わかる宇宙論 ── 同じ音楽を、二つの媒体で
夜空の遠くの銀河ほど、色が赤みを帯びて見える。遠いものほど赤い。これは観測された事実です。ふつうの教科書は、これを「空間そのものが伸びているから」と説明します。ただ、その説明はいつも但し書きだらけになる ── 銀河が動いているのではなく間の空間が増える、遠方では後退が光速を超えるが相対論には反しない……。入れ物である空間が伸びるという絵は、私たちの日常の感覚と正面からぶつかるからです。
そこで、もっと安い言い方を試します。舞台(空間)は動かさない。代わりに、光の足の速さのほうを変える。
こう考えてみてください。宇宙が若かったころ、光は今よりずっと速く進んでいた。歳をとるにつれて、光はだんだん遅くなってきた。今日の光速を基準にすると、宇宙の年齢を t として、いつの時代も「光速 × 年齢」がほぼ一定に保たれている ── そんなイメージです。
遠くの銀河の光は、はるか昔、光がまだ速かった時代に放たれました。その光が、光速の遅くなった今の私たちに届く。速かったころの波が、遅い今に合わせて間延びして受け取られる ── これが「赤くなる(赤方偏移)」の、いちばん素朴な絵です。遠いほど昔、昔ほど光が速かった、だから遠いほど赤い。話が一本の線でつながります。
「宇宙が始まってから今まで、光はどれだけ遠くまで届けたか?」── これを見渡せる範囲、宇宙の地平線と呼びます。光が速かった昔ほど、1年あたりに稼げる距離は大きい。だから初期の宇宙では、光はごく短い時間で途方もなく遠くまで手を伸ばせた。宇宙のあちこちが、生まれてすぐにお互い「連絡を取り合えていた」ことになる。
これは、宇宙のどこを見てもほぼ同じ温度(宇宙マイクロ波背景放射)であることの、素直な説明になります。連絡を取り合えたのだから、温度がそろっていて不思議はない。空間膨張の言葉だと「地平線問題」という難物として語られる話が、光速の言葉だと「昔は光が速かったんだから当然」で済んでしまう。
理由は宇宙の側ではなく、私たちの頭の側にあります。人間は「舞台は動かない、その上で物が動く」という前提を、気の遠くなる時間をかけて脳に刻んできました。だから「入れ物がふくらむ」より「動くものの速さが変わる」ほうを、はるかに安く想像できる。速い・遅い・遅れて届く・昔は速かった ── どれも子どもでも持っている言葉です。
「c · t = 一定」で膨張を語ると気持ちがいいのは、それが人間の認知のデフォルトに合わせた座標だから。計算する人にとっても、この見方(空間を固定して時間側に膨張を押し込む「共形時間」)は、光の伝播をまっすぐな線として扱えるので実際に便利で、数値宇宙論の現場でも使われています。わかりやすさは、気のせいではありません。
ただし ── ここがいちばん大事なところです。「わかりやすい」と「本当にそうである」は、別のことです。
光速のような「単位のついた定数」は、何を基準に測るかを決めない限り、「変わった」と言っても物理的な意味を持ちません。物差し自身が一緒に伸び縮みして、変化は打ち消し合ってしまうからです。
実際、その場で測る光速はいつでも c で一定。変わって見えるのは、遠くの座標から眺めた「座標上の速さ」だけ。そして原子の世界を支配する無次元の比(微細構造定数 α ≈ 1/137)は、この描像でもびくとも動きません。だから原子時計も、あなたの物差しも、何も壊れない。
つまり「光が遅くなる」は、宇宙が本当にそうなっているという主張ではなく、同じ物理を人間が一番安く飲み込むための投影です。優秀な補助線であって、真実の看板ではない。
この但し書きを外して「宇宙では光速が本当に遅くなっている」と広めてしまうと、聞いた人は誤解を持ち帰ります。わかりやすさで真実を買おうとした瞬間に、話は間違いに変わる。だからこの読み物は、わかりやすい語りと、この一枚の但し書きを、いつも一緒に持ち歩きます。
同じ一つの演奏を、レコード(連続)でも、CD(離散)でも持つことができます。音楽そのものは一つ。媒体が二つあるだけです。「空間が伸びる」と「光が遅くなる」も、これと同じ ── 同じ宇宙を、二通りに記録した盤にすぎません。
部屋で聴くぶんには、どちらが本物かを言い当てることはできない。区別が問題になるのは、人間には聞こえない高い音の、そのまた端っこだけ。だから安心して、好きな盤で聴けばいい。わかりやすいほうで宇宙を理解することは、片方しか知らないより、ずっと豊かなことです。
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