物理を簡単にする 番外編 ② / 第9回の訂正
ζ(3) とカタラン定数 ── 反例は例外ではなく族だった
厳密値に、
\(\pi\) 以外の定数が出る
第9回の「整数と \(\pi\) しかない」には反例がありました。
ただし境目そのものは、動きませんでした。
第9回で「厳密値を全部集めたら、整数と \(\pi\) しかなかった」と書きました。そのとき「網羅的な調査ではない」と断りましたが ── 実際に反例がありました。しかも例外ではなく、一つの族でした。ただし、境目そのものは動きませんでした。
01反例その一 ── 黒体輻射に \(\zeta(3)\) が出る
空洞の中の光子の数密度は、厳密に次の形をしています。
$$n_\gamma = \frac{2\zeta(3)}{\pi^2}\left(\frac{k_BT}{\hbar c}\right)^3$$
\(\zeta(3) = \sum_n 1/n^3\)。自由場のボーズ積分から出る、まぎれもない厳密値です。近似は一つも入っていません。
\(\sum 1/n^3\) を 400 万項: \(\zeta(3) = \mathbf{1.202056903}\)(参考値と \(5\times10^{-11}\) 一致)
ところが \(\zeta(3)\) は、\(\pi\) の有理数倍ではありません。
| 値 | 閉じた形 | |
|---|---|---|
| \(\zeta(2)\) | 1.644934067 | \(\pi^2/6\) |
| \(\zeta(3)\) | 1.202056903 | \(\pi\) では書けない |
| \(\zeta(4)\) | 1.082323234 | \(\pi^4/90\) |
偶数だけが \(\pi\) の冪になります。 奇数は名前つきの新しい定数で、\(\zeta(3)\)(アペリーの定数)が無理数であることは 1978 年に証明されましたが、\(\pi\) との閉じた関係は知られていません。
02反例その二 ── 2 次元イジングにカタラン定数
第9回では「2 次元イジングの臨界指数は \(\nu=1\)、\(\beta=1/8\)、\(\eta=1/4\) ── 全部きれいな有理数」と書きました。ところが自由エネルギーそのものを見ると、話が変わります。
$$-\beta f = \ln 2 + \frac{1}{8\pi^2}\iint \ln\!\left[2-\cos\theta_1-\cos\theta_2\right]d\theta_1 d\theta_2$$
この積分の値は \(\;\dfrac{\ln 2}{2} + \dfrac{2G}{\pi}\;\) ── \(G\) はカタラン定数。
数値積分(\(3000\times3000\) 点) \(-\beta f = \mathbf{0.929695}\)
\(\ln2/2 + 2G/\pi\) \(-\beta f = \mathbf{0.929695}\)
差 \(= 3.9\times10^{-8}\) ── 7 桁一致
カタラン定数 \(G = \mathbf{0.915965594}\)
カタラン定数も \(\pi\) の有理数倍ではありません。それどころか ── 無理数かどうかすら証明されていません。
03これは例外ではなく、族だった
| 量 | 厳密値 | 含む定数 | 出どころ |
|---|---|---|---|
| 黒体の光子数 | \(2\zeta(3)/\pi^2\) | \(\zeta(3)\) | 自由場のボーズ積分 |
| 黒体のエントロピー | \(\propto \zeta(4)=\pi^4/90\) | \(\pi\) の冪 | 同上(偶数なので \(\pi\)) |
| 2 次元イジング臨界自由エネルギー | \(\ln2/2 + 2G/\pi\) | カタラン \(G\) | 可解模型 |
| 2 次元イジング自発磁化 | \((1-k^2)^{1/8}\) | 有理数の冪 | 可解模型 |
| デバイ模型の低温比熱 | \(\propto \pi^4/5\) | \(\pi\) の冪 | 自由場 |
| 3 ループの \(\beta\) 関数係数 | \(\zeta(3)\) を含む | \(\zeta(3)\) | 多ループ積分 |
最後の行が示唆的です。多ループのファインマン積分には \(\zeta(3)\)、\(\zeta(5)\) が普通に出ます(多重ゼータ値と呼ばれる族)。つまり反例は珍しいものではなく、ある高さから上では標準的でした。
第15回で「\(\beta\) 関数の係数 \(b_0=9\)、\(b_1=64\) は整数」と驚きました。ところが 3 ループの \(b_2\) には \(\zeta(3)\) が入ります。
「結合定数の走り方は単純な整数で決まる」は、2 ループまでの話でした。ここも第15回の記述を一段細かくする必要があります。
04主張を、正しく書き直す
訂正
× 「厳密値は整数・有理数・\(\pi\) の有理数倍しかない」
○ 「厳密値は必ず閉じた形を持つ」
| 値の型 | 出どころ | 例 |
|---|---|---|
| 整数・有理数 | 数え上げ・群論・位相 | \(N_c=3\), \(C_F=4/3\), \(b_0=9\) |
| \(\pi\) の有理数倍 | 自由場のガウス積分 | \(A/4\), \(-\pi/12\), \(\pi^2/60\) |
| 名前つきの定数 | 自由場でも高次/可解模型 | \(\zeta(3)\)、カタラン \(G\) |
| 代数的数 | 可解模型の指数 | \((1-k^2)^{1/8}\) |
| ────── ここから先 ────── | ||
| 閉じた形なし | 相互作用を実際に解いた答え | \(m_p/\sqrt\sigma\)、3 次元イジング \(\nu\) |
05境目は、動かなかった
\(\zeta(3)\) もカタラン \(G\) も、式で書けます ── 無限級数として定義されている。数値がいくらでも欲しい桁まで出せる。
一方 \(m_p/\sqrt\sigma = 2.13\dots\) は、数値でしか知られていません。級数も積分も、それを与える式が一つも書かれていない。
つまり第9回の分類の境目 ── 相互作用を実際に解いたかどうか ── は、そのまま生きています。直すべきだったのは「整数と \(\pi\) しかない」という言い方の方でした。
そして第9回の実務的な結論 ── 「量はいくつか」ではなく「いくつあるか」と問え ── も変わりません。整数を狙う理由は、\(\pi\) しか出ないからではなく、整数が数え上げから来るからでした。
06この訂正から持ち帰るもの
| やったこと | 効果 |
|---|---|
| 「例外なく」と書いた箇所を疑う | 網羅していない主張は、必ず反例が出る |
| 反例を探しにいく | 2 件見つかり、しかも族だった |
| 境目が動いたか確かめる | 動いていない ── 言い方だけが誤りだった |
番外編①(\(\tau\) 質量の誤差)と合わせて、本編には二箇所の上振れがありました。どちらも結論は変わらず、根拠の言い方が誤っていたという型です。
\(\zeta(3)\) が \(\pi\) の冪で書けないことは、証明されていません(無理数であることは証明済みですが、\(\pi\) との関係は未解決)。250 年探して見つかっていない、という状況証拠があるだけです。
02節の数値積分は対数特異点を含むため収束が遅く、主張しているのは 7 桁の一致です。
04節の「閉じた形を持つ」にも厳密な定義はありません(何を「閉じた」と呼ぶかは規約)。ただし \(\zeta(3)\) と \(m_p/\sqrt\sigma\) の間には「定義する式があるか」という明確な差があります。
そして ── この番外編もまた網羅的ではありません。「閉じた形を持つ」に対する反例が将来出る可能性は残っています。
03節の最後の行 ── 3 ループの \(\beta\) 関数に \(\zeta(3)\) が入る ── は、第15回の「境目は一本」をもう一段細かくします。群論・位相からは整数、自由場の低次からは \(\pi\)、高次からは \(\zeta\)、そして相互作用を解くと閉じた形が消える。 境目は一本ではなく、階段だったのかもしれません。
この文書は「物理を簡単にする」シリーズ番外編②です。本編第9回の記述(「厳密値は整数と \(\pi\) しかない」)の訂正を含みます。黒体輻射の光子数密度に \(\zeta(3)\) が現れること、オンサーガーの臨界自由エネルギーにカタラン定数が現れること、多ループ積分に多重ゼータ値が現れることは、いずれも確立した標準的な内容です ── 本シリーズが見落としていました。数値確認は kensho/calc09.py で行いました。\(\zeta(3)\) が \(\pi\) の冪で書けないことは証明されていません。「閉じた形」にも厳密な定義はありません。この番外編も網羅的ではなく、さらなる反例の可能性は残ります。