考える波 第 23 回 / 第 X 部・仮定を壊す

この連載がずっと置いてきた仮定を、正面から壊す

非線形 ──
「フィルタ」という言葉が使えなくなる場所 第 1 回から使ってきた「フィルタ」「伝達関数」は、すべて線形性を前提にしています。
壊すと ── 入れていない周波数が生まれ、伝達関数が定義できなくなる。
★ ところが第 IV 部の三つの制約は、全部 生き残りました。

必要な道具:第 1, 8, 9, 10, 14, 16 回計算:kenshou/hisenkei.js

第 15 回で枠組みの限界を四つ挙げました。第 22 回で①(定常性)を塞ぎました。
残るいちばん大きな穴が、②の線形性です。今回はそこを正面から壊します。

01この連載が置いてきた仮定

「フィルタ」という言葉の中身 $$L[a\,x+b\,y]=a\,L[x]+b\,L[y]\qquad\textbf{★ 重ね合わせ}$$

重ね合わせが効くから、正弦波ごとに分けて考えられた ── 効かないなら「周波数応答」という概念自体が成り立たない

性質線形では非線形では中身
重ね合わせ成り立つ★ 壊れる入力を分けて考えられない
伝達関数 \(H(\omega)\)定義できる★ 定義できない応答が入力の大きさに依る
周波数の保存保たれる★ 混ざる入れていない周波数が出る
フーリエ分解の意味完全限定的分けても独立に扱えない

02いちばん簡単な非線形 ── 新しい周波数が生まれる

二乗の項を足すだけ $$y=x+\varepsilon x^2,\qquad x=\sin(2\pi\cdot1000\,t)+\sin(2\pi\cdot1100\,t),\qquad \varepsilon=0.1$$
周波数 [Hz]振幅正体
10001.000000入力 \(f_1\)
11001.000000入力 \(f_2\)
00.200000★ 直流(整流された分)
1000.100000★ 差 \(f_2-f_1\)
21000.100000★ 和 \(f_1+f_2\)
20000.050000★ 二倍音 \(2f_1\)
22000.050000★ 二倍音 \(2f_2\)

02節の中心

二つ入れたのに、七つ出てきました。
線形フィルタには絶対にできないことです ── 線形なら「入れた周波数を強めるか弱めるか」しかできない。

差の 100 Hz に注目してください。★ 入力より低い周波数が生まれています。
これが混変調で、オーディオでは最も嫌われる歪みです ── 高調波は倍音なので音楽的ですが、差音は不協和になるから。

03歪みを数値で測る ── 線形性は「小ささ」だった

\(a_2\)\(a_3\)THD [%]たとえ
000.0000完全に線形
\(10^{-4}\)00.0050高級オーディオ
\(10^{-3}\)00.0500ふつうのアンプ
\(10^{-2}\)00.5000安物のスピーカー
0.105.0000★ 02節で使った値
0.30.313.69★ ギターの歪みエフェクタ

03節の結論

人間が歪みに気づくのは、おおよそ 1 % 以上 からと言われます。
つまり日常の「線形な世界」は、0.1 % 程度の非線形を無視した近似でした。

線形性は自然の性質ではなく、小ささの結果だった。

04伝達関数が定義できなくなる ── ダフィング振動子

ばねを少しだけ硬くする(振幅が大きいほど硬い) $$\ddot x+2\gamma\dot x+\omega_0^2x+\beta x^3=F\cos(\omega t),\qquad \gamma=0.05,\ \beta=0.3,\ F=0.3$$

周波数をゆっくり上げたとき下げたときの応答を比べます。線形なら同じになるはずです。

\(\omega\)上げたとき下げたとき
1.001.084091.084090.00000
1.201.625611.625610.00000
1.241.732330.65685★ 1.07548
1.301.888170.457901.43028
1.402.123790.316641.80714
1.422.150490.29819★ 1.85230(最大)
1.500.240820.240820.00000
2.000.099850.099860.00001

04節の中心 ── ここが決定的

同じ周波数・同じ入力なのに、答えが二つあります。どちらになるかは「そこへ至った経路」で決まる ── ヒステリシス
\(\omega=1.24\) から \(1.42\) までが二値領域で、上げると \(1.44\) で落ち、下げると \(1.22\) で跳ね上がります。

伝達関数 \(H(\omega)\) は「周波数を入れたら応答が決まる」という関数です。
答えが二つある以上、関数として定義できません。

── 第 1 回から使ってきた「フィルタ」という言葉が、ここで使えなくなります。

05★ 何が壊れ、何が生き残るか ── ここが本題

道具出た回非線形では理由
重ね合わせ第 1 回★ 壊れる非線形の定義そのもの
伝達関数・フィルタ描像第 1 回★ 壊れる04節のヒステリシス
スペクトルを傾ける描像第 1 回△ 限定的周波数が混ざるため
★ 因果律第 8 回◎ 生き残る出力が入力より先に出ないのは変わらない
★ 帯域幅定理第 9 回◎ 生き残るフーリエ変換自体の性質だから
★ 時間の矢(階数の偶奇)第 10 回◎ 生き残る\(t\to-t\) の性質は非線形でも同じ
★ 次元解析第 14 回◎ 生き残るむしろ非線形でこそ主役(乱流)
★ 情報は虚軸に住む第 21 回◎ 生き残る第二法則は非線形でも成り立つ

05節 ── この回いちばんの発見

壊れるのは第 I 部の「フィルタ」という描像だけ。
第 IV 部の三つの制約は、全部 生き残る。

理由も明確です ── 「フィルタ」は線形性の言葉ですが、

因果律・帯域幅・時間の矢は、線形性ではなく
「時間が一方向にしか進まない」ことから来ている。

★ そして第 21 回で見たとおり、その一方向性は複素周波数平面の虚軸のことでした。
虚軸から来た制約は、非線形でも生き残る。

06非線形の強さを測る ── 全部 同じ形の無次元量

分野中身記号
流体レイノルズ数 \(Re\)\((u\cdot\nabla)u\ /\ \nu\nabla^2u\)\(UL/\nu\)
非線形光学非線形位相 \(\varphi_{\rm NL}\)\(n_2I/n_0\)\(\gamma PL\)
重力コンパクト性\(GM/(rc^2)\)第 15 回
音響非線形パラメータ\((B/A)\cdot(u/c)\)音の大きさに比例
場の理論結合定数相互作用項 / 自由項\(\alpha,\ \alpha_s\)

全部「非線形項を線形項で割った無次元量」です。第 7 回の「意味があるのは無次元量だけ」が、ここでも効いています。

場面\(U\) [m/s]\(L\) [m]\(Re=UL/\nu\)流れ
精子の遊泳\(10^{-5}\)\(5\times10^{-5}\)\(5\times10^{-4}\)★ 完全に線形(粘性が支配)
毛細血管の血流\(10^{-3}\)\(8\times10^{-6}\)\(2.7\times10^{-3}\)★ 完全に線形
水道の蛇口10.01\(10^{4}\)乱流
自動車(100 km/h)27.84\(7.4\times10^{6}\)乱流
地球の大気10\(10^{7}\)\(6.7\times10^{12}\)★ 完全に非線形

06節 ── 線形な世界に住むと、泳ぎ方が変わる

精子の世界は \(Re\sim10^{-4}\) ── 完全に線形です。だから「慣性で滑る」ことができず、鞭毛を止めた瞬間に止まる。

★ さらに深い帰結があります ── 線形な世界では、時間反転対称な動きでは前に進めません(ホタテ貝定理)。
貝のように「開いて閉じる」を繰り返しても、元の場所に戻るだけ。だから微生物はらせん状に回る鞭毛のような、時間反転で元に戻らない動きを使います。

第 10 回の「時間の矢は階数の偶奇に住む」が、生物の形を決めていました。

07非線形が作るもの ── ソリトン

非線形は壊すだけではありません。分散と釣り合うと、形が保たれます。

二つの効果が打ち消しあう $$\text{分散:波は広がろうとする(第 16 回)}\qquad\text{非線形:強いところほど位相が遅れる}$$ $$N^2=\frac{\gamma P_0T_0^2}{|\beta_2|}=1\qquad\textbf{★ 基本ソリトンの条件}$$
パルス幅 \(T_0\) [ps]必要なピーク電力 \(P_0\) [mW]分散長 \(L_D\) [km]
1153850.05
56151.25
101545.00
203820.0
506.2125

07節の結論

20 ps のパルスなら 38 mW ── 実用的な値です。実際、ソリトン伝送は長距離光通信で検討され、一部で使われました。

★ 波の言葉でまとめると ──
線形な分散だけなら、パルスは必ず広がる(第 16 回)。
非線形だけなら、波形は歪んで壊れる(02節)。

★ 二つが釣り合うと、どちらも起きない ── これがソリトン。

08摂動論はいつまで効くか

展開パラメータ摂動論
QED(電子の \(g-2\))\(1/137\)◎ 5 ループまで計算済み
QCD(高エネルギー)0.118○ 3〜4 ループ
QCD(低エネルギー)\(\sim1\)× 摂動論が使えない → 格子計算
グラフェン(裸)2.19× 第 17 回。机の上の強結合
重力(地表)\(7\times10^{-10}\)◎ 線形近似で 10 桁
重力(中性子星表面)0.345△ 非線形が効く
重力(地平面)0.5× 枠組みごと使えない

08節の結論

第 15 回で「地球上では 10 桁 の精度で線形」と書きました。
だから「波の言葉」がこれほどよく効いた ── それは幸運であって、自然の性質ではありませんでした。

練習問題

  1. ラジオの「混変調」と、オーディオの「高調波歪み」の違いを、02節の表で説明せよ。
    答えを見る
    どちらも同じ二乗の項から出ますが、出る場所が違います
    高調波(2000, 2200 Hz)は入力の整数倍 ── 倍音なので音楽的に許容されます
    混変調(100, 2100 Hz)は入力の和と差 ── 入力と無関係な周波数なので、不協和に聞こえます
    ★ ラジオでは強い局の信号が弱い局に混入する原因になり、02節の「差の 100 Hz」がまさにそれです。
  2. 非線形なのに「因果律が生き残る」のはなぜか。
    答えを見る
    因果律は「出力が入力より先に出ない」という時間順序の条件で、線形性とは無関係だから。
    ただし第 8 回のクラマース=クローニッヒ関係は線形応答関数についての定理なので、そのままでは使えません。
    非線形にも拡張があります(非線形感受率 \(\chi^{(2)}, \chi^{(3)}\) に対する分散関係)── 「因果律 = 解析性」という構造自体は、次数ごとに保たれます。
  3. 精子が「ホタテ貝のように泳げない」ことと、第 10 回の関係は。
    答えを見る
    どちらも時間反転で何が起きるかの話です。
    第 10 回:偶数階の項は \(t\to-t\) で不変 ── だから可逆。
    本回:\(Re\ll1\) の流れは慣性項(非線形)が消え、粘性項だけの線形方程式になります。その方程式は時間について 1 階で、しかも係数が時間に依らないので、「開いて閉じる」を逆回しすると完全に元へ戻る
    だから前に進むには、形の変化そのものが時間反転で元に戻らない必要がある ── らせんを回す、波を打つ、といった動き。
    流体のレイノルズ数が、生き物の推進機構を決めていました。

まとめ 壊れたのは線形性の言葉だけ

第 1 回から使ってきた「フィルタ」「伝達関数」は、すべて重ね合わせを前提にしていました。二乗の項を足すだけで ── 二つ入れて七つ出る(直流・差・和・二倍音)。線形フィルタには絶対にできないことです。

歪み率で測ると、人間が気づくのは 1 % 以上から。日常の「線形な世界」は 0.1 % 程度の非線形を無視した近似で ── 線形性は自然の性質ではなく、小ささの結果でした。

ダフィング振動子では、同じ周波数・同じ入力に対して答えが二つあります(\(\omega=1.24\sim1.42\) で二値、差は最大 1.85)。関数として定義できない以上、「伝達関数」という言葉が使えません。

★ ところが第 IV 部の制約は、全部 生き残りました ──
因果律・帯域幅定理・時間の矢、そして次元解析。

理由は明確です ── 「フィルタ」は線形性の言葉ですが、三つの制約は「時間が一方向にしか進まない」ことから来ている。第 21 回の言葉では、虚軸から来た制約は非線形でも生き残る。

非線形の強さはどの分野でも「非線形項/線形項」という無次元量で測られます(\(Re\)、\(n_2I/n_0\)、\(GM/rc^2\))。精子の世界は \(Re\sim10^{-4}\) で完全に線形 ── だからホタテ貝のようには泳げず、らせんを回す。そして分散と非線形が釣り合うとソリトンになります(20 ps なら 38 mW)。

この文書は「考える波」シリーズ第 23 回です。計算は kenshou/hisenkei.js で行っています。本回の数値について:第 02・03 節の非線形は「出力が入力の多項式」という最も単純な形(無記憶非線形)で、実際の増幅器やスピーカーは記憶を持つ非線形(前の状態に依存する)なので、歪みの出方はもっと複雑です。THD の値は \(a_2, a_3\) を仮定した計算値で、実機の測定値ではありません(「高級オーディオ」等のたとえは桁の目安)。第 04 節のダフィング振動子は \(\gamma=0.05,\beta=0.3,F=0.3\) での数値解で、跳躍の位置はこれらの値に強く依存します。掃引は各周波数で 60 周期の過渡を捨ててから振幅を測っており、より遅い掃引では跳躍点がわずかに動きます。第 06 節のレイノルズ数は代表値からの概算です。ホタテ貝定理(パーセルの定理)は低レイノルズ数流れについての厳密な結果ですが、本稿はその要旨を述べただけで導出していません。ソリトンの条件式は非線形シュレーディンガー方程式の基本ソリトンの標準的な形で、\(\gamma=1.3\times10^{-3}\)/(W·m)、\(\beta_2=-20\) ps²/km という標準的な光ファイバの値を使っています。第 05 節の「非線形でも生き残る」という判定は本稿の整理であり、各項目について厳密な証明を与えたものではありません ── とくに非線形版のクラマース=クローニッヒは次数ごとの定式化が必要で、線形の場合ほど単純ではありません。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を。

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。「答えを見る」で解答が開きます。