ビッグバン特異点は、時空の性質か ── それとも、帳簿の付け方の問題か
ビッグバン特異点 ── 時間をさかのぼると密度も曲率も無限大に発散し、物理が意味を失う地点。宇宙論のいちばん深い問題のひとつです。ところが第3回から第5回でやってきた共形変換は、\(c\cdot t=\text{一定}\) の宇宙を厳密なミンコフスキー時空に変えてしまいました。平らな時空に特異点はありません。変換ひとつで、宇宙最大の難問が消えたように見える。これは本当でしょうか。今回の答えは「半分だけ本当」です。そして、消えなかった半分のほうが、たぶん面白い。
もとの絵で、曲がり具合を測る量(スカラー曲率)を計算します。\(a\propto t\) の平らな宇宙では、\(\ddot a=0\)、\(\dot a/a=1/t\) なので
今日の値を入れれば \(R=3.5\times10^{-52}\ \mathrm{m^{-2}}\) というごく小さな数ですが、\(t\to0\) では無限大。これがビッグバン特異点です。ところが第3回で作った変換後の計量は
$$d\tilde s^2=-c_0^2d\eta^2+dx^2\qquad\Longrightarrow\qquad \tilde R=0\ \ (\text{どこでも、いつでも})$$ぺったり平ら。おまけに第5回で見た通り、\(w=-1/3\) のときだけ共形時間は \(\eta\to-\infty\) まで取れます。つまり ──
\(c\cdot t=\text{一定}\)(\(w=-1/3\))
$$\eta=t_0\ln\frac{t}{t_0}:\qquad t\in(0,\infty)\ \longrightarrow\ \eta\in(-\infty,+\infty)\quad\text{(全部)}$$比較:放射優勢(\(w=1/3,\ a\propto t^{1/2}\))
$$\eta\propto t^{1/2}:\qquad t\in(0,\infty)\ \longrightarrow\ \eta\in[0,+\infty)\quad\text{(半分だけ)}$$放射の場合は \(\eta=0\) に端が残り、そこから先へは行けません ── 特異点は「時空の縁」として居座ります。\(c\cdot t=\text{一定}\) だけが、縁を無限の彼方へ押しやる。第5回の「ポテンシャルが二次だから頂上に無限の時間がかかる」の、これが姿です。
ミンコフスキー時空は測地的に完備です ── どの粒子も、どの光も、有限の時間で「時空の外」に落ちることがない。共動観測者は \(x=\text{一定}\) の直線を、無限の過去から無限の未来まで走り続ける。始まりが、ない。
「特異点は座標の選び方のせいだ」という考えは、思いつきではありません。第2回で紹介したヴェッテリヒの2013年の論文は、抄録の最後をこう締めています。
さらに 2014 年、バース=スタインハート=トゥロックは、理論を Weyl 不変な形に持ち上げると 測地的に完備な宇宙論が構成でき、ビッグクランチからビッグバンへの遷移を解析的に貫通できることを示しました。ゲージの取り方を変えて「縁」を消す ── 今回やったのと、同じ手口です。
ここまでは、気持ちよく話が進みます。問題はこの先です。
もう一度、二つの式を並べてください。
$$R=\frac{6}{c^2t^2}\ \ (\text{発散する})\qquad\text{と}\qquad \tilde R=0\ \ (\text{どこまでも平ら})$$同じ宇宙の、同じ瞬間の話です。 曲率という「時空の性質そのもの」に見える量が、物差しを取り替えただけで無限大からゼロに変わってしまった。
これは矛盾ではありません。曲率は共形不変ではないからです。第4回で使った変換公式を思い出してください ──
$$R=\phi^{-2}\Big[\tilde R-6\tilde\Box\ln\phi-6(\tilde\partial\ln\phi)^2\Big]$$右辺には \(\tilde R\) 以外の項がずらりと並んでいる。だから \(\tilde R=0\) でも \(R\ne0\) になれる。曲率は、次元を持った量(長さの \(-2\) 乗)なのだから、当然です。次元を持つ量は物差し次第 ── 前シリーズが最初から言い続けてきたことが、ここでも効いています。
✗「変換したら \(\tilde R=0\) だった。だから特異点はない」
✓「特異点があるかどうかは、無次元の量で判定しなければならない」
特異点とは何だったのかを、言い直します。曲率が無限大になること自体が問題なのではありません。問題は 「時空の曲がりのスケールが、物質の量子的な大きさより小さくなってしまう」 こと ── そうなると、古典的な時空も古典的な粒子も、記述として意味を失います。
だから作るべき比は、これです。
二つの絵で、それぞれ計算します。
① 膨張の絵
時空のスケールはハッブル半径 \(c_0/H=c_0t\)。コンプトン波長 \(\hbar/(mc_0)\) は一定。よって
$$N=\frac{c_0t}{\hbar/(mc_0)}=\frac{mc_0^2\,t}{\hbar}$$② 変換後の絵(ミンコフスキー)
幾何は平らなので、長さの基準を持ちません。代わりにディラトンの勾配が唯一のスケールを与えます ── \(\phi=e^{\eta/t_0}\) なので \(\tilde L=c_0|\phi/(d\phi/d\eta)|=c_0t_0\)(一定)。一方コンプトン波長は質量が育つぶん縮んでいく:\(\tilde\lambda_C=\hbar/(\tilde mc_0)=\hbar t_0/(t\,mc_0)\)。よって
$$N=\frac{c_0t_0}{\hbar t_0/(t\,mc_0)}=\frac{mc_0^2\,t}{\hbar}$$まったく同じ式。片方は「時空が縮む」、もう片方は「原子が膨れる」と言っているのに、比を取れば区別がつきません。
そして \(t\to0\) で \(N\to0\)。比は、どちらの絵でも壊れます。 変換後の時空がどれだけ平らでも、この事実は動かせません。
\(N=1\) になる時刻は \(t=\hbar/(mc_0^2)\)、その粒子のコンプトン時間です。三つの質量で計算してみましょう。
| 質量 | \(mc^2\) | \(N=1\) になる時刻 | 変換後の絵での言い方 |
|---|---|---|---|
| 電子 | 511 keV | \(1.29\times10^{-21}\) s | 電子のコンプトン波長が 138 億光年に達する |
| 陽子 | 938 MeV | \(7.0\times10^{-25}\) s | 同上(陽子で) |
| プランク質量 | \(1.22\times10^{19}\) GeV | \(5.39\times10^{-44}\) s | =プランク時間、ぴったり |
最後の行を見てください。プランク質量で \(N=1\) になる時刻を計算すると \(\hbar/(M_{\rm Pl}c^2)=5.39\times10^{-44}\) 秒 ── プランク時間そのものです。つまりこの無次元判定は、「量子重力が必要になる時刻」を正しく指しています。そしてその時刻は、どちらの絵で計算しても同じ。
前シリーズ番外編②の「絶対値は帳簿、差だけが物理」を、もう一段強く言い直すとこうなります ── 特異点かどうかは、時空に書いてあるのではなく、無次元の比に書いてある。
04節で示したのは、\(c\cdot t=\text{一定}\) という素朴なモデルでの話です。ヴェッテリヒのモデルは物質の中身が違い(特定のポテンシャルを持つ「コスモン」場)、彼はそこで曲率スカラーが全時代を通じてほぼ一定にとどまると主張しています。彼の結論をここでの計算で否定したことにはなりません。 ここで示したのは方法のほう ── 「変換で平らになった」だけでは足りず、無次元量まで下りて確かめる必要がある、ということです。
また、\(N\to0\) は「特異点がある」ことの証明でもありません。証明しているのは「その領域では古典的な記述が使えない」ことだけ。そこで本当に何が起きるかは、量子重力の問題として開いたままです ── 前シリーズ最終回で見た、あの開いた扉のままの場所。
\(c\cdot t=\text{一定}\) を共形変換すると、時空はミンコフスキーになり \(\tilde R=0\)、測地的に完備。しかも \(w=-1/3\) のときだけ共形時間が \(-\infty\) まで取れて、ミンコフスキーをまるごと覆う(放射なら半分)。ビッグバンという「時空の縁」は、確かに消えます。ヴェッテリヒが「特異点は場の座標の特異な選び方に由来する」と書き、バースらが Weyl ゲージで測地的完備な宇宙を作ったのは、この事実の上に立っています。
しかし曲率は次元を持つ量で、共形不変ではない。だから \(\tilde R=0\) は何も証明しない。無次元の比 \(N=mc^2t/\hbar\)(時空のスケール ÷ コンプトン波長)を作ると、二つの絵で厳密に同じ式になり、どちらでも \(t\to0\) で壊れる。プランク質量で \(N=1\) となるのは \(5.39\times10^{-44}\) 秒 ── プランク時間ぴったり。消えたのは幾何、残ったのは比。 共形変換は答えではなく、問いを正しい形に立て直す道具でした。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーでゲージを変え、交差時刻が動かない様子が見えます。「答えを見る」で解答が開きます。