルアノマリー)に続く三枚目です。
そして \(R\tilde R\) が住んでいる場所を突き止めました。真空 type-D では \(R\tilde R\propto\mathrm{Im}(\Psi_2^2)\) で、カーの \(\Psi_2=-M/(r-ia\cos\theta)^3\) の虚部は \(a\cos\theta\) からしか来ない。膨張宇宙(共形平坦)でもシュヴァルツシルトでもゼロ、カーでだけ非ゼロ。しかも \(a/M\approx0.53\) で虚部が実部を追い越し、\(a/M=0.998\) では 9.6倍になります。── 質量に虚部があるかを問うと、それが映るのは重力場の虚部だけで、重力場に虚部があるのは時空が回っているときだけだった。ただし球面平均するとゼロで、\(\theta\) が定数なら全微分。効かせるには \(\theta\) が場でなければならず、そのときシュヴァルツシルトは生き残り、カーだけが解でなくなります。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーで回転パラメータを変え、右の絵(虚部)だけが無から生えてくるのが見えます。「答えを見る」で解答が開きます。