第2回で置いた伏線を回収する ── その 1/137 すら、実は固定値じゃなかった
第2回で、微細構造定数 \(\alpha\approx 1/137\) は「宇宙のどこの誰が測っても同じ、変わらない数」だと言いました ── そのとき、末尾の但し書きに小さな爆弾を仕込んでおきました。「実は \(\alpha\) は、見る細かさ(エネルギー)によって少しだけ値が変わる」。今回はその伏線を回収します。1/137 は、いちばん粗く見たときの値にすぎない。この事実は、「なぜ 1/137 なのか」という究極の問いの立て方そのものを変えてしまいます。ここから先、シリーズは初めて「まだ誰も答えを知らない領域」に足を踏み入れます。
電子はマイナスの電気を帯びています。ところが、電子の“すぐそば”を見ると、話はそう単純ではありません。量子の世界では、何もない真空にも、ごく短い時間だけ「電子と反電子(陽電子)のペア」がふっと現れては消える、というゆらぎが絶えず起きています。この現れたペアが、元の電子のまわりで向きをそろえて並び、まるで薄い衣のように電子の電気を少しだけ隠して(遮蔽して)しまう。
だから遠くから(=粗く)見ると、電子の電気はこの衣で少し弱められて見える。ところが、うんと近づいて(=細かく)見ると、衣の内側に入り込むので、隠されていない本当の、より強い電気が見えてくる。近づくほど電気が強く見える ── これが「電子はかすんでいる」の意味です。
\(\alpha\) は電子の電気の強さを表す数(第2回の \(\alpha=e^2/4\pi\varepsilon_0\hbar c\)、\(e\) は電気の量)。電気が強く見えれば \(\alpha\) も大きくなる。前節の通り、細かく(高エネルギーで)見るほど電気は強く見えるので ──
粗く見る(低エネルギー、ふだんの世界)→ \(\alpha \approx \dfrac{1}{137}\)
細かく見る(高エネルギー、\(Z\)粒子の重さ 約91 GeV あたり)→ \(\alpha \approx \dfrac{1}{128}\)
\(1/137\) と \(1/128\)。小さな差に見えますが、これは測定で確かめられた事実です。粒子加速器で電子を高エネルギーでぶつけると、確かに \(\alpha\) は \(1/128\) 側の、より大きな値になる。物理では、こういう「見る細かさで値が変わる量」を走る(running)結合定数と呼びます。定数なのに走る、という第4回・番外編でも見た“名前と実態のずれ”が、 here にもあります。
二つの値を小数で
$$\frac{1}{137}\approx 0.00730,\qquad \frac{1}{128}\approx 0.00781$$増えた割合
$$\frac{0.00781-0.00730}{0.00730}\approx 0.07 = 7\%$$粗く見たときから細かく見たときへ、\(\alpha\) はおよそ7%大きくなった。「変わらない定数」どころか、見る細かさを変えるだけで1割近く動く。下の図で、エネルギーを上げていくと \(\alpha\) が育っていく様子を、実際に動かしてみましょう。
ここが前編の結論です。\(\alpha\) が見る細かさで動くのなら、「なぜ \(\alpha\) は \(1/137\) なのか?」という問いは、少し素朴すぎたことになります。\(1/137\) は「ふだんの粗い世界での値」という、たくさんある値のうちの一つにすぎないから。正しく問い直すと、こうなります。
× 「なぜ \(\alpha\) は \(1/137\) なのか」
○ 「\(\alpha\) が細かさとともにどう走るか(走り方のルール)と、それをある一点で固定する値は、どこから来るのか」
つまり本当に問うべきは、たった一つの数字ではなく、「走り方」そのもの。値は細かさで変わるけれど、「どういうルールで変わるか」は、その細かさによらない、もっと深いもの ── そここそが「変わらない本質」の候補です。第1回からこのシリーズが繰り返してきた「単位や見方で動く表面の値ではなく、その裏にある不変な構造こそが物理」という考えが、\(\alpha\) の謎の入口でも、そのまま効いてくる。
\(\alpha\) の「走り方のルール」は、理論(場の量子論)から計算できます。そこは分かっている。でも、その走り方をある一点で固定する値そのものが「なぜその値か」は ── まだ誰も答えを知りません。かつて偉大な物理学者エディントンが \(137\) を理論だけから導こうとして失敗して以来、100年近く未解決のままです。
このシリーズはここで初めて、「わかる」の外側に出ます。でも収穫はありました ── 問いを「なぜ 1/137 か」から「走り方と、その固定点はどこから来るか」へと、正しい形に立て直せた。良い問いは、答えの半分です。
真空のゆらぎが電子の電気を薄く隠すため、細かく(高エネルギーで)見るほど電気は強く見え、\(\alpha\) は \(1/137\) から \(1/128\) へと約7%育つ。\(\alpha\) は「見る細かさで変わる、走る量」だった ── 第2回の但し書きに仕込んだ伏線の、正体です。
だから「なぜ \(1/137\) か」は問いとして素朴すぎた。正しくは「走り方のルールと、それを固定する値はどこから来るか」。値は動くが、走り方は深い ── このシリーズが一貫して探してきた「表面ではなく、その裏の不変な構造」が、\(\alpha\) の最大の謎の入口にも、ちゃんと顔を出していました。良い問いに立て直せたところで、前編を閉じます。
印刷 / PDF 化:⌘+P(Windows は Ctrl+P)。画面ではスライダーでエネルギーを上げると α が育ちます。「答えを見る」で解答が開きます。