物理を簡単にする 第 3 回 / 第 I 部「簡単」を測る
Parke–Taylor と Gell-Mann–Okubo ── どちらも払いがゼロ
記法だけで、
1052 万枚が 1 項になる
グルーオン 10 本の散乱、ファインマン図 1052 万枚。
答えは一行でした。しかも変数を取り替えただけ。
前回は「計算を増やせば精度が買える」でした。この回はその逆 ── 計算を減らす方です。しかも新しい物理は一つも使いません。変数の取り替えだけで、1052 万枚のファインマン図が 1 項になります。 そして同じことが、紙と鉛筆でスパコンに並ぶ例でも起きています。
01グルーオンの散乱は、図が爆発する
グルーオンが \(n\) 本、互いに散乱する。いちばん単純な(ツリーレベルの)計算をするのに、ファインマン図を何枚描くか ── その数は次のように増えます。
| \(n\) | 図の数 | \(\log_2\) | Parke–Taylor 公式では |
|---|---|---|---|
| 4 | 4 | 2.0 | 1 項 |
| 5 | 25 | 4.6 | 1 項 |
| 6 | 220 | 7.8 | 1 項 |
| 7 | 2 485 | 11.3 | 1 項 |
| 8 | 34 300 | 15.1 | 1 項 |
| 9 | 559 405 | 19.1 | 1 項 |
| 10 | 10 525 900 | 23.3 | 1 項 |
階乗より速く増えています。10 本で 1052 万枚。一枚 1 秒で書き写しても 4 か月かかる量です。
02ところが、答えは一行だった
1986 年、パークとテイラーが、この和の答えを書きました。
$$A_n = \frac{\langle ij\rangle^4}{\langle 12\rangle\langle 23\rangle\cdots\langle n1\rangle}$$
これで全部です。 \(n\) が何本でも、項は一つ。
圧縮率は \(1.1\times10^{7}\) 倍、ビットで言えば 23.3 ビット。前回のレート(計算 1 ビットで精度 2 ビット)で言えば、46 ビット分の精度をタダで手に入れたのと同じ効果です。
03何をしたのか ── 変数を取り替えただけ
ここが大事なところです。パークとテイラーは、新しい物理を一つも使っていません。
やったのは、運動量ベクトル \(p^\mu\)(4 成分の実数)を、スピノルの組 \(\lambda_a, \tilde\lambda_{\dot a}\) に書き換えたことだけです。質量ゼロの粒子なら \(p^\mu\) は \(p^2=0\) という条件を持つので、実質 3 自由度。スピノルで書けばその条件が自動的に満たされる。だから条件を持ち回らなくて済む。
この取り替えを「スピノル・ヘリシティ形式」と言います。記法の変更です。 ラグランジアンは同じ、粒子も同じ、予言も同じ。変わったのは、書き方だけ。
ファインマン図の一枚一枚はゲージ不変ではありません。合計してはじめて意味のある量になる。つまり 1052 万枚のうち大半は、互いに打ち消し合うために書かれています。スピノル・ヘリシティは、打ち消し合う項を最初から書かない書き方です。
04同じことが、質量の計算でも起きている
もう一つ、もっと古くて、もっと極端な例があります。1961 年のゲルマン–大久保の質量公式です。
$$\frac{m_N + m_\Xi}{2} = \frac{3m_\Lambda + m_\Sigma}{4}$$
左辺 \(=(938.92+1318.3)/2 = \mathbf{1128.61}\) MeV
右辺 \(=(3\times1115.68+1193.15)/4 = \mathbf{1135.05}\) MeV
相対差 0.567 % → 7.5 ビット
紙と鉛筆で 0.6 %。 格子 QCD がスパコンで 1 % を出すのに、こちらは筆算です。
そして使ったのは SU(3) の表現論だけ ── ダイナミクスを一切計算していません。「バリオンが 8 個で一組になる」という並べ方の性質だけから、質量の間の関係が出ています。
対称性は、計算せずに答えの一部を先取りする装置です。
Parke–Taylor も Gell-Mann–Okubo も、第1回の分類でいえば 記法の側。物理を変えずに、計算だけを減らしています。
05この二つは、同じ型の発見
| Parke–Taylor | Gell-Mann–Okubo | |
|---|---|---|
| 使ったもの | スピノル・ヘリシティ | SU(3) の表現論 |
| やったこと | 変数の取り替え | 並べ方の性質を読む |
| 新しい物理 | なし | なし |
| 新しいパラメータ | ゼロ | ゼロ |
| 減ったもの | 計算量 \(10^{7}\) 倍 | 計算量(暗算になった) |
どちらもタダです。前回の帳簿でいうと、払いがゼロで買いだけがある。これが「記法で下げる」の実体で、第1回で「実績あり」と書いた欄の中身です。
Parke–Taylor 公式が使えるのは MHV(最大ヘリシティ違反)と呼ばれる特別なヘリシティ配位で、一般の配位には BCFW 漸化式などの追加の道具が要ります。「1 項」は最も鮮やかな場合の話です。
Gell-Mann–Okubo の 0.567 % は厳密ではありません ── SU(3) の破れの 1 次までの関係で、なぜ 0.6 % なのかはこの式からは出ません。この違いは第 III 部(第8〜9回)で正面から扱います。
ここまでは「計算は安い」「記法で下がる」と良い話ばかりでした。次回は高いところを測ります。摂動論が 2.03 ビット/ビットで儲かるのに対し、強結合の格子計算は 0.2〜0.33。効率差は約 7 倍。そして「簡単」の二つの意味が、そこで完全に分離します。
この文書は「物理を簡単にする」シリーズ第3回です。グルーオン散乱のツリー図の枚数と Parke–Taylor 公式、Gell-Mann–Okubo の質量公式はいずれも確立した標準的な内容で、本シリーズの主張ではありません。新しいのはそれらを「計算量の圧縮」という一つの物差しで並べたことだけです。数値は kensho/calc01.py で計算しました。Parke–Taylor が 1 項になるのは MHV 配位に限られます。Gell-Mann–Okubo は厳密な関係ではありません(SU(3) 破れの 1 次まで)── この区別は第 III 部で扱います。