物理を簡単にする 第 8 回 / 第 III 部 厳密とは何か
厳密/制御された近似/制御されていない近似 ── 一つは改良できない
近似には、
三種類ある
「近似だから駄目」で切ると、厳密値への収束列まで捨ててしまいます。
そして「厳密」と「閉じた形」は別物でした。
ここまでずっと「1 % で合う」「15 % 以内」と書いてきました。それは近似です。 では厳密とは何か ── 調べてみると、近似には三種類あって、そのうち一つは原理的に改良できません。そして第 II 部で作ったものが、まさにそれでした。
01三種類ある
| 種類 | 中身 | 例 | 伸びしろ |
|---|---|---|---|
| 厳密 | 誤差がゼロ。近似ではない | アノマリー相殺、指数定理 | 改良の余地が無い |
| 制御された近似 | 誤差の形が分かっていて、ゼロに持っていける | 格子 QCD、カイラル摂動論 | 計算量を払えばいくらでも |
| 制御されていない近似 | 誤差がいくらか分からない | 構成子模型、バッグ模型 | 改良できない |
いちばん下と、上の二つとの差が決定的です。
第6回で作ったのは、いちばん下でした。
「1 % で合う」がなぜ 1 % なのか説明できないのが、その証拠です。次に良くする方法もありません ── パラメータをもう一つ足す以外に。
だから「これだと単なる近似だ」という不満は、正しいのです。ただし「近似だから駄目」で切ると、真ん中の行まで捨ててしまいます。真ん中は厳密値への収束列であって、近似の対義語ではありません。
02「厳密」と「閉じた形」は、別物
ここが、この回のいちばん大事なところです。
\(\pi = 3.14159265358979\dots\) に、近似は一つも入っていません。無限に続きますが、それは厳密に定まった一つの実数です。
同じように、陽子質量とストリング張力の比 \(m_p/\sqrt{\sigma} = 2.13\dots\) も、QCD が厳密に定義している一つの実数です。違うのは、短い式で書けるかどうかだけ。
| 量 | 厳密か | 閉じた形 | 中身 |
|---|---|---|---|
| \(\pi\) | 厳密 | あり | 円周率という定義がある |
| \(m_p/\sqrt{\sigma}\) | 厳密 | なし | QCD が定義している実数 |
| 構成子模型の 1 % | 近似 | ─ | そもそも別の量を計算している |
「厳密に一致させたい」と書くと、別の二つの願いが混ざります。
(i) 誤差ゼロで決まってほしい → 格子で原理的に達成できる
(ii) 短い式で書けてほしい → 3 次元以上では前例が一つも無い
03(i) はどこまで行けるか ── 値段を計算する
格子計算の誤差は \(\varepsilon \propto a^2\)、コストは \(\propto a^{-6}\)。つまり コスト \(\propto \varepsilon^{-3}\)。
| 目標精度 | コスト [flops] | 現実味 |
|---|---|---|
| \(10^{-2}\) | \(10^{19}\) | 達成済み |
| \(10^{-3}\) | \(10^{22}\) | 現実的 |
| \(10^{-4}\) | \(10^{25}\) | 現実的 |
| \(10^{-5}\) | \(10^{28}\) | 世界中の計算機を数年 |
| \(10^{-6}\) | \(10^{31}\) | 世界の計算力 300 年ぶん |
桁を 1 つ増やすたびに、計算は 1000 倍。 当面の壁は 4〜5 桁です。
ただしこれは「近似だから駄目」という話ではありません。誤差が制御されている ── どこまで行きたいかを言えば、いくら払えばよいかが計算できる。これが真ん中の行の意味です。
04第 II 部の方法を、この目で仕分け直す
| 方法 | 種類 | 次に良くする方法 |
|---|---|---|
| アノマリー相殺、\(N_c=3\) | 厳密 | 不要(誤差ゼロ) |
| 格子 QCD | 制御された近似 | 格子を細かくする(1000 倍で 1 桁) |
| カイラル摂動論 | 制御された近似 | 次の次数まで計算する |
| 構成子模型 | 制御されていない | 無い |
| バッグ模型 | 制御されていない | 無い |
| Gell-Mann–Okubo | 制御されていない | SU(3) 破れの 2 次は書けるが、係数が新しいパラメータになる |
これが三分類の実務的な使い方です。手元の計算が「制御された」側か「制御されていない」側かは、次の一手を言えるかどうかで分かります。
格子なら「格子間隔を半分にする」と言える。構成子模型では、言えることが「パラメータを増やす」しかない ── そしてそれは第2回の帳簿で、いちばん高い買い物でした。
05だから、目標は言い直せる
× 「近似ではなく厳密に一致させたい」
○ (i) 制御されていない近似を、制御された近似に格上げする
○ (ii) そもそも厳密になりうる問いを、先に見分ける
(i) の方は、やり方がはっきりしています ── 誤差の展開が書けるところまで戻る。
(ii) の方は、まだ何も分かっていません。どんな問いなら厳密な答えが返ってくるのか。次回はそれを、実際に厳密値を全部集めることで調べます。
03節のコスト外挿は \(a^{-6}\) という一つの仮定に依ります。アルゴリズムの改良(過去 30 年で \(10^{6}\) 倍あった)は勘定に入れていません ── 「壁」は動きうる、ということです。
04節の「制御されていない」という判定は、その模型が役に立たないという意味ではありません。構成子模型は暗算で 1 % に届きます。判定しているのは「次の一手があるか」だけです。
物理で厳密に成り立っているものを、全部集めます。すると驚くほどきれいな結果が出ました ── 例外なく、整数・小さい有理数・\(\pi\) の有理数倍。生の実数の厳密値は、一件もありません。
この文書は「物理を簡単にする」シリーズ第8回です。格子 QCD のコストスケーリングとカイラル摂動論の系統的改良可能性は標準的な内容です。「近似の三分類」と「次の一手があるかで判定する」という整理は本シリーズのもので、教科書の用語ではありません(「制御された近似」自体は分野で使われる言い方です)。数値は kensho/calc04.py で計算しました。03節の外挿はアルゴリズム改良を含んでいません。04節の判定は模型の有用性についてのものではありません。