「宇宙は膨張していない」── これは冗談ではなく、2013年に出た実在の論文の主張です
第1回で、共形変換 \(\tilde g=\Omega^2g\) という道具を手に入れました ── 各点で物差しの目盛りを取り替える操作です。いきなり、いちばん過激な使い方をしてみましょう。宇宙の膨張を、まるごと消してしまいます。 消えたぶんはどこへ行くのか ── 原子のほうへ行きます。この回で見るのは、「宇宙は膨張しておらず、むしろ原子が縮んでいる」という描像が、観測とまったく矛盾しないということ。そしてそれが、まじめな論文として存在するということです。
「銀河が遠ざかっている」と言うとき、私たちは距離を測っています。では、距離とは何で測るのか。
メートルです。では 1 メートルとは何か。前シリーズ番外編②でやった通り、いまや「光が \(1/299792458\) 秒で進む距離」と定義されています。では 1 秒とは。セシウム原子が出す光の振動 9192631770 回ぶん。結局、すべての物差しは原子に行き着きます。
この比が時代とともに増えている ── それが「宇宙が膨張している」という観測事実の、いちばん正確な言い方です。分子と分母を別々に測る方法は、ありません。 原子の外に、原子と無関係な物差しは存在しないからです。
比が増える理由は、二つあります。
①と②を区別する観測は、原理的に存在しません。測れるのが比だけなら、比が同じなら同じです。
そして②を実現するのが、まさに共形変換です。第1回の \(\Omega\) を \(1/a(t)\)(\(a\) はスケール因子)に取ると、膨張はきれいに割り切れて消えます。消えた代わりに、質量が動きます。
質量が \(a\) に比例して増える。ボーア半径は \(\hbar/(m c\alpha)\) だから、原子は \(1/a\) で縮む。
なぜ質量がこう動くかは、第3回で式から出します(質量項が形を保つには、こう動くしかない)。いまは結果だけ受け取ってください ── 膨張を消したぶんが、そっくり質量に移った。
左端では銀河が寄り集まり、右端では原子がふくらみます。見た目はまったく違うのに、「銀河間距離 ÷ 原子半径 = 0.500」だけが、びくとも動かない。望遠鏡が読み取れるのは、この数字だけです。
「宇宙は膨張していない」を本気でやった人がいます。クリストフ・ヴェッテリヒ、2013年。論文の題は、そのまま “A Universe without expansion”(膨張のない宇宙)。抄録の書き出しを訳すと、こうです。
ただの思考実験ではありません。ヴェッテリヒは具体的なモデルまで作っています ── ヒッグス場に似たスカラー場「コスモン」があり、すべての粒子の質量はそこから生じる。そのポテンシャルがインフレーションと現在のダークエネルギーの両方を担う。そして彼はこう書きます ── 「我々のモデルは、現在のすべての観測と両立する」。
両立するのは当然です。矛盾のしようがないから。測れるのが比だけである以上、比を再現するモデルは全部通ってしまいます。
いちばん気になるのはここでしょう。膨張していないなら、なぜ遠くの銀河の光は赤いのか。
① 膨張の絵
空間が伸びるので、飛んでいる光の波長も一緒に伸びる。届いたときには \(1/a\) 倍に間延びしている。
② 原子が縮む絵
空間は伸びないので、光は出たときのまま、何も変わらずに届く。変わったのは受け取る側 ── 実験室の水素原子が、当時より重くなっている。原子が出す光の振動数はおよそ質量に比例するので、
$$\frac{\nu_{\text{届いた光}}}{\nu_{\text{いまの実験室の水素}}}=\frac{\tilde m(\text{昔})}{\tilde m(\text{今})}=a$$つまり \(1+z=1/a\)。①とまったく同じ式です。「光が伸びた」のではなく「基準のほうが育った」── どちらでも、分光器の目盛りの読みは同じになります。
前シリーズで「光は昔もっと速かった」という第三の言い方も見ました。並べると、こうなります。
| 絵 | 赤方偏移の説明 | \(1+z\) |
|---|---|---|
| ① 空間が伸びる | 飛んでいる光の波長が引き伸ばされる | \(1/a\) |
| ② 光が遅くなる | 昔の光は速く、その落ち幅がそのまま赤み | \(1/a\) |
| ③ 原子が縮む | 光は変わらない。実験室の基準線が育った | \(1/a\) |
三つとも同じ数字が出ます。このシリーズが 10 回かけてやるのは、この三行がなぜ一致するのかを、根っこから理解することです。
ここは正直に行きましょう。答えは 「いいえ」 です。そしてそれは、ヴェッテリヒ自身が抄録に書いています。同じ抄録の、最後の三文。
「同等な場の変数の選び方も存在する」── つまり彼は最初から、これが変数の取り替えであることを明言しています。膨張する絵も、収縮する絵も、静的な絵も、同じ一つの理論の別々の書き方。だから「宇宙は本当は膨張していない」という主張ではないのです。「膨張しているかどうかは、書き方の問題である」という主張です。
そして、それこそがこのシリーズの主題です。第1回の合言葉を、もう一度 ── 次元付きは帳簿、無次元だけが物理。 「銀河間距離」も「原子半径」も次元付きなので帳簿、その比だけが物理。
物理が変わらないなら、書き換える意味はあるのでしょうか。三つあります。
この回で示したのは「二つの絵が観測的に区別できない」ことまでです。ヴェッテリヒのモデルが正しいと言っているのではありません ── というより、彼のモデルの物理的な中身(コスモンのポテンシャルの形、インフレーションとダークエネルギーの説明)は、書き換えとは別に検証されるべき本物の仮説です。書き換えの部分はただですが、モデルの部分はただではありません。
また「原子が縮む」という言い方は、共動座標の格子を基準にしたときの話です。あなたの部屋の中で原子が縮んでいくわけではありません。局所的には、原子は今日も昨日も同じ大きさ ── 比べる相手が銀河のスケールになったときにだけ意味を持つ言い方です。この一線は、前シリーズの「局所的な光速はつねに \(c_0\)」とまったく同じ注意書きです。
すべての物差しは最終的に原子に行き着くので、望遠鏡が測れるのは「銀河間距離 ÷ 原子半径」という無次元の比だけです。この比が増えるのは、分子が増えたから(膨張)でも、分母が減ったから(原子が縮む)でも構いません。共形変換 \(\Omega=1/a\) を使えば膨張はきれいに消え、代わりに質量が \(\tilde m=am\) で育ち、原子が \(1/a\) で縮みます。赤方偏移も同じ式 \(1+z=1/a\) で出る ── 光が伸びたのではなく、実験室の基準線が育った、と言い換わるだけです。
これは実在する論文の主張です(ヴェッテリヒ 2013)。ただし彼自身が抄録で「同等な場の変数の選び方も存在する」と書いている通り、新しい物理ではなく、変数の取り替え。それでも書き換える価値はあります ── 特異点のような問いの形が変わり(第6回)、計算が楽になり、そして何より 「何が本当に物理か」を手続きで判定する訓練になるからです。無次元の比を作れ。動けば物理、動かなければ帳簿。この一手だけで、最終回まで通します。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーで二つの絵を行き来でき、比が動かないことが見えます。「答えを見る」で解答が開きます。