物理を簡単にする 第 1 回 / 第 I 部「簡単」を測る
記述長・計算量・前提概念 ── 三つは互いに独立でした
「簡単」には、
三つある
標準模型はマグカップに印刷できるのに、わかりにくい。
差は記号の数ではなく、前提概念の数にありました。
「物理をもっと簡単にしたい」── 誰もが一度は思うことです。ところがこの願いを実行しようとすると、すぐに困ります。何を減らせば「簡単」になったことになるのかが決まっていないからです。この回では、まずそこを決めます。答えは 三つあって、しかも互いに独立 でした。
01同じ言葉で、三つの別のことを言っている
標準模型のラグランジアンは、マグカップに印刷できます。実際に売っています。式は短い。それなのに誰も「標準模型は簡単だ」とは言いません。
逆に、\(F=ma\) は短くて、しかも簡単です。式の長さは似たようなものなのに、片方は簡単で片方は簡単でない。ということは「簡単」は式の長さのことではない、少なくともそれだけではない。
分けてみると、三つになりました。
| 軸 | 何を減らすか | 実例 |
|---|---|---|
| 記述長 | 法則と定数の数 | 統一。マクスウェル、電弱理論 |
| 計算量 | 解けるようにする | Parke–Taylor 公式、ブートストラップ |
| 前提概念 | 人が一度に抱える数 | ? |
三つ目の欄が空いているのは、書き忘れではありません。この軸には、まだ名前のついた実例がないのです。
02三つが独立であることを、数字で確かめる
「独立」というのは、片方を減らしても他方が減るとは限らない、という意味です。それを確かめるには、同じものを三つの物差しで測ればよい。物理の代表的な法則を、そうやって並べます。
| 法則 | 記号の数 | 計算量 | 前提概念の数 |
|---|---|---|---|
| \(F=ma\) | 3 | 1 演算 | 3 |
| \(F=Gm_1m_2/r^2\) | 5 | 3 演算 | 4 |
| マクスウェル 4 式 | 20 | 偏微分方程式 | 8 |
| シュレーディンガー方程式 | 8 | 偏微分方程式 | 10 |
| 一般相対論の場の方程式 | 12 | 非線形 PDE | 16 |
| 標準模型のラグランジアン | 100 | 摂動展開/格子 | 40 |
\(F=ma\) から標準模型までの伸び
記号の数 : \(3 \to 100\) (33 倍)
前提概念 : \(3 \to 40\) (13 倍)
計算量 : 1 演算 \(\to\) \(10^{19}\) flops (\(10^{19}\) 倍)
三つの倍率が、まったく違います。 33 倍、13 倍、\(10^{19}\) 倍。もしこれらが同じものを測っているなら、倍率はそろうはずでした。そろっていないので、三つは別の量です。
標準模型がわかりにくいのは、式が長いからではありません。 記号は 33 倍にしかなっていないのに、前提概念は 13 倍、計算量は \(10^{19}\) 倍。「わかりにくい」の中身は、記号の数ではなく、前提概念の数の方にあります。
03前提概念とは何か
「前提概念」を、はっきりさせておきます。その式を読むために、先に知っていなければならない考えの数のことです。
\(F=ma\) を読むのに要るのは、力・質量・加速度の三つ。どれも日常語で説明を始められます。
標準模型のラグランジアンを読むのに要るのは ── ゲージ群、表現、スピノル、ディラック共役、共変微分、場の強さ、非可換性、くりこみ、走る結合、自発的対称性の破れ、ヒッグス機構、湯川結合、CKM 行列、カイラリティ、アノマリー、ゴースト、ゲージ固定、経路積分、…。数え方に幅はありますが、四十個前後です。
この「四十個」は筆者が数えたもので、標準的な定義はありません。何を一つと数えるかで簡単に上下します。ただし 倍率が三つの軸でまったく違う という結論は、多少の数え方の違いでは動きません(13 倍と 33 倍と \(10^{19}\) 倍の差は、数え方の幅よりずっと大きい)。
04三つの軸は、下げやすさが違う
ここからがこのシリーズの本題です。三つの軸は、下げるのに要るものが違います。
| 軸 | 下げるには | 実績 | いまの状況 |
|---|---|---|---|
| 記述長 | 新しい物理が要る | 統一が起きるまで下がらない | 50 年停滞中 |
| 計算量 | 記法で下がる | Parke–Taylor で \(10^{7}\) 倍 | 実績あり |
| 前提概念 | 記法と順序で下がる | 誰もやっていない | 空いている |
記述長を下げるには、新しい発見を待つしかありません。実際 1973 年以来、待ち続けています(第16回で数えます)。
計算量は記法で下がります。実際に \(10^{7}\) 倍下がった例があります(第3回でやります)。
そして前提概念も記法で下がるはずなのに、誰も測っていないし、最適化していない。だから空いています。
三つの軸を、実際の物理に当てて測ります。第 I 部で物差しを作り、第 II 部で強い力に当て、第 III 部で「厳密とは何か」を決め、第 IV 部で「全部を整数の比にできないか」を検定します。数字はすべて、書く前にスクリプトを走らせて出しました。
05なぜ、この分け方が要るのか
分けないと、議論がすれ違うからです。
「格子 QCD は陽子の質量を 1 % で出す」と言われて、「でも \(10^{19}\) 回も計算するのは簡単じゃない」と思う。これは 記述長では簡単、計算量では大変 という話で、両方正しい。
「構成子クォーク模型なら暗算で 1 % に届く」と言われて、「でも構成子質量なんて意味不明な定数を持ち込んでいる」と思う。これは 計算量では簡単、記述長では高い という話で、これも両方正しい。
三つの軸を分けておけば、どちらが正しいかを争わずに済みます。 何と何を交換したのかを、そのまま書けばよい。
三つの軸のうち、計算量から測ります。電子の \(g-2\) を使うと、「計算を 1 ビット増やすと精度が何ビット買えるか」という為替レートが実際に出ます。そしてそれをパラメータの値段と比べると、計算がいちばん安い通貨だと分かります。
この文書は「物理を簡単にする」シリーズ第1回、物理好きの高校生・大学生向けの読み物です。「前提概念の数」は本シリーズの独自の物差しであって、標準的な用語ではありません ── 数え方には恣意性があり、絶対値は当てになりません。要点は三つの軸の倍率が違うことで、それは数え方の幅より大きい差です。02節の表の数値は kensho/calc01.py と calc07.py で計算しました。本シリーズは既存の物理に新しい主張を加えるものではありません ── 扱う物理はすべて確立した標準的な内容で、新しいのは測り方の方です。