考えるAIと物理 ── 第 8 回
AI・計算 × 物理の境界を、点でなく線で辿る

拡散は量子になれるか 足せない級数と、越えられない節 ── どちらも「曖昧さ」が物理量だった

2026-10-27 / 第7回の末尾の二本の線を掘る。Nelson の確率力学はどこで切れるか、発散級数は本当に足せないのか。検証は付録に
四行の要約
  1. 拡散は一時刻の量子力学を正確に再現する(Nelson 1966)。重ね合わせの振動する密度を、D = ħ/2m の拡散過程が 0.5% で追う。
  2. 二時刻の相関で切れる。 波動関数の節は越えられない峠で、拡散はそこで分断される(エルゴード性の破れ、第1・4回)。量子力学は位相を持つので分断されない。
  3. 切れる理由は定理になる。 正の確率ではどうやっても再現できず、再現できるのは位相空間の負の確率(Wigner 関数)だけ。節の正体は負の確率である。
  4. 発散級数は「足せない」のではなく「そのまま足してはいけない」。 Borel 和は g = 1 でも 12〜16 桁出る。不安定な側では和の曖昧さが崩壊率そのものになり、積分でも量子力学でも比 1.000 で一致した。

00先に仕分け表

線格付けこの日の検証
Nelson 過程の一時刻密度 = \|ψ\|²教科書(Nelson 1966、定理)⟨x⟩ 0.5%、⟨x²⟩ 0.3%
二時刻相関で量子力学と食い違うGrabert–Hänggi–Talkner 1979C(π):Nelson +1.27、量子 −1.50
正の確率過程では C(π) = −C(0) を出せない(Cauchy–Schwarz)自明な定理—
Wigner 関数の負の部分が必要(Hudson 1974)教科書符号つきなら両立、切ると両方壊れる
Borel–Padé 和は厳密解と一致教科書積分 10⁻⁴⁵、非調和振動子 10⁻¹⁶
側方 Borel 和の虚部 = 崩壊率(Stokes 現象、resurgence)Écalle、Zinn-Justin、Dunne–Ünsal積分:比 0.97→1、量子力学:比 1.000
「節 = 負の確率」と「曖昧さ = 崩壊率」が同じ型の主張この地図の語り—

01拡散は、一時刻なら量子になれる

Nelson (1966) の確率力学:粒子は拡散係数 D = ħ/2m のブラウン運動をし、速度場は波動関数から b = (ħ/m)[Re + Im](∇ψ/ψ) で決まる(流れの速度 + 浸透圧の速度)。すると粒子の密度が |ψ(x,t)|² に一致する、というのが定理である。第1回のウィック回転が「虚時間の拡散 = 量子力学の静的な量」だったのに対し、こちらは実時間の拡散で動く密度を追う。

計算調和振動子の重ね合わせ (ψ₀+ψ₁)/√2、20 万粒子、刻み 2×10⁻⁴(ħ = m = ω = 1)
t⟨x⟩ Nelson⟨x⟩ 量子⟨x²⟩ Nelson⟨x²⟩ 量子
0+0.707+0.7071.0141.000
1.5+0.046+0.0501.0081.000
3.0−0.699−0.7001.0031.000
4.5−0.152−0.1491.0051.000
6.0+0.674+0.6791.0021.000

速度場は節(ψ = 0)で発散するので、刻みを細かくし、速度に上限を置いた。最初の版(刻み 10⁻³)では節を跨いだ粒子が飛ばされて ⟨x²⟩ が 15 まで膨れた。

02二時刻で切れる

励起状態 ψ₁ は x = 0 に節があり、二つの山に分かれている。粒子を片方の山から出し、二時刻の相関 C(t) = ⟨x(t)x(0)⟩ を測る。量子力学の対称化した相関は Re⟨1|x(t)x(0)|1⟩ = (|x₁₀|² + |x₁₂|²) cos t = 1.5 cos t。

計算ψ₁、速度場 b = 1/x − x(実の ψ なので浸透圧の項だけ)
tNelson C(t)量子 1.5 cos t節を跨いだ粒子
01.501.500%
π/21.280.000.2%
π1.27−1.500.4%
2π1.251.500.8%

Nelson の値は片方の山の平均の二乗 (2/√π)² = 1.273 に落ち着く。節を跨いだ粒子は数値の漏れで、刻みを 1/5 にすると 1.9% → 0.4% に減る(連続極限ではゼロ)。

量子力学の相関は振動して符号を変える。粒子は節を越えられないので、相関は正のまま。一時刻では同じ、二時刻では別物。節は第1回・第4回でいう「越えられない峠」で、拡散はそこでエルゴード性を失う。量子力学が失わないのは、位相を持つからである。Nelson 自身も 2005 年の「確率力学の謎」でこの立場を離れた。

03なぜ切れるか:節は負の確率

切れ目は Nelson の作り方の欠陥ではなく、正の確率全体に対する定理である。

定理(自明)
定常な実の確率過程について、Cauchy–Schwarz より |C(π)| ≤ C(0)。等号は x(π) = −x(0) がほぼ確実に成り立つときに限る。量子力学は C(π) = −C(0) を要求するので、どんな正の確率過程も、時間 π でちょうど符号を反転する決定論的な写像を含まなければならない。連続な拡散にはできない。

では何ならできるか。位相空間 (x, p) で古典的な振動子の流れ x(t) = x cos t + p sin t を使い、初期分布に Wigner 関数 W(x,p) を取ると、一時刻の密度も二時刻の相関も量子力学に一致する(二次のハミルトニアンでは厳密)。ただし ψ₁ の Wigner 関数は原点で負(W(0,0) = −1/π)で、負の体積は 0.21 ある。

計算ψ₁ の Wigner 関数(数値積分、公式と 7×10⁻¹⁵ で一致)を重みにした古典流
重みρ(x=0), t=0ρ(x=0), t=π/4C(0)C(π)
量子力学の要求001.5−1.5
Wigner(符号つき)0.0000.0001.500−1.500
Wigner の負の部分を切って正規化0.2250.2251.250−1.250
正の積分布 ψ₁²(x)ψ₁²(p)0.0000.4231.500−1.500

符号つきの Wigner 関数だけが、節(ρ(0) = 0 がすべての時刻で保たれること)と相関の両方を満たす。負の部分を切ると節が埋まり、正の積分布は相関は出せるが π/4 で節が埋まる。Hudson (1974) の定理 ── Wigner 関数が非負なのはガウス状態だけ ── がこの表の中身で、節の正体は位相空間の負の確率である。拡散が量子になれないのは、負の確率を持てないからだ、と一行で言える。

04発散級数は「そのまま足してはいけない」だけ

第7回で、摂動級数は n! で発散し、最適な打ち切りでもインスタントン e^{−1/4g} の誤差が残ると書いた。だが係数を n! で割り(Borel 変換)、Padé 近似で解析接続し、ラプラス積分で戻せば、級数は足せる。

計算Borel–Padé(Padé [30/30]、50〜60 桁精度)
対象g最適打ち切りBorel–Padé
積分 Z(g) = ∫e^{−x²/2−gx⁴/4}0.023×10⁻⁷7×10⁻⁴⁵
1.0(使えない)8×10⁻¹³
非調和振動子 E₀(g)、H = p²/2 + x²/2 + gx⁴0.11×10⁻²1×10⁻¹⁶
(摂動級数 60 次、Rayleigh–Schrödinger 漸化式)1.04.5×10⁻¹1×10⁻¹¹

非調和振動子の係数:0.5, 0.75, −2.625, 20.81, −241.3, 3581, …、60 次での比 e₆₀/e₅₉ = −179 ≈ −3k(Bender–Wu 1969 の大次数の振る舞い)。厳密値は 600 基底の対角化。

05曖昧さ = 崩壊率(Stokes 現象)

g < 0 ではポテンシャルが下に開き、状態は不安定になる。このとき Borel 変換に実軸上の特異点が現れ、ラプラス積分の路をその上に避けるか下に避けるかで、和の虚部の符号が変わる。この曖昧さは欠陥ではなく、トンネルによる崩壊率を運んでいる、というのが resurgence の主張である。積分と量子力学の二段で確かめた。

計算側方 Borel 和の虚部 vs 独立に求めた崩壊率
対象gIm(Borel 和)崩壊率(独立計算)比
積分(鞍点 e^{−1/4\|g\|}/√2)−0.054.61×10⁻³4.76×10⁻³0.97
−0.21.84×10⁻¹2.03×10⁻¹0.91
非調和振動子(複素スケーリングの共鳴 E − iΓ/2)−0.022.983×10⁻⁷2.983×10⁻⁷1.000
−0.053.347×10⁻³3.347×10⁻³1.000
−0.082.465×10⁻²2.465×10⁻²1.000

積分の比が 1 からずれるのは一インスタントン近似の O(g) 補正。量子力学では近似を使わず(複素スケーリングは厳密な数値法)、4 桁で一致した。実部も 8 桁一致。

核心
摂動級数の「足し方の曖昧さ」は、そのまま非摂動的な崩壊率である。級数は非摂動の情報を欠いているのではなく、曖昧さという形で持っている。超準解析の言い方なら、超有限和の標準部分が一意に決まらないとき、その不定性自体が物理量になる。

06二本の線は同じ型

この回の二本は、別の話に見えて同じ主張をしている。

Nelson の拡散摂動級数
うまくいく範囲一時刻の密度最適打ち切りまで
切れる場所節(二時刻の相関)Borel 変換の特異点(負の g)
正の・実の範囲で埋めようとするとCauchy–Schwarz で不可能e^{−1/4g} の誤差が残る
埋めるもの負の確率(Wigner)虚部(側方 Borel 和)
それが運ぶ物理位相、干渉トンネル、崩壊率

どちらも、「正の実数の範囲で閉じようとすると曖昧さが残り、その曖昧さが物理量である」という形をしている。量子力学の位相と、トンネルの崩壊率は、どちらも「正の確率では書けない部分」の名前だった。

07正直な線

どこで線が切れるか
まとめ
  1. Nelson (1966) Phys. Rev. 150, 1079 / Grabert, Hänggi, Talkner (1979) Phys. Rev. A 19, 2440 / Nelson (2005) The mystery of stochastic mechanics
  2. Hudson (1974) Rep. Math. Phys. 6, 249 / Wigner (1932)
  3. Bender & Wu (1969, 1973) / Zinn-Justin (1981) / Dunne & Ünsal (2012) / Marino (2014) Lectures on non-perturbative effects
  4. スクリプト:scripts/nelson_sm.py、scripts/wigner_node.py、scripts/borel_stokes.py、scripts/anharmonic_resurgence.py(出力 *_out.txt)