前回:光は昔もっと速かった → 今回:その但し書きの主役、1/137 を主役に
前回、宇宙膨張を「光速がゆっくり遅くなる」と読み替えました。そのとき最後の但し書きで、ひとつだけ絶対に動かない数が登場しました ── 微細構造定数 \(\alpha\approx 1/137\)。光速も、長さも、エネルギーも、測り方しだいで値が変わってしまうのに、この \(\alpha\) だけは誰がどんな単位で測っても \(1/137\)。今回は、この不思議な数が原子の中の「速さの比」として顔を出すところを、自分で計算して確かめます。
水素原子は、真ん中の陽子のまわりを電子が1個回っている、いちばん簡単な原子です。ボーアという物理学者が作った素朴なモデルでは、いちばん内側を回る電子の速さ \(v\) は、光速 \(c\) を使ってこう書けます。
つまり電子は、光速のちょうど 137分の1 の速さで回っている。秒速にすると約 2200 km/s ── ものすごく速いけれど、光の速さ(秒速30万km)に比べれば 137分の1。この「137分の1」という比の名前が、微細構造定数 \(\alpha\) です。数式で書くと、いろいろな基本定数の組み合わせでできています。
$$\alpha = \frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0\,\hbar\, c}$$\(e\) は電子の電荷、\(\varepsilon_0\) は真空の性質を表す定数、\(\hbar\) はプランク定数(量子の世界の基本単位)、\(c\) は光速。ぱっと見こわいですが、大事なのはこれ全部を掛け割りすると、単位が消えてただの数になること。次のSTEPでそれを確かめます。
物理では「単位のつく量」と「単位の消えた数」は、格が違います。単位が消えた数(無次元量)は、メートルを使おうがインチを使おうが値が変わらない ── 宇宙のどこの誰が測っても同じ。\(\alpha\) がその仲間だと、自分の手で確かめましょう。
使う値(SI単位)
\(e = 1.602\times10^{-19}\ \mathrm{C}\)、 \(\varepsilon_0 = 8.854\times10^{-12}\ \mathrm{F/m}\)、 \(\hbar = 1.055\times10^{-34}\ \mathrm{J\cdot s}\)、 \(c = 2.998\times10^{8}\ \mathrm{m/s}\)。
分子と分母を別々に
$$\text{分子}=e^2=(1.602\times10^{-19})^2 \approx 2.566\times10^{-38}$$ $$\text{分母}=4\pi\varepsilon_0\hbar c \approx 4\pi(8.854\times10^{-12})(1.055\times10^{-34})(2.998\times10^{8})$$分母を順に計算すると \(\approx 3.517\times10^{-36}\)。よって
$$\alpha = \frac{2.566\times10^{-38}}{3.517\times10^{-36}} \approx 7.30\times10^{-3} = \frac{1}{137}.$$単位はどうなった?
分子は \(\mathrm{C^2}\)、分母は \(\mathrm{(F/m)(J\cdot s)(m/s)}\)。\(\mathrm{F=C^2/J}\) を思い出して約分していくと、すべての単位がきれいに消えます。残るのは純粋な数 \(1/137\) だけ。メートルをフィートに変えても、この値は1ミリも動きません。
\(\alpha=v/c\) には、もうひとつの読み方があります。物が光速に近づくと、アインシュタインの相対論の効果(時間の遅れなど)が効いてきます。逆に光速よりずっと遅ければ、相対論は無視できる。その「相対論がどれくらい効くか」の目安が、まさに \(v/c\) です。
水素原子の電子は \(v/c=\alpha=1/137\)。つまりほんの少しだけ相対論的。この「ほんの少し」が、原子から出る光の色を、ごくわずかに分裂させます(微細構造)。分裂の大きさは、だいたい \(\alpha^2\) で効きます。手を動かしてみましょう。
相対論補正の目安
$$\left(\frac{v}{c}\right)^2 = \alpha^2 = \left(\frac{1}{137}\right)^2 = \frac{1}{18769} \approx 5.3\times10^{-5}$$およそ2万分の1。原子のエネルギーのうち、相対論のせいで生じる細かなズレは、この程度の割合しかない、という見積もりです。小さいけれど、精密な分光器ならちゃんと見える ── これが「微細構造」と呼ばれる、スペクトル線の細かい分裂の正体です。1/137 という比が、そのまま光の色の細部に刻まれています。
ここが今回のいちばん大事なところ、そして前回の但し書きの本丸です。原子の「大きさ」や「電子の速さ」そのものは、実は測り方(単位の取り方)しだいで動きうる量です。ところが、それらの比を取ると、動く部分がきれいに打ち消し合って、\(\alpha\) という不動の数だけが残る。
たとえば、原子の大きさの目安「ボーア半径 \(a_0\)」と、電子のもうひとつの基本的な長さ「コンプトン波長 \(\lambda_C\)」。この二つの比を取ると、
$$\frac{\lambda_C}{a_0} = \alpha \approx \frac{1}{137}.$$それぞれの長さは、光速や単位の取り方に依存して動きます。でも比にした瞬間、単位も、動く部分も消えて、\(1/137\) だけが顔を出す。前回「光速が遅くなっても \(\alpha\) は不変」と言ったのは、まさにこれ ── \(c\) が動いても、それに連れて他の定数も動き、比である \(\alpha\) は動かないのです。
単位のついた量(光速・長さ・エネルギー)は「測る人の帳簿」しだいで動く。単位の消えた比 \(\alpha\) は「宇宙そのものの性質」で、誰が測っても \(1/137\)。物理が本当に問えるのは、後者だけ。
\(\alpha\) がなぜちょうど 1/137 なのかは、実はまだ誰も分かっていません。物理学の最大級の謎のひとつです。過去に偉大な物理学者(エディントン)がこの数を理論だけから導こうとして、華々しく失敗しました。今のところ \(\alpha\) は「測って決める入力値」であって、より基本的な何かから計算で出せてはいません。
さらに正直に言うと、\(\alpha\) は「見る細かさ(エネルギー)」によって少しだけ値が変わります(高エネルギーでは \(1/137\) ではなく約 \(1/128\))。だから厳密には「\(1/137\) は、いちばん粗く見たときの \(\alpha\) の値」。この“走る”話は、シリーズの後の回で扱います。
「\(\alpha\) は動かない」と言うからには、確かめた実験があるはずです。あります。種類のちがう原子時計をならべて、長い時間その進み方の比を比べる、という精密実験です。もし \(\alpha\) が少しでも動けば、時計どうしのリズムがずれていくはず。
最新の実験が出した答えは、\(\alpha\) の変化は1年あたり \(10^{-19}\) より小さい。これは「1年で1兆分の1の、さらに1億分の1」より小さい、という途方もない精密さです。前回の宇宙(光速が1年で \(7.2\times10^{-11}\) の割合で変わる)を思い出すと ── もし \(c\) だけが変わって他が動かなければ \(\alpha\) も同じ割合で動くはずで、この実験に一瞬で反する。だから前回の宇宙は「\(c\) が動くなら、他の定数も連れて動いて \(\alpha\) は不変」でなければならない。今回の話が、前回の但し書きの根拠そのものになっています。
光速も、長さも、エネルギーも、測り方しだいで動く「帳簿の数」。けれど \(\alpha=v/c\approx 1/137\) は、それらの比として、誰が測っても、いつ測っても、同じ ── 原子の中に刻まれた、宇宙そのものの数です。第1回で「光が遅くなっても \(\alpha\) だけは動かない」と言ったその主役を、今回は原子の中に見つけました。
そして最大の謎は残ります。なぜ、ちょうど 137分の1 なのか。 誰もまだ答えを知りません。あなたが将来それを解くのかもしれない ── 物理は、そういう開いた扉を、ちゃんといくつも残してくれています。
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