わかる c·t=一定 番外編 ① / 本編完結後の深掘り
「区別できない」を「何なら区別できるか」に変える
質量が変わるとは、
どういうことか
\(\mu=m_p/m_e\) は共形変換で動きません ── だから区別がつかない。
掘ったら、予想していなかった縮退が出てきました。
50 回のあいだ、繰り返し書きました ── 「空間が膨張したのか、原子が縮んだのかは区別できない」。それは正しい。では、何なら区別できるのか。 今回はその一点を掘ります。答えは \(\mu=m_p/m_e\) にあり、そして掘った先に予想していなかった縮退が出てきました。
01なぜ \(\mu\) なのか
\(\mu=1836.15267\) はウェイト \(0\) ── 純粋な共形変換では動かせない
「膨張か収縮か」の区別がつかないのは、まさにこれが理由です。全部の質量が同じ重みで動くので、比が変わらない。逆に言えば ── \(\mu\) が動いたら、それは共形変換ではない何かです。
02ところが \(m_p\) と \(m_e\) は、出どころが違う
02節の結論
\(\mu\) は、アノマリー起源の質量とヒッグス起源の質量の比です。
── 第37回で「量子が 0 の列に数字を書き込んだ」と書きましたが、
その数字を分子に、ヒッグスを分母に持つ唯一の比が \(\mu\) でした。
03だから \(\mu\) は増幅器になる
\(M_Z\) で指定するなら 約 7 倍の増幅。大統一で \(\alpha_s\) と \(\alpha\) が繋がっていれば、文献の見積もりは \(R\approx30\text{〜}50\)(模型依存)
第30回の「増幅率 \(K\)」が、今度は理論側に現れました。 オクロが強かったのは観測が精密だからではなく増幅率 \(10^7\) があったからでしたが、\(\mu\) の場合は理論の中に増幅が入っているのです。
04観測は、\(\alpha\) よりどれだけ厳しいか
| 測定 | 量 | 上限 | ビット |
|---|---|---|---|
| メタノール・メーザー(\(z\approx0.89\)) | \(\Delta\mu/\mu\) | \(10^{-7}\) | \(23.3\) |
| アンモニア吸収(\(z\approx0.68\)) | \(\Delta\mu/\mu\) | \(3.5\times10^{-7}\) | \(21.4\) |
| H\(_2\) クエーサー吸収線 | \(\Delta\mu/\mu\) | \(5\times10^{-6}\) | \(17.6\) |
| クエーサー多重項法(第30回) | \(\Delta\alpha/\alpha\) | \(10^{-5}\) | \(16.6\) |
同じ赤方偏移帯で \(\mu\) のほうが 100 倍きつい。増幅率を掛けて下敷きの結合定数への制限に直すと 700〜3500 倍(9.5〜11.8 ビット)強い。そして報告されている \(\Delta\alpha/\alpha\approx6\times10^{-6}\) は、統一的な変化だと仮定するかぎり \(\mu\) の上限を 420〜3000 倍超過します。
05核心 ── 掘ったら、縮退が出てきた
ここまでは既知の話です。掘り進めて分かったのは、「定数が変わる」は 1 次元の問題ではないということでした。基本パラメータは三つあります:
| 測定 | \(\alpha\) | \(X_e\) | \(X_q\) | \(1\sigma\) |
|---|---|---|---|---|
| Mg/Fe 多重項 | \(1\) | \(0\) | \(0\) | \(10^{-5}\) |
| H\(_2\) Lyman-Werner | \(0\) | \(-1\) | \(0.048\) | \(5\times10^{-6}\) |
| NH\(_3\)・メタノール | \(0\) | \(-1\) | \(0.048\) | \(10^{-7}\) |
| 21cm 対 光学 | \(2\) | \(-1\) | \(-0.039\) | \(10^{-6}\) |
| OH 18cm | \(3.70\) | \(-1.85\) | \(0.002\) | \(10^{-5}\) |
\(X_q\) の列が、どれも極端に小さい。 陽子質量が \(m_q\) に依存するのはシグマ項の \(0.048\) だけだからです。フィッシャー行列を組んで対角化すると:
| 方向 | その方向の \(\sigma\) | 中身 |
|---|---|---|
| 第 1 | \(9.9\times10^{-8}\) | ほぼ \(X_e\)(\(0.999\)) |
| 第 2 | \(4.9\times10^{-7}\) | ほぼ \(\alpha\)(\(0.999\)) |
| 第 3 | \(1.2\times10^{-4}\) | \(99.6\) パーセントが \(X_q\) |
今回いちばん言いたいこと
条件数 1196 倍 ── クォーク質量方向だけが 10.2 ビット悪い。
しかも感度係数を 4 倍振っても(シグマ項 \(0.030\)〜\(0.128\)、\(g_p\) 感度 \(-0.040\)〜\(-0.150\))、
最悪方向はつねに \(X_q\) で 98 パーセント以上 ── この縮退は係数の細部ではなく、構造から来ています。
図:三つの方向の縛られ方。\(\alpha\) と \(X_e\) はよく縛られているのに、\(X_q\) だけが 1000 倍以上ゆるい。ツマミでシグマ項の値を動かしてください ── どこに動かしても、悪い方向は \(X_q\) のままです
06見えない方向は、いちばん効く方向だった
| \(m_q/\Lambda\) が動くと | 感度の係数 | 効く先 |
|---|---|---|
| パイ中間子の質量(\(m_\pi^2\propto m_q\)) | \(0.50\) | 核力の到達距離 |
| 重陽子の束縛エネルギー | \(\approx1\) | 元素合成そのもの |
| ホイル状態の位置 | 大 | 炭素の生成 |
| 陽子・中性子の質量差 | 大 | 陽子の安定性 |
| 陽子質量そのもの | \(0.048\) | 分光が見ているのはここだけ |
06節の結論
分光が見ている \(0.048\) は、いちばん鈍いチャンネルでした。
核物理が効くチャンネル(\(0.5\)〜\(1\))は、分光にまったく載っていません。
── 定数の変化のうち、いちばん影響が大きい方向が、いちばん見えていない。
07ただし、その穴に隠れるのは高くつく
\(m_e/\Lambda\) の変化が \(m_q/\Lambda\) の変化のちょうど 4.8 パーセントであれば、分光には何も見えない
| 隠れたい \(x_3\) | 要る比の精度 | 調整のビット数 |
|---|---|---|
| \(10^{-4}\) | \(2.1\times10^{-2}\) | \(5.6\) |
| \(10^{-3}\) | \(2.1\times10^{-3}\) | \(8.9\) |
穴は空いていますが、通り抜けるには 6〜9 ビットの調整が要ります。 第48回の作法で言えば ── 盲点に隠れる模型は、それ自体が微調整。これが正直な結論です。
08そして \(c\cdot t=\)一定 には、これは効かない
08節の結論 ── 50 回の問いへの答え
「膨張したのか縮んだのか」は区別できません。二つは同じ計量を別の座標で読んだだけだから。
では何なら区別できるのか ──
全部の質量が同じ重みで動く → 共形変換 = 記法(区別できない)
質量が別々の重みで動く → スカラー場が媒介する物理(区別できる)
── その分かれ目を測る量が、まさに \(\mu\) でした。 現在 23.3 ビットで確かめられています。
① 05節の感度係数は文献値で、幅があります。 シグマ項 \(\sigma_{\pi N}\) は格子計算と現象論で 45〜60 MeV とずれがあり、ストレンジ・シグマ項はさらに大きく 20〜60 MeV。\(g_p\) の \(m_q\) 感度も模型依存です ── だから 4 倍振って結論が動かないことを確かめましたが、個々の数字を有効数字まで信用しないでください。
② 05節の \(1\sigma\) 上限は、代表値を一つずつ採ったものです。 実際には系統誤差の扱いで文献ごとに数倍動きます ── 条件数 1196 という値は「1000 倍程度」と読んでください。構造(最悪方向が \(X_q\) であること)は動きませんが、倍率は動きます。
③ 「\(X_q\) が見えていない」は分光についての話です。 オクロ天然原子炉は \(^{149}\)Sm 共鳴が核力に敏感なので \(X_q\) を強く縛りますし(\(10^{-9}\) 程度)、元素合成も重陽子の束縛を通じて縛ります ── 盲点があるのは「分光が届く赤方偏移帯」であって、全時代ではありません。ただしその二点は時代が大きく離れた孤立点です。
④ 03節の増幅率 \(R\approx30\text{〜}50\) は、大統一を仮定した文献の見積もりです。 統一しない模型では \(R\) はまったく違い、1 以下にもなりえます ── 04節の「\(\Delta\alpha\) の主張が殺される」は統一を仮定したときだけの話で、逆に言えば「\(\Delta\alpha\) が本物なら統一していない」という条件文です。
⑤ 本稿に新しい物理はありません。 \(\mu\) の増幅、シグマ項、感度行列はいずれも文献にある内容です(Calmet & Fritzsch 2002、Langacker–Segre–Strassler 2002、Flambaum ら)── 本シリーズの寄与は 08節の言い直し、つまり「区別できない」を「何なら区別できるか」に変換した部分だけです。
練習問題
- 共形変換で \(\mu=m_p/m_e\) は動くか。
答えを見る
動きません。 質量はウェイト \(-1\) なので \(m_p\) も \(m_e\) も同じ重みで動き、比はウェイト \(0\)。「膨張か収縮か」の区別がつかないのは、まさにこれが理由です。逆に、\(\mu\) が動いたらそれは共形変換ではありません。 - \(m_p\) と \(m_e\) の出どころの違いは。
答えを見る
\(m_e=y_e v\) は 100 パーセント ヒッグス起源。\(m_p\) は87〜93 パーセントが \(\Lambda_{\rm QCD}\)(ヒッグス起源はシグマ項の 65〜120 MeV だけ)── そして \(\Lambda_{\rm QCD}\) はトレースアノマリーの産物(第37回)。だから \(\mu\) はアノマリーとヒッグスをまたぐ唯一の比です。 - フィッシャー行列の最悪方向は何か。どれくらい悪いか。
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\(99.6\) パーセントが \(X_q=m_q/\Lambda\) の方向で、\(\sigma=1.2\times10^{-4}\) ── 最良方向より 1196 倍(10.2 ビット)悪い。感度係数を 4 倍振っても最悪方向は \(X_q\) のままで、縮退は構造から来ています。 - その見えない方向は、物理的に重要か。
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いちばん重要です。 \(m_q/\Lambda\) はパイ中間子質量(係数 0.5)、重陽子の束縛エネルギー(\(\approx1\))、ホイル状態、陽子・中性子質量差に効きます。ところが分光が見ているのはシグマ項の 0.048 だけ ── いちばん影響が大きい方向が、いちばん見えていない。 - (やや難)「膨張か収縮か」は測れないが、では何が測れるのか。
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質量の変化が「普遍的」かどうかです。全部が同じ重みで動けば共形変換=記法(区別不能)、別々の重みで動けばスカラー場が媒介する物理(区別可能)── その分かれ目を測る量が \(\mu\) で、現在 23.3 ビットで普遍性が確かめられています。
まとめ 「区別できない」を「何なら区別できるか」に変える
\(\mu=m_p/m_e\) はウェイト \(0\) ── 純粋な共形変換では動きません。だから「空間が膨張したのか原子が縮んだのか」は区別できないのです。
ところが \(m_e\) は 100 パーセント ヒッグス起源、\(m_p\) は87〜93 パーセントが \(\Lambda_{\rm QCD}\) ── つまりトレースアノマリーの産物です(第37回)。\(\mu\) は、アノマリー起源とヒッグス起源をまたぐ唯一の比でした。そのおかげで \(\mu\) は増幅器になり(\(M_Z\) で約 7 倍、統一なら 30〜50 倍)、観測は同じ赤方偏移帯で \(\alpha\) より 100 倍きつい。
掘り進めて出てきたのが縮退でした。定数の変化は \((\alpha,\ X_e,\ X_q)\) の 3 次元の問題で、フィッシャー行列を対角化すると第 3 方向は 99.6 パーセントが \(X_q\)、\(\sigma=1.2\times10^{-4}\)、最良方向より 1196 倍(10.2 ビット)悪い。感度係数を 4 倍振っても最悪方向は \(X_q\) のまま ── 構造から来ている縮退です。
そして見えないその方向が、いちばん物理に効く方向でした ── パイ中間子質量、重陽子の束縛、ホイル状態。分光が見ているシグマ項の \(0.048\) は、いちばん鈍いチャンネルです。ただし穴に隠れるには \(x_2=0.048\,x_3\) を 6〜9 ビットの精度で合わせる必要があり、盲点に隠れる模型はそれ自体が微調整でした。
最後に、50 回の問いへの答えです。「膨張か収縮か」は区別できません ── 同じ計量を別の座標で読んだだけだから。では何なら区別できるか ── 質量の変化が普遍的かどうか。 全部が同じ重みで動けば記法、別々の重みで動けば物理。その分かれ目を測る量が \(\mu\) で、現在 23.3 ビットで確かめられています。
この文書は「わかる c·t=一定」シリーズの番外編①(本編全50話の完結後に書いた深掘り)、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。数値は kenshou/calc55.py と calc56.py で計算しています。本稿に新しい物理はありません ── \(\mu\) の増幅、シグマ項、感度行列はいずれも文献にある内容です(Calmet & Fritzsch 2002、Langacker–Segre–Strassler 2002、Flambaum らの一連の仕事)。本シリーズの寄与は 08節の言い直し、つまり「区別できない」を「何なら区別できるか」に変換した部分だけです。05節の感度係数は文献値で幅があり(シグマ項 45〜60 MeV、ストレンジ・シグマ項 20〜60 MeV、\(g_p\) の感度も模型依存)、だから 4 倍振って結論が動かないことを確かめましたが 個々の数字を有効数字まで信用しないでください。\(1\sigma\) 上限は代表値を一つずつ採ったもので、系統誤差の扱いで文献ごとに数倍動きます ── 条件数 1196 は「1000 倍程度」と読んでください。「\(X_q\) が見えていない」は分光についての話です ── オクロ天然原子炉(\(^{149}\)Sm 共鳴)と元素合成(重陽子の束縛)は \(X_q\) を強く縛りますが、この二点は時代が大きく離れた孤立点です。03節の増幅率 \(R\approx30\text{〜}50\) は大統一を仮定した見積もりで、統一しない模型では \(R\) はまったく違います ── 04節の「\(\Delta\alpha\) の主張が殺される」は統一を仮定したときだけの条件文です。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。