物理を簡単にする 第 4 回 / 第 I 部「簡単」を測る(部の終わり)
摂動は儲かり、強結合は大損する ── 効率差は 7 倍
高いのは、
どこか
「もっと簡単にできないのか」の答えは、できる所ではもうやっている。
残っているのは \(\alpha_s \sim 1\) の一箇所だけでした。
「もっと簡単に計算できないのか」── その答えは、できる所ではもうやっているでした。残っているのは一箇所だけで、そこだけが桁違いに高い。この回でその場所を特定し、ついでに「簡単」の二つの意味が完全に分離する例を見ます。そして第 I 部の結論 ── 三つの通貨 ── にたどり着きます。
01領域ごとに、為替レートが違う
第2回で測った「精度ビット ÷ 計算コストビット」を、領域ごとに出します。
| 領域 | 精度/コスト | 収支 | 例 |
|---|---|---|---|
| 摂動論が効く(\(\alpha\) 小) | 2.03 | 儲かる | 量子電磁力学、電弱、高エネルギー QCD |
| 対称性で決まる | \(\infty\) | タダ | Gell-Mann–Okubo、アノマリー、指数定理 |
| 強結合(\(\alpha \sim 1\)) | 0.2〜0.33 | 大損 | 陽子質量、ハドロン、閉じ込め |
いちばん下の行が、この分野で「わけのわからない計算」と呼ばれているものの正体です。
02格子計算の値段を、実際に見積もる
格子 QCD は、時空を格子に切って数値的に解きます。格子の間隔を \(a\) とすると:
離散化の誤差 \(\sim a^2\)、計算コスト \(\sim a^{-6}\)
→ 誤差を半分にする(精度 \(+1\) ビット)のにコストは \(2^3 = 8\) 倍 = 3 ビット
→ 統計誤差ぶん(誤差 \(\sim N^{-1/2}\)、コスト \(\sim N\) = 2 ビット)も乗る
→ 実効レート 精度 1 ビットあたりコスト 3〜5 ビット
摂動論 2.03 ビット/ビット (1 払って 2 返る)
格子 0.2〜0.33 ビット/ビット (3〜5 払って 1 返る)
効率差は約 7 倍。
だから、摂動論が使えるところでは誰も格子を使いません。使えないところだけが残っている。
03だから、答えはこうなる
できる所では、もうやっています。
残っているのは \(\alpha_s \sim 1\) の領域だけで、そこだけが桁違いに高い。
これは怠慢の話ではありません。摂動論が使える場所では、人類はすでに 12,672 枚の図を描いています(第2回)。記法で圧縮できる場所では、1052 万枚を 1 項にしています(第3回)。残ったのは、そのどちらも効かない場所です。
04高いところを安くする道が、三つある
| 道 | 何を使うか | 何を犠牲にするか | 実績 |
|---|---|---|---|
| ブートストラップ | 整合性(交叉対称性+ユニタリ性)だけ | ラグランジアンも図も使わない | \(\nu\) を 7 桁 |
| 有効理論の階層 | 測った定数でループを置き換える | パラメータで払う | 数 % |
| 大 \(N\) 展開 | \(1/N_c = 1/3\) を小さいと見なす | 強結合を弱結合に化かす | 30 % |
05そして、ここで「簡単」が二つに割れる
一番上のブートストラップが、この回でいちばん面白いところです。
記述長は極端に短いのに、計算量は重い。
使う仮定は「クロッシング対称性とユニタリ性」の2 語。ラグランジアンも、粒子の一覧も、結合定数も要らない。
ところが実際に解くのは、数万本の制約を持つ半正定値計画です。
第1回で「三つの軸は独立」と言いました。ここでそれが完全に分離します。 短く言えることと、速く解けることは、別の資源です。ブートストラップは片方が極小で、もう片方が極大。
ブートストラップが特別なのは、値段の話だけではありません。これは「近似」ではない ── 出てくる誤差は、近似の誤差ではなく厳密な不等式の幅です。この違いが何を意味するかは、第 III 部(第8〜11回)で正面から扱います。
06第 I 部のまとめ ── 通貨は三つあった
| 通貨 | レート | 性質 |
|---|---|---|
| パラメータ | 5.37 ビット/個 | 増やせば予言が減る |
| 計算量 | 2.03 ビット/ビット | 増やしても予言は減らない |
| 対称性 | タダ | 使える所が限られる |
第 I 部の結論
第5回の天秤(記述長+ずれ)には、通貨が一つ足りませんでした。「パラメータいくつ」しか数えていなくて、「計算いくら」を数えていない。
同じ精度を出す二つの理論でも、片方が \(10^{19}\) flops 要るなら同じではありません。
そして ── 計算が「わけのわからない」ものになるのは、それがいちばん安い通貨だからです。 簡単にした分は、必ずパラメータか精度で払うことになります。
格子のスケーリング指数(\(a^{-6}\))は作用とアルゴリズムに依り、\(a^{-5}\)〜\(a^{-7}\) の幅があります。また過去 30 年でアルゴリズムの改良が \(10^{6}\) 倍あった事実は、この見積もりに入っていません ── 「壁」は動きうるということです。
そして最大の留保:計算量まで込みの記述長理論を、本シリーズは作れていません。コルモゴロフ複雑さと計算量の関係は、それ自体が未解決の分野です。
物差しができたので、実際の物理に当てます。強い力を四つの層に切ってみると ── 数 % までは全部が単純な計算で届き、格子 QCD が要るのは最後の数 % だけでした。
この文書は「物理を簡単にする」シリーズ第4回(第 I 部の終わり)です。格子 QCD のコストスケーリング(\(a^{-6}\))と摂動論の収束は標準的な内容ですが、それらを同じ「ビット/ビット」という単位で比べたのは本シリーズの整理で、教科書の主張ではありません。数値は kensho/calc01.py で計算しました。「三つの通貨」という言い方も本シリーズの独自の枠組みです。計算量を含む形式的な記述長理論は本シリーズでは作れていません。