考えるAIと物理 ── 第 13 回
AI・計算 × 物理の境界を、点でなく線で辿る

記憶の値段 予測に効かない記憶は、熱になる ── 学習の熱力学を一粒の粒子で測る

2026-10-27 / 第4回の Landauer(1 ビットを消す値段)と第5回の「学習の熱力学」をつなぐ。全部ガウス過程にして情報量を厳密に出す。検証は付録に
四行の要約
  1. 信号を追いかける系は、信号についての記憶を持つ。 その記憶のうち、次の信号の予測に効かない分(非予測的な情報)が、散逸する仕事の下限になる(Still–Sivak–Bell–Crooks 2012)。
  2. 不等式は全 12 条件で成り立ち、破れなかった。 比 W_diss / (I_mem − I_pred) は 1.14 〜 5.2。
  3. きつくなるのは、信号が予測しやすく、系がゆっくり追うとき(比 1.14〜1.23)。緩むのは、系が信号を精密に追いすぎるとき(比 4.7〜5.2)。細部まで覚えると、覚えた分だけ熱を払う。
  4. これは学習の過適合の熱力学版である。 予測に効かない細部を覚えることは、情報の無駄ではなく、エネルギーの無駄として測れる。LLM の文脈の記憶にも同じ不等式が当てはまる(ただし測る道具がまだない)。

00先に仕分け表

線格付けこの日の検証
W_diss ≥ kT (I_mem − I_pred)教科書(Still ら 2012、PRL)12 条件で成立、比 1.14〜5.2
ガウス過程の相互情報量 = −½ ln(1 − r²)教科書—
トラップの平行移動では ΔF = 0、散逸 = 平均仕事教科書(確率熱力学)—
「精密に追うほど緩む」= 過適合の熱力学この地図の語りk = 10 で比 4.7
LLM の文脈記憶への当てはめ語り(未測定)—

01設計:全部ガウスにする

情報量を推定で濁らせないため、系を全部ガウス過程にする。信号 x_t は相関 a の Ornstein–Uhlenbeck 過程(分散 1)。系は、中心が x_t にあるばね定数 k の調和トラップに入った過減衰のブラウン粒子で、温度 T = 1。一歩ごとに (1) トラップの中心が x_t から x_{t+1} に跳ぶ(このとき粒子に仕事 W = k/2[(s − x_{t+1})² − (s − x_t)²] がなされる)、(2) 粒子が新しいトラップの中で時間 τ だけ緩和する(厳密な OU の緩和)。粒子の位置 s_t が「系の記憶」である。

測るのは三つ。記憶の情報量 I_mem = I(s_t; x_t)、予測に効く情報量 I_pred = I(s_t; x_{t+1})、散逸した仕事 W_diss(トラップの平行移動では自由エネルギーが変わらないので、平均の仕事そのもの)。ガウスなので I = −½ ln(1 − r²) が厳密で、r は相関係数。主張は

$$W_{\rm diss} \;\ge\; k_BT\,\big[I(s_t;x_t) - I(s_t;x_{t+1})\big]$$

右辺は「覚えているが、次を当てるのに役立たない情報」。それが熱の下限になる、というのが Still らの定理である。第4回の Landauer(1 ビットを消すのに kT ln 2)は、この不等式の「記憶を全部捨てる」場合にあたる。

02結果

計算40 万ステップ、一歩あたりの量(nat)、T = 1
信号の相関 akkτI_memI_pred非予測 = I_mem − I_predW_diss比
0.510.20.0390.0090.0300.1525.2
0.5110.2240.0480.1770.3892.2
0.5150.3480.0670.2810.5001.8
0.51051.1960.1281.0674.9944.7
0.50.210.0550.0130.0420.0781.9
0.910.20.1710.1330.0380.0701.9
0.9110.3130.2380.0760.0941.23
0.9150.3460.2580.0880.1011.15
0.91051.1950.6660.5290.9941.9
0.90.210.0800.0640.0160.0191.14

03読み:過適合の熱力学

k が大きいトラップは、信号の細部(次の瞬間には消える雑音)まで忠実に覚える。それは学習でいう過適合で、普通は「汎化誤差」で測る。この不等式は、同じことを熱で測る。覚えた細部のうち予測に効かない分は、kT を単位として必ず熱になる。

第5回の四行目に「LLM の文脈のうち次の単語に効かない部分を覚えておくことが、そのまま熱のコストになる」と書いた。ここで見たのはその一粒子版で、不等式の形はそのまま LLM に当てはまる。違うのは、LLM では I_mem と I_pred を測る道具がまだ無いことだけである(文脈の情報量の推定は、第5回の正直な線に書いたとおり届いていない)。

線として:第1回の温度(η/N)、第4回の Landauer(kT ln 2)、この回の非予測情報(kT × nat)。三つとも「情報 1 単位 = kT」という換算で、k_B は情報と熱の両替レートである(『わかる温度』第1回の k_B と同じ)。

04正直な線

どこで線が切れるか
まとめ
  1. Still, Sivak, Bell, Crooks (2012) Phys. Rev. Lett. 109, 120604 / Sekimoto『確率エネルギー論』/ Seifert (2012) Rep. Prog. Phys. 75, 126001
  2. Landauer (1961) / Bérut ら (2012)(第4回)
  3. スクリプト:scripts/thermo_prediction.py(出力 thermo_prediction_out.txt)