考えるAIと物理 ── 第 10 回
AI・計算 × 物理の境界を、点でなく線で辿る

壁は表現にある 符号問題 ── 負の確率をサンプリングできない、という計算の壁の正体

2026-10-27 / 第7回で「NP 困難と証明された壁」と呼んだ符号問題を、第8・9回の負の確率の線で読み直す。検証は付録に
四行の要約
  1. 符号問題とは、負の重みを正の確率でサンプリングしようとすることである。 平均の符号 ⟨sign⟩ = e^{−VΔf} が体積で指数的に消え、誤差は 1/⟨sign⟩ で爆発する。2 次元 U(1) の θ 項で実測した。
  2. 同じ量を別の変数で書くと、重みが全部正になる。 指標展開(双対表現)では Z(θ) の項はすべて正で、L = 24 で ⟨sign⟩ = 10⁻⁶ だった問題が、和一つで厳密に出る。壁は物理ではなく表現にある。
  3. フェルミオンの符号問題は、第8回の節の問題そのものである。 拡散(正のウォーカー)は節を越えられず、ボソンに崩れる。節を知っていれば固定節法で正しい答えが出て、知らなければ ⟨sign⟩ が e^{−(E_F−E_B)t} で消える。
  4. Troyer–Wiese の NP 困難は「一般の場合」の定理。 個別の問題では基底の取り替えで壁が消えることがあり、それを探す仕事(双対変数、固定節、複素ランジュバン、契約)が今の最前線である。

00先に仕分け表

線格付けこの日の検証
⟨sign⟩ = Z(θ)/Z(0) = e^{−VΔf}(指数の壁)教科書L = 4〜24、厳密値と一致、L ≥ 12 で信号が消える
2 次元 U(1) + θ 項は指標展開で厳密に解け、項はすべて正教科書(Wiese 1989、Bonati ら)負の項の割合 0
フェルミオンの符号問題 = 節の問題、固定節法教科書(Anderson 1975、Ceperley–Alder 1980)ボソン 1.00、固定節 1.97(dt → 0 で 2)
節を解放すると ⟨sign⟩ ∝ e^{−(E_F−E_B)t}教科書(Ceperley–Alder 1984)減衰率 ≈ 1(予想 1)
一般の符号問題は NP 困難Troyer–Wiese 2005(定理)—
「壁は表現にある」= 負の確率の線の帰結この地図の語り—

01壁を測る:θ 項のある 2 次元 U(1)

第2回の 2 次元 U(1) ゲージ理論に、トポロジカル項 e^{iθQ}(Q = Σ_P φ_P/2π はトポロジカル電荷)を足す。重みが複素になるので、普通のモンテカルロでは「θ = 0 の正の重みでサンプリングして、cos θQ を後から掛ける」(再重み付け)しかない。すると

$$\langle \mathrm{sign}\rangle \;=\; \langle\cos\theta Q\rangle_{\theta=0} \;=\; \frac{Z(\theta)}{Z(0)} \;=\; e^{-V\,\Delta f}$$

で、Δf は一プラケットあたりの自由エネルギーの差。V = L² とともに指数で消える。再重み付けした観測量の統計誤差は 1/⟨sign⟩ で膨らむので、計算の費用は体積の指数になる。これが符号問題の壁である。

計算β = 2、θ = π/2、Δf = 0.0238。メトロポリス法 4000 測定、厳密値は指標展開
LV厳密 Z(θ)/Z(0)MC ⟨cos θQ⟩負の重みの割合相対誤差
4160.7150.726 ± 0.00713%0.01
8640.2180.239 ± 0.01038%0.04
121440.0320.028 ± 0.01149%0.40
162562.3×10⁻³0.014 ± 0.01149%0.82
245761.1×10⁻⁶−0.023 ± 0.01151%—

L = 12 で信号が誤差に沈み、L = 24 では厳密値 10⁻⁶ を 4000 測定では見られない(10¹⁰ 回要る)。負の重みの割合は 50% に近づく:正と負がほぼ同数で打ち消し合い、残りが指数的に小さい。

02壁が消える:双対表現

同じ Z(θ) を、リンク変数でなく「プラケットごとの電荷 n」で書き直す(指標展開)。e^{β cos φ + iθφ/2π} を e^{inφ} で展開すると、リンクの積分が全プラケットの n を同じ値に揃え、

$$Z(\theta) = \sum_{n\in\mathbb Z} c_n(\theta)^V,\qquad c_n(\theta) = \int_{-\pi}^{\pi}\frac{d\phi}{2\pi}\,e^{\beta\cos\phi}\cos\!\Big(\big(\tfrac{\theta}{2\pi}-n\big)\phi\BBig)$$

V が偶数なら各項は正で、負の項の割合はゼロ。L = 24 の 1.1×10⁻⁶ はこの和を 13 項足しただけの数で、上の表の「厳密」の列はこれである。同じ物理量が、ある変数では指数の壁で、別の変数では和一つ。壁は物理にあるのではなく、重みを正に取れない表現にある。

補足:負の確率の線
第8回で、拡散が量子になれないのは負の確率を持てないからだと書いた。符号問題は同じことの計算版で、「負の重みを持つ和を、正の確率のサンプリングで近似しようとすると、打ち消し合いの分だけ指数的に損をする」。Wigner 関数の負の体積(第8回、ψ₁ で 0.21)と、ここの「負の重みの割合 50%」は、同じ量の二つの顔である。

03フェルミオンの符号問題 = 節

電子は反対称なので、基底状態の波動関数は節を持つ。虚時間の拡散(拡散モンテカルロ、第2回の熱核そのもの)は正のウォーカーで ψ を表すので、符号を運べない。第8回の Nelson と同じ障害が、今度は計算の壁として現れる。1 次元の調和トラップに閉じ込めた 2 個のフェルミオン(厳密に E_F = 2、ボソンなら E_B = 1)で三通り試した。

計算2 万ウォーカー、dt = 0.01、成長の推定量
方法E(t = 8)厳密何が起きたか
(i) 制約なしの拡散1.005E_B = 1ボソンに崩れる。符号を持てない拡散の自然な行き先
(ii) 固定節(x₁ = x₂ を越えたウォーカーを消す)1.936(dt = 0.0025 で 1.967)E_F = 2節を教えれば正しい。1 次元では節が厳密に分かる。残りは √dt の偏り
(iii) 節を解放(越えたら符号を反転)—⟨sign⟩ が e^{−t} で消える(下表)
t2468
⟨sign⟩0.1270.013−0.005−0.026
e^{−(E_F−E_B)t}0.1350.0182×10⁻³3×10⁻⁴
雑音の床 1/√N0.0070.0070.0070.007

t = 2 → 4 の減衰率 ln(0.127/0.013)/2 = 1.1(予想 E_F − E_B = 1)。t ≥ 6 で雑音に沈む。

第1回 の壁は体積の指数、こちらは虚時間の指数で、指数の中身はどちらも「自由エネルギーの差」である(ボソンとフェルミオンのエネルギー差 × 時間)。3 次元以上では節の位置が分からないので、固定節法は「試行関数の節」を使う近似になり、それが今の電子構造計算の精度を決めている。第2回のヘリウムの計算で変分法を使ったのは、節を扱わずに済む 2 電子だったからである。

04一般には壁、個別には扉

Troyer と Wiese (2005) は、一般の符号問題を多項式時間で解く方法があれば NP 完全問題が解ける、ことを示した。だから「符号問題を一般に解く」は無理筋である。だが 第2回 のとおり、個別の問題では変数を取り替えると壁が消える。今の最前線は、この扉を探す仕事になっている。

方法何をするか効く場所
双対変数(02)電荷・ワールドラインで書き直して重みを正にU(1)、O(N)、一部のフェルミオン模型
固定節(03)節を試行関数で与える連続空間の電子系(近似)
メロン・クラスター符号の違う配位を対にして相殺特定の格子フェルミオン
複素ランジュバン、Lefschetz thimble積分路を複素平面に変形(第8回の側方 Borel 和と同じ発想)有限密度の一部、収束の保証が課題
テンソルネットワークサンプリングせず縮約する低次元、低エンタングルメント

第7回で「未熟と壁を混ぜないこと」と書いた。符号問題は一般には壁だが、どの個別問題に扉があるかは未熟の側で、まだ分かっていない。

05換算表

符号問題これまでの線での名前回
⟨sign⟩ = e^{−VΔf}自由エネルギーの差 × 大きさ(温度の線)1
負の重みの割合 → 50%Wigner 関数の負の体積8
フェルミオンの節拡散が越えられない節、Nelson の切れ目8
固定節法節を外から教える(位相の情報を補う)8, 9
双対表現で正になる標準部分を持つ変数を選ぶ(第7回の帳簿)7
積分路の複素化側方 Borel 和、Stokes8, 9
NP 困難未熟ではなく壁7

06正直な線

どこで線が切れるか
まとめ
  1. Troyer & Wiese (2005) PRL 94, 170201 / Wiese (1989) / Bonati, D'Elia ら(2D U(1) の θ 項)
  2. Anderson (1975) / Ceperley & Alder (1980, 1984) / Foulkes ら (2001) Rev. Mod. Phys. 73, 33
  3. Gattringer & Langfeld (2016) 双対変数の総説 / Alexandru ら (2022) Rev. Mod. Phys. 94, 015006(複素化した積分路)
  4. スクリプト:scripts/sign_problem.py、scripts/fermion_node_dmc.py(出力 *_out.txt)