量子重力自由研究第 5 回 / 壁を叩く

第4回の表の中に、ひとつだけ自分で叩けるものがありました

c=1 の壁を、
自分で叩く 2次元ユークリッド重力は、物質を載せていくと中心電荷 1 のところで壊れます。
CDT にはこの壁が無いとされる ── 本当か、自分の手で確かめました。

必要な道具:三角形分割を書き換える手、そして不変量を毎回検算する根気 自由研究 / 手を動かした記録

第4回は、実験が何も言ってくれないという話で終わりました。 でも表の中にひとつだけ、自分のパソコンで叩けるものがあります。
c=1 の壁 ── 2次元のユークリッド量子重力に物質を載せていくと、 中心電荷が 1 を超えたところで理論が壊れる。これがユークリッド路線が行き詰まった直接の原因です。 CDT にはこの壁が無いとされている。確かめます。

01壁とは何か

2次元重力に中心電荷 \(c\) の物質を載せると、物質の臨界指数が「着替え」ます(第3回の KPZ ドレッシング)。 その着替えの量を与える式が

$$\Delta=\frac{\sqrt{1-c+24\Delta_0}-\sqrt{1-c}}{\sqrt{25-c}-\sqrt{1-c}}$$

です。\(c>1\) で平方根の中が負になる。式が複素数になってしまう。 そして数値実験では、そこで幾何そのものが枝分かれポリマーに潰れることが知られています ── 面がちぎれて、細い首でつながった木のような構造になる。

これは深刻です。物理的な物質(クォークやレプトン)の中心電荷は 1 よりずっと大きい。 壁の向こうに行けないなら、2次元ユークリッド重力に物理を載せられない。

02叩き方

第3回で作った道具がそのまま使えます。イジング模型1枚が \(c=1/2\) なので、 独立なイジングを \(n\) 枚載せれば \(c=n/2\)。 \(n=2\) で壁ちょうど、\(n=8\) で壁の4倍、\(n=16\) で8倍です。

幾何が壊れたかどうかは平均グラフ距離 \(\langle r\rangle\) で見ます。 体積 \(N\) を揃えておけば、

つまり壁を越えると、同じ体積の宇宙が急に細長くなるはずです。

03まず一度、負けた

最初の測定は不十分だった

DT 側では確かに壁が見えました。しかし CDT 側は、第3回の道具では プロファイル固定(各時刻の空間の長さ \(l_t\) が全部同じ)で走らせていました。 それだと体積を時刻のあいだで再配分できない ── もともと \(d_H=2\) に縛られています。

「CDT には免疫がある」と読むには、これでは足りません。 プロファイルが自由に動く CDT を作らないと、この問いは裁けない。

04体積が変わる CDT を作る

必要なのは、葉層を壊さずに三角形の数を変える手です。

手の導出 ── 頂点の挿入

時刻 \(t\) の空間的な辺 \(ab\) を選ぶ。この辺は上の帯の U 三角形 \(A=(a,b,c)\) と 下の帯の D 三角形 \(B=(b,a,d)\) で共有されている。中点に頂点 \(m\) を入れると

$$A\to A_1=(a,m,c),\;A_2=(m,b,c)\quad\text{どちらも U のまま}$$ $$B\to B_1=(b,m,d),\;B_2=(m,a,d)\quad\text{どちらも D のまま}$$

三角形は +2、\(l_t\) は +1、葉層は保たれる。オイラーは \(V{+}1,\,E{+}3,\,F{+}2\) で不変。

逆手(削除)の判定が、きれいに落ちる

CDT ではスライス \(t\) の頂点の次数は \(2+2+u+d\)(\(u,d\) は「その頂点を尖端とする三角形」の数)。 したがって

$$\textbf{次数が 4}\iff u=d=0\iff\textbf{挿入で作られた頂点}$$
詳細釣合いも、グローバルな数え上げ無しで書ける

挿入は半辺を一様に1本引いて空間的なら実行(1辺=半辺2本)、 削除は半辺を引いてその根元の次数が4なら実行(次数4の頂点=半辺4本)。よって

$$\text{挿入}:\min\!\Big(1,e^{-2\lambda}\frac{2N}{N'}\Big),\qquad \text{削除}:\min\!\Big(1,e^{+2\lambda}\frac{N'}{2N}\Big)$$

05そして4つの罠を踏んだ

ここが今回いちばん時間を使ったところなので、全部書きます。

症状直し方
① ループ境界for(i=0;i<N;++i) の中で挿入が \(N\) を増やす。ループが終わらない境界を先に確定させる
② U/D の入れ替えフリップには2つの場合がある。U 三角形は時間的な辺を2本持つので、どちらを共有しているかで結果が違い、片方では三角形の U/D が入れ替わる。更新漏れで、空間的な辺が U-U をつなぐ配位が生まれ、以降が全部狂った不変量(空間的半辺の数=\(N\)、U の枚数=\(N/2\)、空間的辺は必ず U と D をつなぐ)を毎回監査して発見
③ 削除の条件次数4だけでは足りない。まわりの4頂点が全部別で、しかも4枚の並び方まで見ないと、マージで頂点が同一視されトポロジーが変わる(\(V\) が 1 でなく 3 減った頂点にIDが無いので「φ巡回の最小半辺番号」を代表元にして判定
④ 詳細釣合い削除にだけ余分な棄却条件があった。体積が一方的に発散し、平衡が \(\lambda\approx2\)(\(\ln2\) のはず)にずれた削除の条件を挿入側にも同じだけ置く。直したら挿入の通過率が 0.3350 ≒ 1/3 と予測どおりに
教訓 ②と③は、絵を見ていたら絶対に気づかない種類のバグです。動いているように見えるのに、 測っている対象が別物になっている。助かったのは 「この量はこの値でなければならない」という不変量を先に書き出しておいたからでした ── トーラスなら \(V=N/2\)、空間的半辺は \(N\) 本、U は \(N/2\) 枚。 毎回それを検算するコードを入れておくと、壊れた瞬間に分かります。

検証 ── 厳密解でブラケットする

直したあと、20万手打っても曲面が保たれる(トーラスなら常に \(V=N/2\))ことを確認しました。 さらに \(\langle N\rangle\) を第2回の厳密解と突き合わせます。私の手は退化した配位 (\(l_t\) が 1〜2 の短いスライス)を作れないので、答えは厳密解の 「制限なし」と「\(l\ge3\)」のあいだに挟まるはずです。

\(\delta,\,T\)厳密(\(l\ge1\))モンテカルロ厳密(\(l\ge3\))挟まったか
0.05, 20130182239
0.02, 40404509646
0.01, 6085311141244

3つとも挟まりました。道具として信用できます。

◇ ◇ ◇

06叩いた結果

体積を \(N\approx2000\) に揃え、同じ温度(\(\beta=0.85\))、同じ物質。 違うのは因果律を課すかどうかだけです。

図:中心電荷 \(c\) を上げたときの宇宙の平均距離。実測値です。ツマミで \(c\) を動かしてください
ユークリッド DT(因果律なし) CDT(因果律あり・プロファイル自由) c = 1(壁)
計算中…
\(c\)00.51.01.52.03.04.08.0
DT \(\langle r\rangle\)25.028.229.930.530.839.961.7
CDT \(\langle r\rangle\)25.825.225.825.726.026.626.2
CDT \(\langle r\rangle/\sqrt N\).578.562.576.571.579.587.573
結果

CDT に c=1 の壁は無い。ユークリッド DT にはある。

DT は \(c\approx1.5\sim2\) で折れ、そこから伸びて \(c=4\) で 2.5倍。 有限サイズスケーリングでも \(d_H\) が \(2.76\to1.78\)(枝分かれポリマーの 2 に近い)と落ちます。
CDT はイジング16枚(\(c=8\)、壁の8倍)まで、まったく動きません ── \(\langle r\rangle/\sqrt N\) は ±2% の散らばりで、傾向すらありません。

07なぜ因果律が効くのか

第3回で見た仕掛けと同じです。因果律を外した幾何は、細い首を作れます。 向きの違う2つのスピン領域を首でつなげば、ドメイン壁のコストがほとんどタダになる。 物質が増えるほど、幾何は「自分をちぎって物質に合わせる」ほうが得になり、 ついには面が木のように枝分かれしてしまう。

因果律は、その首を禁じます。空間的な辺をフリップできないので、時空はちぎれない。 だから物質をいくら載せても、幾何は幾何のままでいられる。

シリーズを通しての一行(更新)

第1回:測度が運動項の符号を決める。
第3回:測度が次元物質の臨界指数を決める。
今回:測度がどれだけ物質を載せられるかを決める。

4つとも、作用は一文字も変えていません。動かしたのは 「空間的な辺をフリップしてはいけない」の一行だけです。

08宿題をひとつ、その場で片付ける

ここまでの測定は \(\beta=0.85\) に固定していました。でも壁の主張は臨界理論についてのものです。 厳密には、各 \(c\) で比熱のピーク(=物質の臨界点 \(\beta_c\))を先に探してから測るべきです。 やり直しました。

\(c\)0(物質なし)0.51.01.52.03.04.06.0
DT の \(\beta_c\)0.850.800.850.900.850.800.80
その \(\beta_c\) での \(\langle r\rangle\)25.025.231.631.536.655.454.672.7

臨界点で測ると、DT の応答が始まる場所が \(c\approx1\) に寄りました。 固定 \(\beta\) では 1.5〜2 に見えていたものが、\(c=0.5\to1.0\) のところで 25.2 → 31.6 と最初の段差を作ります。既知の壁の位置と、ずっと近い。

CDT 側については、そもそも心配が要りませんでした。\(c=4\) で \(\beta\) を振っても:

\(\beta\)0.500.650.750.850.951.10
CDT の \(\langle r\rangle\)(\(c=4\))26.3426.5426.2726.0426.0526.18

±1% で平ら。CDT の幾何は、温度のどこにいても物質に反応しません ── 臨界点かどうかは、そもそも関係なかった。

09もうひとつ、自分の物差しを疑う

壁の向こうが本当に枝分かれポリマーなのかを、別の量でも確かめました。 スペクトル次元 \(d_s\)(第3回で使った、拡散の戻り確率から出る次元)です。 枝分かれポリマーの既知の値は \(4/3\approx1.33\)(\(d_H=2,\,d_w=3\) から)。

N=16,200\(c=0\)\(c=4\)
DT の \(d_s\)1.42 → 1.81(2 へ上昇中)1.16 → 1.03
CDT の \(d_s\)1.48 → 1.711.43 → 1.72(動かない)

DT だけ落ちて、CDT は動かない ── 壁は \(d_s\) でも見えます。 ところが値が合いません。1.03 は 4/3 ではない。\(d_H\) のほうは 1.78 で 2 に近いのに。

こういうときにやること 「既知の値と合わない」を理論の話にする前に、まず自分の物差しを疑う。 答えの分かっている対象を用意して、同じコードで測ってみる。

一様ランダム木を使いました(Prüfer 列から復元)。これは臨界 Galton–Watson 木を 頂点数で条件付けたものに等しく、\(d_H=2,\;d_s=4/3\) が既知です。同じ拡散コードで測ると:

測定値真の値
ランダム木の \(d_H\)1.7702
ランダム木の \(d_s\)(N=32000, σ≤205)1.02〜1.254/3
DT の \(c=4\)(N=16200, σ≤349)\(d_H\)=1.78, \(d_s\)=1.03〜1.16——
答え

ぴったり同じ値でした。私の測り方は、答えの分かっている枝分かれポリマーに対しても \(d_H=1.77\)、\(d_s\approx1.0\) と低く出る。つまり

DT の \(c=4\) 相は、ちゃんと枝分かれポリマーだった。
ずれていたのは相ではなく、私の物差しのほう。

大きい木で確かめると収束します ── \(N=400{,}000\)、\(\sigma=256\sim1024\) で \(d_s=1.345,\,1.445,\,1.325\)。4/3 です。 枝分かれポリマーは \(d_w=3\) で拡散が遅いので、\(d_s\) を出すには \(\sigma\) を桁で 大きく取らないといけなかった。

(第3回の「\(d_s\) は CDT と DT を区別できない」はこの影響を受けません。 あちらは \(N=124{,}287\)、\(\sigma\le709\) でプラトーが 2.04〜2.07 と上から来ており、 低くバイアスされる領域ではないからです。)

正直な線(更新版)

臨界点で測り直したことで「\(\beta\) を固定していた」という留保は消えました。 それでも残るものを書いておきます。

閾値の位置は精密には決まっていません。臨界点で測ると \(c\approx1\) 付近から 応答が始まりますが、\(N\approx2000\) という小さい系では壁がぼやけ、\(\beta_c\) の決定自体も 15点スキャンで ±0.05 の粗さです。主張しているのは 「壁がある/無い」という定性的な差までです。

それから、私の CDT のモンテカルロは退化した配位を作れないぶん、厳密な CDT アンサンブルより わずかに狭い ── これは上のブラケットで定量化してあります。

練習問題
  1. KPZ の式が \(c>1\) で壊れるのはなぜか。式のどこを見ればよいか。
    答えを見る
    \(\sqrt{1-c}\) の中身。\(c>1\) で負になり、\(\Delta\) が複素数になる。 物理的な「次元」が複素数になることはあり得ないので、その先では理論の記述が破綻している。
  2. CDT で「頂点の次数が 4」が削除の判定に使えるのはなぜか。
    答えを見る
    スライス \(t\) の頂点の次数は \(2+2+u+d\)(上の帯の U 三角形2枚、下の帯の D 三角形2枚は必ず付く。 \(u,d\) はその頂点を尖端とする三角形の数)。次数4 ⟺ \(u=d=0\) ⟺ 挿入で作られた4枚パターン。
  3. 壁を越えると \(\langle r\rangle\) が大きくなるのはなぜか。
    答えを見る
    \(d_H\) が 4 から 2 に落ちるから。同じ体積 \(N\) でも \(\langle r\rangle\sim N^{1/d_H}\) なので、 \(d_H\) が小さいほど直径は大きい。枝分かれポリマー(木)は体積の割にひょろ長い。
  4. (やや難)不変量の検算コードを先に書いておくことが、なぜ効いたのか。
    答えを見る
    ②と③のバグは、シミュレーションを止めも落としもしない。動いているように見えるのに、 測っている対象が「曲面」でなくなっている。出力だけ見ていても気づけない。 「この量はこの値でなければならない」を先に書き出して毎回検算するのが唯一の防御。 トーラスなら \(V=N/2\)、空間的半辺は \(N\) 本、U は \(N/2\) 枚。

まとめ ── 壁は、因果律で消える

2次元ユークリッド重力は中心電荷 \(c>1\) で壊れます(KPZ の式が複素数になり、 幾何が枝分かれポリマーに潰れる)。これがユークリッド路線が物理的な物質量を扱えない直接の原因です。

確かめるために体積が変わる CDT を書きました。葉層を保つ頂点の挿入・削除で、 逆手の判定は「頂点の次数が 4」に落ちます。詳細釣合いも、両側とも半辺を一様に引く形にすれば グローバルな数え上げ無しで書けます。 4つの罠を踏み、不変量(トーラスなら \(V=N/2\))の検算で全部見つけました。 \(\langle N\rangle\) が第2回の厳密解にブラケットされることも確認しています。

結果:同じ体積・同じ温度・同じ物質で、DT は \(c\approx1.5\sim2\) で折れて 2.5倍に伸び、 CDT は \(c=8\) まで動かない。

因果律は「細い首」を禁じます。時空がちぎれないから、物質は幾何を着替えさせられない。 ── 第1回から数えて4つ目の帰結が、またあの一行から出てきました。

この文書は「量子重力自由研究」シリーズ第5回です。2次元ユークリッド量子重力の \(c=1\) 障壁 (KPZ 公式が \(c>1\) で複素数になること、数値的に枝分かれポリマー相へ移行すること)と、 CDT がこの障壁を持たないことは、いずれも文献で知られた結果です (Knizhnik–Polyakov–Zamolodchikov、David、Distler–Kawai、および Ambjørn, Anagnostopoulos & Loll 1999 ほか)。 本文の数値はすべて筆者が独立に実装・測定したものです。体積可変 CDT の頂点挿入・削除の手、 「次数4」による逆手の判定、詳細釣合いの受理率はいずれも筆者が導出し、 トポロジー不変量(トーラスで \(V=N/2\))を毎手検算し、\(\langle N\rangle\) が第2回の厳密解に ブラケットされることで検証しています。\(\beta=0.85\) は各 \(c\) の臨界点ではなく、 DT の閾値位置(\(c\approx1.5\sim2\))は有限サイズのため既知の \(c=1\) とずれています。 主張しているのは「壁がある/無い」という定性的な差までです。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を。

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面では c のツマミで、2つの宇宙の運命が分かれるのが見えます。