考える波 第 8 回 / 第 IV 部・波に課される制約

たった一行が、全部を縛る

因果律 ──
フィルタは、未来を知らない 「すべてはフィルタ」という見方に、物理が課す条件はただ一つ ── \(h(t)=0\)(\(t<0\))
入力より先に出力は出ない。それだけです。
ところがこの一言から、分散も、総和則も、理想フィルタの禁止も出ます。

必要な道具:第 1〜2 回計算:kenshou/inga.js

ここまで「物理はフィルタの連なり」と見てきました。では、どんなフィルタでも許されるのか。
許されません。そして禁止の仕方が、驚くほど強い。

01まず、禁止されるものを見る

「遮断周波数までは全部 通し、その上は全部 止める」── 理想的な低域通過フィルタ。この伝達関数を逆フーリエ変換すると:

理想フィルタのインパルス応答 $$h(t)=2f_c\,\mathrm{sinc}(2f_c t)$$
\(t\) [ms]\(h(t)/h(0)\)判定
\(-2.00\)0.000000★ 未来を使っている
\(-1.00\)\(-0.000000\)★ 未来を使っている
\(-0.50\)\(-0.000000\)★ 未来を使っている
\(-0.25\)0.636620★ 未来を使っている
0.001.000000
\(+0.25\)0.636620

01節の結論

理想フィルタは、物理的に実現できません。
\(t=-0.25\) ms で応答が 0.64 もある ── 入力が来る 0.25 ms 前に、もう出力が出ている。

「遷移帯域が要る」のは技術の限界ではなく、因果律の帰結でした。

02一般則 ── クラマース=クローニッヒ関係

\(h(t)\) が片側なら、その変換 \(\chi(\omega)=\chi'+i\chi''\) は上半平面で解析的になります。コーシーの積分定理から:

クラマース=クローニッヒ $$\chi'(\omega)=\frac1\pi\,\mathrm{P}\!\!\int\frac{\chi''(\omega')}{\omega'-\omega}d\omega',\qquad \chi''(\omega)=-\frac1\pi\,\mathrm{P}\!\!\int\frac{\chi'(\omega')}{\omega'-\omega}d\omega'$$

★ 実部と虚部は独立ではない。片方から他方が決まる

実際に確かめます。ローレンツ振動子(減衰調和振動子)\(\chi(\omega)=1/(\omega_0^2-\omega^2-i\gamma\omega)\) で、虚部だけを使って実部を再現します。

\(\omega\)\(\chi'\)(直接)\(\chi'\)(K-K 積分)相対差
0.301.0941451.094145\(6.1\times10^{-13}\)
0.601.5094341.509434\(4.1\times10^{-13}\)
0.902.7737232.773723\(2.0\times10^{-13}\)
1.20\(-1.751592\)\(-1.751592\)\(3.8\times10^{-13}\)
2.00\(-0.327511\)\(-0.327511\)\(2.0\times10^{-12}\)

02節の中心

13 桁 一致しました。吸収(虚部)だけから、分散(実部)が完全に再現できる。

これは近似ではありません。因果律という一行から出る、厳密な関係です。

03物理的な意味 ── 吸収なしに、分散なし

条件帰結意味
吸収がゼロなら\(\chi''\equiv0\Rightarrow\chi'=\)一定屈折率が振動数によらない = 分散なし
どこかで吸収があれば\(\chi'\) が振動数依存必ず分散する
逆も真分散があれば吸収がある★ 透明で分散する媒質は存在しない

ガラスが色を分ける理由

プリズムが虹を作るのは、ガラスが紫外に吸収帯を持っているからです。可視光では完全に透明なのに、遠くの吸収線が分散を作っている ── それが因果律の要求です。
(この主題は姉妹シリーズ「わかる屈折」の「屈折と吸収は同じ関数」と同じ話です。)

そして第 5 回で使った \(\Delta\alpha_{\text{had}}\) も、この関係で得られていました ── \(e^+e^-\to\)ハドロンの断面積(虚部)を測り、分散関係で実部に変換する。計算できない量を、測定と因果律で埋めている。

04総和則 ── 積分すると、電子の数が出る

f-sum rule $$\int_0^\infty \omega\,\varepsilon''(\omega)\,d\omega=\frac\pi2\,\omega_p^2,\qquad \omega_p^2=\frac{ne^2}{\varepsilon_0 m}$$

★ 吸収スペクトルを全周波数で積分すると、電子の数密度が出る

驚くべきなのは、これが振動子の位置にも幅にもよらないことです。振って確かめました。

\(\omega_0\)\(\gamma\)\(\int\omega\varepsilon''d\omega\)\(\pi/2\) からの相対差
0.50.101.570791\(3.2\times10^{-6}\)
1.00.201.570786\(6.4\times10^{-6}\)
2.00.501.570771\(1.6\times10^{-5}\)
5.01.001.570746\(3.2\times10^{-5}\)

04節の中心

位置も幅も変えたのに、全部 \(\pi/2\)。
総和則は「何個あるか」だけを数えていて、どんな形で吸収するかには依らない。

★ だから実測スペクトルの検算に使えます ── 積分が合わなければ、見落とした吸収帯がある。

05第 1〜2 回の操作を、因果律で採点する

操作判定理由
微分 \(d/dt\)○ ぎりぎり因果的\(h(t)=\delta'(t)\)。\(t=0\) に集中しており、\(t<0\) には無い
積分 \(\int_0^t\)○ 因果的\(h(t)=\) ステップ関数。過去だけを見る
分数階(前進)○ 因果的記憶核 \((t-\tau)^{-\alpha}\) は過去のみ
理想低域通過× 非因果的sinc が両側に広がる(01 節)
ヒルベルト変換× 非因果的★ 位相を 90° 回すだけの操作も、未来が要る

05節の中心

面白いのは最後の二つです。「振幅は変えず位相だけ 90° 回す」という、一見 無害な操作が非因果的。
因果律は「何を通すか」ではなく「実部と虚部の関係」を縛っています。

そして第 2 回の分数階微分は、ちゃんと因果的でした ── 記憶核が過去しか見ないから。あの「記憶」は、因果律と両立する形をしていたのです。

06どこまで急に切れるか ── ペイリー=ウィーナー

因果的な応答が持てる「切れ味」の上限 $$\int\frac{\bigl|\ln|\chi(\omega)|\bigr|}{1+\omega^2}\,d\omega<\infty$$

これを満たさない = 減衰が速すぎる = 因果的に実現できない

減衰の形可否理由
\(1/\omega\)(一次のフィルタ)\(\ln\) は対数的にしか増えない
\(e^{-\omega/\omega_c}\)\(\ln\) が線形。積分は収束する
\(e^{-\omega^2/\omega_c^2}\)(ガウス)×★ \(\ln\) が \(\omega^2\) で増える。発散 ── 実現できない
ある周波数から厳密に 0×\(\ln\) が \(-\infty\)。理想フィルタ

ガウシアンフィルタは、厳密には因果的でない

画像処理で日常的に使えるのは、時間方向ではなく空間方向だからです。
空間には「未来」が無いので、因果律の制約がかかりません。── 同じ数式でも、どの軸に適用するかで可否が変わる。

練習問題

  1. 「吸収がゼロなら分散もゼロ」を、日常の例で説明せよ。
    答えを見る
    真空です。真空はどの振動数も吸収しないので、どの振動数も同じ速さ \(c\) で進みます(分散なし)。
    一方ガラスや水は、紫外や赤外に吸収帯を持つので、可視光でも分散する ── 虹ができる。
    「透明なのに虹を作らない物質」は、因果律により存在しません。
  2. 総和則が実験の検算に使える理由。
    答えを見る
    積分値が電子の数密度だけで決まり、スペクトルの形によらないから。
    測ったスペクトルを積分して \(\pi\omega_p^2/2\) に足りなければ、見落とした吸収帯がどこかにあるということです。
    「何を測り忘れたか」を、測る前に知ることができる── 強力な道具です。
  3. ヒルベルト変換が非因果的なのに、実際の信号処理で使われるのはなぜか。
    答えを見る
    遅延を入れるから。全体を \(T\) だけ遅らせれば、\(-Tただし完全ではないので、有限長で打ち切った近似を使います。
    「非因果的な操作=遅延を許せば近似できる操作」── リアルタイム処理で遅延が許されない場面では、精度が落ちます。

まとめ 未来を使うな、それだけ

「すべてはフィルタ」という見方に、物理が課す条件はただ一つ ── \(h(t)=0\)(\(t<0\))

そこから理想フィルタの禁止が出ます(sinc が両側に広がる ── \(t=-0.25\) ms で応答 0.64)。遷移帯域が要るのは技術ではなく原理の限界でした。

そしてクラマース=クローニッヒ関係。虚部(吸収)だけから実部(分散)が決まります ── ローレンツ振動子で 13 桁 一致を確認しました。帰結は「透明で分散する媒質は存在しない」── プリズムが虹を作るのは、ガラスが紫外に吸収帯を持つからです。

総和則はさらに強く、\(\int\omega\varepsilon''d\omega=\pi\omega_p^2/2\) が振動子の位置にも幅にもよらない(\(10^{-5}\) で確認)。何個あるかだけを数えている。

そして第 1〜2 回の操作を採点すると ── 分数階微分はちゃんと因果的でした(記憶核が過去しか見ない)。一方「位相だけ 90° 回す」ヒルベルト変換は非因果的。

因果律は「何を通すか」ではなく「実部と虚部の関係」を縛っている。

この文書は「考える波」シリーズ第 8 回です。計算は kenshou/inga.js で行っています。本回の数値について:K-K の数値検証は、主値積分を「特異点を引き算して正則化する」方法で行いました(素朴に格子点を飛ばすと共鳴付近で 30 % ずれます ── 実際に一度 踏みました)。13 桁の一致は、被積分関数が有理関数で滑らかなためで、実測スペクトルに適用する際はこれほどの精度は出ません。総和則の数値積分は上限 \(\omega=2\times10^4\) で打ち切っており、相対差 \(10^{-5}\) はこの打ち切りによるものです(\(\gamma=0.02\) の細い共鳴では格子が足りず \(4\times10^{-3}\) まで悪化します)。クラマース=クローニッヒ関係とペイリー=ウィーナーの条件はいずれも確立した定理で、本稿で導出したものではありません ── 本稿がやったのは数値による確認です。ローレンツ振動子は単一振動子・振動子強度 1 の理想化で、実際の物質では多数の振動子の和になります。 ── 印刷する場合はブラウザの「印刷」から「PDF に保存」を。

印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。「答えを見る」で解答が開きます。