わかる c·t=一定 番外編 ① / 本編完結後の深掘り

「区別できない」を「何なら区別できるか」に変える

質量が変わるとは、
どういうことか \(\mu=m_p/m_e\) は共形変換で動きません ── だから区別がつかない。
掘ったら、予想していなかった縮退が出てきました。

必要な道具:第16回のウェイト表、第30回の増幅率、第37回のアノマリー、第48回の事前分布最悪方向は 99.6% が \(m_q/\Lambda\) ── 10.2 ビットの穴

50 回のあいだ、繰り返し書きました ── 「空間が膨張したのか、原子が縮んだのかは区別できない」。それは正しい。では、何なら区別できるのか。 今回はその一点を掘ります。答えは \(\mu=m_p/m_e\) にあり、そして掘った先に予想していなかった縮退が出てきました。

01なぜ \(\mu\) なのか

共形変換のもとで、質量はウェイト \(-1\)(第16回) $$\tilde m_p=\Omega^{-1}m_p,\qquad \tilde m_e=\Omega^{-1}m_e\qquad\Longrightarrow\qquad \frac{\tilde m_p}{\tilde m_e}=\frac{m_p}{m_e}$$

\(\mu=1836.15267\) はウェイト \(0\) ── 純粋な共形変換では動かせない

「膨張か収縮か」の区別がつかないのは、まさにこれが理由です。全部の質量が同じ重みで動くので、比が変わらない。逆に言えば ── \(\mu\) が動いたら、それは共形変換ではない何かです。

02ところが \(m_p\) と \(m_e\) は、出どころが違う

e
\(m_e=y_e\,v\) ── 100 パーセント ヒッグス起源湯川結合と真空期待値、それだけ
p
\(m_p\) ── 87〜93 パーセントは \(\Lambda_{\rm QCD}\)ヒッグス起源はシグマ項の 65〜120 MeV だけ(938.3 MeV のうち)
!
そしてその \(\Lambda_{\rm QCD}\) は、次元転移で生まれた量トレースアノマリーの産物(第37回)

02節の結論

\(\mu\) は、アノマリー起源の質量とヒッグス起源の質量の比です。
── 第37回で「量子が 0 の列に数字を書き込んだ」と書きましたが、
その数字を分子に、ヒッグスを分母に持つ唯一の比が \(\mu\) でした。

03だから \(\mu\) は増幅器になる

次元転移 $$\Lambda_{\rm QCD}=M\exp\!\left(-\frac{2\pi}{b_0\,\alpha_s(M)}\right) \qquad\Longrightarrow\qquad \frac{d\ln\Lambda}{d\ln\alpha_s}=\frac{2\pi}{b_0\alpha_s}$$

\(M_Z\) で指定するなら 約 7 倍の増幅。大統一で \(\alpha_s\) と \(\alpha\) が繋がっていれば、文献の見積もりは \(R\approx30\text{〜}50\)(模型依存)

第30回の「増幅率 \(K\)」が、今度は理論側に現れました。 オクロが強かったのは観測が精密だからではなく増幅率 \(10^7\) があったからでしたが、\(\mu\) の場合は理論の中に増幅が入っているのです。

04観測は、\(\alpha\) よりどれだけ厳しいか

測定上限ビット
メタノール・メーザー(\(z\approx0.89\))\(\Delta\mu/\mu\)\(10^{-7}\)\(23.3\)
アンモニア吸収(\(z\approx0.68\))\(\Delta\mu/\mu\)\(3.5\times10^{-7}\)\(21.4\)
H\(_2\) クエーサー吸収線\(\Delta\mu/\mu\)\(5\times10^{-6}\)\(17.6\)
クエーサー多重項法(第30回)\(\Delta\alpha/\alpha\)\(10^{-5}\)\(16.6\)

同じ赤方偏移帯で \(\mu\) のほうが 100 倍きつい。増幅率を掛けて下敷きの結合定数への制限に直すと 700〜3500 倍(9.5〜11.8 ビット)強い。そして報告されている \(\Delta\alpha/\alpha\approx6\times10^{-6}\) は、統一的な変化だと仮定するかぎり \(\mu\) の上限を 420〜3000 倍超過します。

◇ ◇ ◇

05核心 ── 掘ったら、縮退が出てきた

ここまでは既知の話です。掘り進めて分かったのは、「定数が変わる」は 1 次元の問題ではないということでした。基本パラメータは三つあります:

三つの独立な方向 $$x_1=\frac{\Delta\alpha}{\alpha},\qquad x_2=\frac{\Delta X_e}{X_e}\ \left(X_e=\frac{m_e}{\Lambda_{\rm QCD}}\right),\qquad x_3=\frac{\Delta X_q}{X_q}\ \left(X_q=\frac{m_q}{\Lambda_{\rm QCD}}\right)$$
測定\(\alpha\)\(X_e\)\(X_q\)\(1\sigma\)
Mg/Fe 多重項\(1\)\(0\)\(0\)\(10^{-5}\)
H\(_2\) Lyman-Werner\(0\)\(-1\)\(0.048\)\(5\times10^{-6}\)
NH\(_3\)・メタノール\(0\)\(-1\)\(0.048\)\(10^{-7}\)
21cm 対 光学\(2\)\(-1\)\(-0.039\)\(10^{-6}\)
OH 18cm\(3.70\)\(-1.85\)\(0.002\)\(10^{-5}\)

\(X_q\) の列が、どれも極端に小さい。 陽子質量が \(m_q\) に依存するのはシグマ項の \(0.048\) だけだからです。フィッシャー行列を組んで対角化すると:

方向その方向の \(\sigma\)中身
第 1\(9.9\times10^{-8}\)ほぼ \(X_e\)(\(0.999\))
第 2\(4.9\times10^{-7}\)ほぼ \(\alpha\)(\(0.999\))
第 3\(1.2\times10^{-4}\)\(99.6\) パーセントが \(X_q\)

今回いちばん言いたいこと

条件数 1196 倍 ── クォーク質量方向だけが 10.2 ビット悪い。
しかも感度係数を 4 倍振っても(シグマ項 \(0.030\)〜\(0.128\)、\(g_p\) 感度 \(-0.040\)〜\(-0.150\))、
最悪方向はつねに \(X_q\) で 98 パーセント以上 ── この縮退は係数の細部ではなく、構造から来ています。

図:三つの方向の縛られ方。\(\alpha\) と \(X_e\) はよく縛られているのに、\(X_q\) だけが 1000 倍以上ゆるい。ツマミでシグマ項の値を動かしてください ── どこに動かしても、悪い方向は \(X_q\) のままです

0.048
\(\alpha\) と \(X_e\)(よく見えている) \(X_q\)(見えていない)

06見えない方向は、いちばん効く方向だった

\(m_q/\Lambda\) が動くと感度の係数効く先
パイ中間子の質量(\(m_\pi^2\propto m_q\))\(0.50\)核力の到達距離
重陽子の束縛エネルギー\(\approx1\)元素合成そのもの
ホイル状態の位置炭素の生成
陽子・中性子の質量差陽子の安定性
陽子質量そのもの\(0.048\)分光が見ているのはここだけ

06節の結論

分光が見ている \(0.048\) は、いちばん鈍いチャンネルでした。
核物理が効くチャンネル(\(0.5\)〜\(1\))は、分光にまったく載っていません。
── 定数の変化のうち、いちばん影響が大きい方向が、いちばん見えていない。

07ただし、その穴に隠れるのは高くつく

縮退の正体は簡単な式 $$\frac{\Delta\mu}{\mu}=0.048\,x_3-x_2=0 \qquad\Longleftrightarrow\qquad x_2=0.048\,x_3$$

\(m_e/\Lambda\) の変化が \(m_q/\Lambda\) の変化のちょうど 4.8 パーセントであれば、分光には何も見えない

隠れたい \(x_3\)要る比の精度調整のビット数
\(10^{-4}\)\(2.1\times10^{-2}\)\(5.6\)
\(10^{-3}\)\(2.1\times10^{-3}\)\(8.9\)

穴は空いていますが、通り抜けるには 6〜9 ビットの調整が要ります。 第48回の作法で言えば ── 盲点に隠れる模型は、それ自体が微調整。これが正直な結論です。

08そして \(c\cdot t=\)一定 には、これは効かない

\(\mu\) はウェイト 0 ── 共形変換では動かないだから \(\mu\) の制限は、このシリーズの主題を一切傷つけない
!
傷つけないのは、強いからではない主張していないから(第1・3回)
28
一方 VSL は \(\Delta\alpha\ne0\) を主張しただから 04節がそのまま追加の負債になる

08節の結論 ── 50 回の問いへの答え

「膨張したのか縮んだのか」は区別できません。二つは同じ計量を別の座標で読んだだけだから。
では何なら区別できるのか ──
全部の質量が同じ重みで動く → 共形変換 = 記法(区別できない)
質量が別々の重みで動く → スカラー場が媒介する物理(区別できる)
── その分かれ目を測る量が、まさに \(\mu\) でした。 現在 23.3 ビットで確かめられています。

正直な線

① 05節の感度係数は文献値で、幅があります。 シグマ項 \(\sigma_{\pi N}\) は格子計算と現象論で 45〜60 MeV とずれがあり、ストレンジ・シグマ項はさらに大きく 20〜60 MeV。\(g_p\) の \(m_q\) 感度も模型依存です ── だから 4 倍振って結論が動かないことを確かめましたが、個々の数字を有効数字まで信用しないでください

② 05節の \(1\sigma\) 上限は、代表値を一つずつ採ったものです。 実際には系統誤差の扱いで文献ごとに数倍動きます ── 条件数 1196 という値は「1000 倍程度」と読んでください。構造(最悪方向が \(X_q\) であること)は動きませんが、倍率は動きます。

③ 「\(X_q\) が見えていない」は分光についての話です。 オクロ天然原子炉は \(^{149}\)Sm 共鳴が核力に敏感なので \(X_q\) を強く縛りますし(\(10^{-9}\) 程度)、元素合成も重陽子の束縛を通じて縛ります ── 盲点があるのは「分光が届く赤方偏移帯」であって、全時代ではありません。ただしその二点は時代が大きく離れた孤立点です。

④ 03節の増幅率 \(R\approx30\text{〜}50\) は、大統一を仮定した文献の見積もりです。 統一しない模型では \(R\) はまったく違い、1 以下にもなりえます ── 04節の「\(\Delta\alpha\) の主張が殺される」は統一を仮定したときだけの話で、逆に言えば「\(\Delta\alpha\) が本物なら統一していない」という条件文です。

⑤ 本稿に新しい物理はありません。 \(\mu\) の増幅、シグマ項、感度行列はいずれも文献にある内容です(Calmet & Fritzsch 2002、Langacker–Segre–Strassler 2002、Flambaum ら)── 本シリーズの寄与は 08節の言い直し、つまり「区別できない」を「何なら区別できるか」に変換した部分だけです。

練習問題

  1. 共形変換で \(\mu=m_p/m_e\) は動くか。
    答えを見る
    動きません。 質量はウェイト \(-1\) なので \(m_p\) も \(m_e\) も同じ重みで動き、比はウェイト \(0\)。「膨張か収縮か」の区別がつかないのは、まさにこれが理由です。逆に、\(\mu\) が動いたらそれは共形変換ではありません。
  2. \(m_p\) と \(m_e\) の出どころの違いは。
    答えを見る
    \(m_e=y_e v\) は 100 パーセント ヒッグス起源。\(m_p\) は87〜93 パーセントが \(\Lambda_{\rm QCD}\)(ヒッグス起源はシグマ項の 65〜120 MeV だけ)── そして \(\Lambda_{\rm QCD}\) はトレースアノマリーの産物(第37回)。だから \(\mu\) はアノマリーとヒッグスをまたぐ唯一の比です。
  3. フィッシャー行列の最悪方向は何か。どれくらい悪いか。
    答えを見る
    \(99.6\) パーセントが \(X_q=m_q/\Lambda\) の方向で、\(\sigma=1.2\times10^{-4}\) ── 最良方向より 1196 倍(10.2 ビット)悪い。感度係数を 4 倍振っても最悪方向は \(X_q\) のままで、縮退は構造から来ています
  4. その見えない方向は、物理的に重要か。
    答えを見る
    いちばん重要です。 \(m_q/\Lambda\) はパイ中間子質量(係数 0.5)、重陽子の束縛エネルギー(\(\approx1\))、ホイル状態、陽子・中性子質量差に効きます。ところが分光が見ているのはシグマ項の 0.048 だけ ── いちばん影響が大きい方向が、いちばん見えていない
  5. (やや難)「膨張か収縮か」は測れないが、では何が測れるのか。
    答えを見る
    質量の変化が「普遍的」かどうかです。全部が同じ重みで動けば共形変換=記法(区別不能)、別々の重みで動けばスカラー場が媒介する物理(区別可能)── その分かれ目を測る量が \(\mu\) で、現在 23.3 ビットで普遍性が確かめられています。

まとめ 「区別できない」を「何なら区別できるか」に変える

\(\mu=m_p/m_e\) はウェイト \(0\) ── 純粋な共形変換では動きません。だから「空間が膨張したのか原子が縮んだのか」は区別できないのです。

ところが \(m_e\) は 100 パーセント ヒッグス起源、\(m_p\) は87〜93 パーセントが \(\Lambda_{\rm QCD}\) ── つまりトレースアノマリーの産物です(第37回)。\(\mu\) は、アノマリー起源とヒッグス起源をまたぐ唯一の比でした。そのおかげで \(\mu\) は増幅器になり(\(M_Z\) で約 7 倍、統一なら 30〜50 倍)、観測は同じ赤方偏移帯で \(\alpha\) より 100 倍きつい

掘り進めて出てきたのが縮退でした。定数の変化は \((\alpha,\ X_e,\ X_q)\) の 3 次元の問題で、フィッシャー行列を対角化すると第 3 方向は 99.6 パーセントが \(X_q\)、\(\sigma=1.2\times10^{-4}\)、最良方向より 1196 倍(10.2 ビット)悪い。感度係数を 4 倍振っても最悪方向は \(X_q\) のまま ── 構造から来ている縮退です。

そして見えないその方向が、いちばん物理に効く方向でした ── パイ中間子質量、重陽子の束縛、ホイル状態。分光が見ているシグマ項の \(0.048\) は、いちばん鈍いチャンネルです。ただし穴に隠れるには \(x_2=0.048\,x_3\) を 6〜9 ビットの精度で合わせる必要があり、盲点に隠れる模型はそれ自体が微調整でした。

最後に、50 回の問いへの答えです。「膨張か収縮か」は区別できません ── 同じ計量を別の座標で読んだだけだから。では何なら区別できるか ── 質量の変化が普遍的かどうか。 全部が同じ重みで動けば記法、別々の重みで動けば物理。その分かれ目を測る量が \(\mu\) で、現在 23.3 ビットで確かめられています。

この文書は「わかる c·t=一定」シリーズの番外編①(本編全50話の完結後に書いた深掘り)、物理好きの高校生・大学生向け読み物です。数値は kenshou/calc55.py と calc56.py で計算しています。本稿に新しい物理はありません ── \(\mu\) の増幅、シグマ項、感度行列はいずれも文献にある内容です(Calmet & Fritzsch 2002、Langacker–Segre–Strassler 2002、Flambaum らの一連の仕事)。本シリーズの寄与は 08節の言い直し、つまり「区別できない」を「何なら区別できるか」に変換した部分だけです。05節の感度係数は文献値で幅があり(シグマ項 45〜60 MeV、ストレンジ・シグマ項 20〜60 MeV、\(g_p\) の感度も模型依存)、だから 4 倍振って結論が動かないことを確かめましたが 個々の数字を有効数字まで信用しないでください\(1\sigma\) 上限は代表値を一つずつ採ったもので、系統誤差の扱いで文献ごとに数倍動きます ── 条件数 1196 は「1000 倍程度」と読んでください。「\(X_q\) が見えていない」は分光についての話です ── オクロ天然原子炉(\(^{149}\)Sm 共鳴)と元素合成(重陽子の束縛)は \(X_q\) を強く縛りますが、この二点は時代が大きく離れた孤立点です。03節の増幅率 \(R\approx30\text{〜}50\) は大統一を仮定した見積もりで、統一しない模型では \(R\) はまったく違います ── 04節の「\(\Delta\alpha\) の主張が殺される」は統一を仮定したときだけの条件文です。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を(印刷版ではスライダーと解答は静止・非表示になります)。

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではツマミでシグマ項を動かすと、悪い方向が変わらないことが見えます。「答えを見る」で解答が開きます。